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会報173号(新刊紹介)
安河内英光・馬塲弘利 編著
『ポストモダン・アメリカ──一九八〇年代のアメリカ小説』
(開文社出版,2009 年,2,940 円)
1980 年代が回顧・研究の対象となってきた。本書は福岡アメリカ小説研究会の成果で,『60 年代アメリカ小説論』(2001 年)の続編といえる。扱われる小説家は,R・カーヴァー,B・A・メイソン,J・アーヴィング,R・フォード,B・E・エリス,P・オースター,D・デリーロ,R・パワーズ,S・エリクソン,A・ウォーカー,L・アードリック。60 年代のラインナップに比べると,80 年代の小説は技巧的にも,作家の文化背景においても多種多彩なことが見てとれる。
その多様性を読み解く視座が,タイトルにある「ポストモダン」だ。いわゆるポストモダン小説に代表される虚構世界や小説装置を指すのではなく,80 年代の文化・政治・社会状況の総称であり,ジェイムソン的後期資本主義の世界,レーガン政権の経済政策と政治風潮がもたらしたメディア先導型ポスト工業主義的大量消費社会,健忘症的保守閉塞社会である。60 年代に小説がポストモダン的ヴィジョンを啓示したのに対し,80 年代の小説家はポストモダンな状況に対抗するため銘々の技巧を駆使することになる。
二つの世代のコントラストは,ニュー・リアリズムの戦略性に顕著だ。例えば,80 年代の文学批評にはリアリズムを反動的小説美学として退ける風潮があったという。ところが,グレッグ・ベヴァン論文は,避けられない死という現実を拒絶するテーマパーク的イデオロギーが支配するアメリカ郊外こそ,保守と反リアリズムが結合する逃避の場であって,フォードのリアリズム・スタイルは,保守的現実容認どころか現実への対抗手段に他ならないと主張する。
本書は 80 年代アメリカ小説の多様性を網羅すると同時に,スタイルの異なる作品間に共通するモチーフを浮上させる。フォードやエリスとは対照的な手法で「シミュラークル化した死」を描く,デリーロの『ホワイト・ノイズ』を扱う下條恵子論文は,脱工業化社会の環境汚染という<終末の物語>を,没落史観的歴史意識に重ねる。
80 年代の/への歴史意識こそ本論集最大の焦点だろう。扱われる小説の過半数は家族史としての側面があり,各論文は家族の来歴とアメリカの歴史・神話とが絡み合うさまを照射する。とりわけ,ウォーカーとアードリック論では,歴史を知ること・語ることが,周縁に置かれた者の自己確立に寄与する過程が明らかにされ,オースターとエリクソン論は西漸運動の終着点,アメリカの夢の彼岸としての西海岸から夢想される風景に創造的希望を見出す。
吉田恭子(慶應義塾大学)
波戸岡景太 著
『オープンスペース・アメリカ 荒野から始まる環境表象文化論』
(左右社,2009 年,1,890 円)
「オープンスペース」とは何か。荒野,辺境,フロンティア,といったイメージに置き換えられつつも捉えがたいアメリカ西部の広大な「空間」について,著者は環境批評の視点から答えを探る。著者自身「オープンスペースという概念の,果てしのない翻訳活動」(29)と述べているが,まさに本書はイメージを積み重ねることによって対象を語るという実験的な文化論である。
第 1 章「ゴーストタウンのある風景」は,ポストウェスタン時代のアメリカ西部にまつわるファンタジーの歴史をたどる。つづく第 2 章「オープンスペースの想像力」では,西部,辺境,フロンティアなどに関わる様々な映像・文学作品の考察を通して,1970 年代以降西部がパロディとしてしか表象され得なくなっている状況が語られる。第 3 章「荒野のエコクリティシズム」では,著者の研究の軌跡をたどる中で,「ポスト環境批評」とも言うべきこれからの環境批評のあり方が示唆される。
本書の特色としてまず挙げられるのは,とめどなく繰り出される膨大なイメージである。特に第 2 章では,タランティーノ,ヴェンダースから始まり,ベストウェスタン・ホテル,ピクサー・アニメーション,エドワード・アビー他様々なトピックを経由してトマス・ピンチョンへと向かう。ジャンルを超えたイメージを連想的に連ねていくことによって,著者は定義しがたい「オープンスペース」そのものを浮かび上がらせるのである。
本書のさらなる醍醐味は,文化論でありながら同時にパーソナルな記録でもあるという,その構成の妙である。本書で展開される環境表象文化論の合間には著者の留学中の個人的な経験がエッセーのように差し挟まれる。ネヴァダ大学リノ校での教授陣とのアットホームなやり取りやアメリカ滞在中のエピソードが多く盛り込まれており,「留学記」として読んでも面白い。このような構成は一見研究書とエッセーが混じったような錯覚を与えるが,読み進めていくうち,それが実は環境批評に対する著者の姿勢と関係していることに気づく。第 3 章ではピンチョンのポストモダン小説を環境批評の視点から読み直すという著者の研究が紹介されるが,例えば『ヴァインランド』をネイチャーライティングとして読むという研究発表のため,著者は実際に北太平洋岸の森林を見に行く。「虚構」と「現実」の環境を結びつけるという著者の学問上の試みが,実践されているのである。個人的経験にこだわる著者の姿勢は,「人間の環境に対する暴力を断罪する」というありふれた図式を回避する。核施設や環境破壊といった問題に目を向けつつも,本書の根底にあるのは,西部,自然,あるいは「オープンスペース」に対する著者自身の愛情であり,郷愁なのである。
最後にもう一つ加えたい本書の魅力は,そのスピード感である。ゴーストタウンを時折通り過ぎながら西部の荒野を疾走する車窓から眺めるように,本書では西部にまつわる様々な文化的・社会的イメージが次から次へと目の前に繰り出されてゆく。著者の軽快な語り口で埋められる紙面の向こうに広がる「オープンスペース」からは,ネヴァダの熱く乾いた風が感じられるのである。
新井景子(武蔵大学)
山下 昇 編著
『メディアと文学が表象するアメリカ』
(英宝社,2009 年,3,990 円)
二十一世紀も十年を過ぎ,メディアをめぐる議論は加熱する一方だと言っていい。一方では,「ニューメディア」が提示する新たな共同性の可能性,また他方では,それらのメディアと接続される身体をめぐる思考という,マクロとミクロ双方の次元での議論を喚起しながら,メディアという問題系はあらゆる分野に浸透しつつある。そうしたなか登場した本書は,アメリカ文学のみならず文学研究にとって,メディアという視座がもはや不可欠であることを物語ると同時に,時代やジャンル面での幅広さも兼ね備え,また文学を論じる際のアプローチの多彩さも十二分に示した論文集である。
本書は二部構成を取っている。第一部は文学テクスト自体のメディア性や,テクストに現れるメディア観を精緻に検討する論考が並ぶ。ホーソーンがイングランドに向ける眼差しと視覚メディアの関わりを論じた入子文子論文から始まり,森岡裕一論文は,禁酒運動と飲酒の観点から『アンクル・トムの小屋』を論じる。また,出版メディアとの関わりに着目した論として,『大統領の娘』を十九世紀の人種意識から考察する石田依子論文や,ギルマンによる雑誌運営と小説におけるメディア戦略を論じた石塚則子論文が続き,秋田淳子論文は『レディーズ・ホーム・ジャーナル』において女性文化から電話が排除されていることを論じる。さらに,『ライ麦畑でつかまえて』での交通メディアとしての車の持つ役割に光を当てた丹羽隆昭論文,デリーロの『墜ちていく男』が見せるメディアへの視座を「灰」の形象を手がかりとして論じる渡辺克昭論文が第一部を締めくくる。
第二部においては,文学から諸メディアに視点を移すダイナミックな論考が揃う。ポー作品の映画化の試みを概観する西山けい子論文,ヘミングウェイとターザンというナショナル・アイコンの交点を「アフリカ」に見る塚田幸光論文など,映像メディアを絡めた論から始まる。森あおい論文は『ビラヴィッド』の映画化のみならずオペラ化の過程を検証し,一方,片渕悦久論文はフォアの小説とその映画化,そして作者のウェブサイトにおける作者機能の変化を論じる。さらに,ダン・クワンの舞台パフォーマンスにおける,メディアと身体の関係を考察した山本秀行論文や,ディランとコーエンが詩を音楽に解放することを論じた田口哲也論文に続き,「スポークンワード」の系譜をホイットマンからギンズバーグに見るヤリタミサコ論文が充実した本書の末尾を飾る。もとより,「メディア」という概念を一義的に捉えることなど不可能であり,各論文において,メディアとして扱われる対象も,各論でのメディア観,文学観も大きく異なっている。しかし,それは欠点として考えられるべきではない。むしろ,メディアと文学をめぐる多様性を提示することで,本書は文学研究が持ちうる豊かな可能性を示していると言えるだろう。
藤井 光(同志社大学)
栗原涼子 著
『アメリカの第一波フェミニズム運動史』
(ドメス出版,2009 年,4,000 円)
本書を一言で表現すると,第一波フェミニズム運動に関するヒストリオグラフィーである。膨大な資料をまとめあげた栗原氏の努力と力量にまずは敬意を表したい。著者はこの書の目的を,第一波フェミニズム運動を支えた 19 世紀後半から 1920 年代までの思想とその時代背景を明らかにすることだとしている。栗原氏が 1993 年に著した『アメリカの女性参政権運動史』での関心が主に運動そのものに向けられていたのに対し,本書では更に踏み込んで革新主義時代の政治体制や社会主義運動も考察の対象としていることが新しい。
分析には二つの切り口がある。一つは政治体制を視点とする分析。近代資本主義体制を擁護する「改革運動」とするか,あるいはそれを否定する「急進的運動」だったとするもの。もう一つはフェミニズム思想の二つの流れ,すなわち本質主義的ジェンダー観と平等主義的ジェンダー観による分析である。これらの切り口で第一波フェミニズム運動を概観してみると,実に多様な運動体であることが明らかになる。
本書の構成はこれらの切り口に従い,第一章には「婦人キリスト教禁酒同盟(WCTU)」と「女性クラブ運動」が,第二章と第三章には「労働運動と女性」「女性と社会革命運動」があてられる。とりわけ私が興味深く読んだのは,WCTU とその会長フランシス・ウィラードの活動であった。19 世紀後半のアメリカにおいて女性組織としては最大となった WCTU の活動を可能にしたのは,アイルランド系移民の女性たちが中産階級の女性たちの家事労働の軽減に貢献したという歴史的事実。何よりも「家庭を守るため」という WCTU のスローガンが,女性参政権などの政治的要求,さらに労働者階級の女性たちの問題に取り組む姿勢に結びつくおもしろさがある。フェミニズム思想の二面性(男女の平等を求めつつ,女性の特性も求める)を併せ持つこの運動は,「女性の領域」のイデオロギーがなぜ女性たちを政治的領域にまで踏み込ませ,第一波フェミニズム運動へと結実させたかという疑問を解きほぐしてくれる典型と言えよう。
評者が注目してきた近代過渡期のフェミニストの思想家,シャーロット・P・ギルマンも,この「差異と平等」の二面性の間で揺れ動いた。しかし,フェミニズム思想は「差異と平等」という二項対立ではくくることのできないダイナミズムも持つ。本書でも取りあげられたナンシー・F・コットの『女の絆(The Bonds of Womanhood)』の絆(bonds)が,「結束」と「束縛」の二重の意味を持つことは周知のことである。女性を縛るはずの家庭という「女性の領域」がフェミニズムの萌芽をうながすというコットの主張は,本書においても核心となっている。第一波フェミニズムとは,多様な階級の女性たちを巻き込み,ジェンダーを基盤にこれらの女性たちを結束させえた運動だったと言える。歴史を突き動かす力は「同質的」世界からではなく「多様性」を包括する世界にこそ存在するのだ。この瞠目の書を,アメリカ女性史だけではなく多方面の研究者にお勧めしたい。
山内 惠(津田塾大学)
藤本龍児 著
『アメリカの公共宗教──多元社会における精神性』
(NTT 出版,2009 年,2,800 円)
アメリカの精神性を宗教的な側面から問う論考としては,ロバート・ベラーの市民宗教論や,ベラーを継承した森孝一の「見えざる国教」論がまず思い浮かぶ。これら市民宗教論は,かのトクヴィルが,個人の信仰とは区別された,公的領域における宗教に目を向けたことに端を発する。
公的領域における宗教には両極がある。一方には国教や公定教会といった,見える制度があり,他方では習俗や慣習に根付く文化としての制度,見えない制度がある。公的領域における宗教はこれら両極のあいだのどこかに位置づけられるものである。
藤本の論考は,市民宗教論の枠組みを検証し,現代のアメリカでより妥当性のある宗教論を打ち立てることにある。氏は従来の理論的枠組みと自からの理論との区別を明確にすべく,あえて既存の用語である市民宗教を用いず,これをかのフランクリンに倣い,公共宗教と言い換える。
藤本の見るところでは,多元化するアメリカ社会には,従来型の市民宗教論は必ずしも当てはまらないという。たとえ国民の圧倒的多数が神の存在を信じているにせよ,その神に投影されるイメージはすでに多様である。従来の理論が前提としてきた,国民が共有する集団的潜在意識などは,もはや存在しえないのではないか,との疑義を呈する。
個人を単位とする多元性だけでなく,コミュニティを単位とする多元性をも射程に収めなければならない。他方,個人のアイデンティティ形成にとり,依拠する文化的枠組みが多様化しており,個人の自己規定に胚胎する多元性をも考慮しなければならない。このような状況認識のもと,本書は多元社会における公共宗教の意義と可能性とを探る。
全体は第一章から終章までの六章に加え,公共宗教論の方法論が付される。第一章では,これまでの市民宗教の議論に個人主義的な宗教の出現を視野に入れ,個人主義と 70 年代のニューエイジ運動との関係を考察する。第二章では,原理主義と復興運動との関係を論じる。
第三章では,80 年代に台頭した共同体主義を取り上げる。トクヴィルの宗教論を援用しつつ,共同体主義をめぐる論争では従来検討が不十分であったとされる宗教の問題を扱う。第四章では,新保守主義とネオコンとの関連が議論される。原理主義やネオコンの世界観や影響力を分析し,両者を批評するための条件を明らかにする。
第五章は,多元社会における公共宗教の意義を明らかにし,社会哲学および宗教社会学にとって多文化主義が投げかける新たな問題に対する本書の解答を試みる。終章は,本書の論考をまとめつつ,改めてリンカーンの宗教観を捉え直し,多元社会における公共宗教のあり方を描く。本書は,多元化するアメリカをめぐる宗教社会学および社会学の新たな枠組みを模索する。従来の議論を手堅くたどりつつも,藤本の公共宗教論は立論においてこれまでの市民宗教をめぐる理論的枠組みに新境地を拓かんとする野心的な試みである。
佐藤光重(成城大学)
尾崎俊介 著
『アメリカをネタに卒論を書こう!』
(愛知教育大学出版会,2009 年,953 円)
「卒論は今の自分を映す鏡」──初夏のけだるい午後,紫煙を燻らせていた W 先生が,僕の卒論計画書を見るやぼそり呟く。跳ねっ返りの僕は,何事だよ,とイラつきながら返事をしたことを思い出す。卒論が今の自分を映す──それは,当たり前のことではないか。いや待てよ,では今の自分は…。僕の中で,彼の言葉が波紋のように広がり,反芻される。結果,それは今でも忘れられない一言となる。僕の何かを変えたのだ。学部時代,彼の唯一まともな「指導」によって,僕は就職に見切りをつけ,大学院進学を選ぶことになる。知識ゼロからの卒論挑戦。今思うと,これは高度な文学的指導だったのだろう。神様のいたずらである。
卒業論文に対し,学生をどのように向き合わせるか。それは教員が抱く永遠の課題であり,ジレンマの根だろう。昨今の大学事情を踏まえれば,一人の学生に真摯に向き合い,手取り足取り指導する時間的・精神的余裕のある教員は殆どいないからだ。だが,卒論の指導は,学生の未来に影響を与え,その生き方を決める。そして,教員としての哲学を問う。そう,軽視できないほど重要なファクターなのだ。
本書は,大学生向けの卒論マニュアルである。だが,一般的な指南書とは異なり,紙面から複数の「声」が聞こえてくる。卒論とはアカデミックでなければならない。同時に,自分を映す鏡であり,自分を知るための哲学でもある。客観的であり主観的,公的であり私的。いわば矛盾のカタマリなのだ。戸惑う学生に対し,如何にその困難を乗り越えさせ,知の喜びを与えるか。本書はこのプロセスを丁寧に辿る。語り口調はさながら講義の実況中継。さりげない文章の中にも真理を込める―「自分にとって最も興味のあることについて書く」「テーマ決めは,己を知る手がかり」等々。卒論を通じて,共に学ぼう―教育/共育という哲学。この誠実なスタイルから,学生/読者は,思考の迷宮へダイヴするだろう。
テーマを選び,資料を集め,実際に書いてみる。当然,本書はこのような実践的なプロセスの解説も丁寧だ。そして何より特徴的なのは,「ネタ」としての「アメリカ」が書かれている点だろう。知っているようで意外と知らないアメリカン・トリビアが満載なのだ。この裏文化史は,ベテランのなせる技。例えば,「コカ・コーラ」を見よう。「何故,薬局にソーダ売り場があったのか」。この問いから,19 世紀の水を使った民間療法,禁酒運動,炭酸水信仰,そしてコーラ誕生秘話へと話を繋げ,さらに第二次大戦期のコーラ・プロパガンダ,そしてナショナル・アイコンとしてのコーラというように,コーラをめぐる文化史が語られる。「コーラ」から,アメリカ文化が逆照射されるわけだ。さらに尾崎氏は,この「耳学問」のコーナーが卒論ゼミ生のテーマであり,彼らの学問的成果であるとさらりと書く―これまで述べてきた「コーラ」史は学生の卒論ですよ,というように。あくまで主役は学生という姿勢。これは教育/共育の実践そのものだろう。良質なゼミを経由した卒論マニュアルが,知へのトビラを開く。この喜びを本書で体感されたい。
塚田幸光(関西学院大学)
久保文明 編著
『オバマ政権のアジア戦略』
(ウェッジ社,2009 年,1,470 円)
イラク戦争の頃には,「ネオコン」本やブッシュ本が日本でも書店の店頭を覆った。オバマの大統領当選から就任の頃は,これまたオバマ本が氾濫した。そうした時局便乗型の消耗品ではなく,腰の据わったオバマ外交論を読みたい。特に,日本を含むアジアとの関係でオバマ外交を理解したい。本書は,このような知的欲求に応えようとするものである。編者は日本を代表するアメリカ政治の専門家であり,これに気鋭のジャーナリストとビジネスマン,若手の研究者が筆をとっている。学術的観点に実務的な観点が加わった複合的な視点で,本書の分析は展開されている。
第一章「オバマ政権にとってのアジア」では,アメリカ外交の全体像の中で,オバマ外交,そして,その対アジア政策が位置づけられている。特に,ここではブッシュ政権,あるいは,それ以前からのアメリカ外交の諸潮流の中で,連続と変化の双方から,オバマ外交が検討されている。「民主党政権は中国寄りだ」といった,日本の一部にある安易な先入観は,この章を読んだだけで一掃されよう。編者によれば,そもそも「民主党と共和党,どちらが日本にとって得なのか」といった設問は,日米関係をもっぱらアメリカ側の政策の帰結とみる主体性の欠如を示している。
オバマ政権の対アジア政策を担う人事についても,詳細な検討と丁寧な紹介がなされている。巻末の主要人事一覧は,資料的な価値が高い。もとより,人事が政治や外交のすべてではないが,そのかなりの部分が属人的な要素に左右されることもある。日本の国内政治を例にとれば,それは明らかであろう。アメリカ政治や外交に関する日本の研究も,ようやく国内政治分析のレベルに近づいてきたのかもしれない。
続く各章では,オバマ政権の対日政策を軸にして,対中国政策,対韓国政策,そして,対北朝鮮政策が,立体的に検討されている。われわれの主たる関心が日米関係であるにせよ,米中関係や東アジア情勢への理解なしに,日米の二国間関係だけを議論することには自ずと限界があるからである。本書の執筆作業は 2009 年 10 月末頃には終わっているようであるから,もとより,それ以降の日米関係の混乱や朝鮮半島情勢の緊張に分析は及んでいない。しかし,その予兆は示されているし,それらの歴史的・構造的背景を理解する手がかりは,十分に提示されている。本書が単なる消耗品ではない所以である。
オバマ政権と同様に「変化」を標榜して,2009 年 9 月には鳩山由紀夫内閣が成立した。こちらも民主党である。しかし,その鳩山内閣は普天間基地移設問題で混迷をきわめ,社民党の連立離脱を引き金にして,2010 年 6 月には退陣するに至った。米中関係とは対照的に,日米関係は長らく安定的であった。しかし,この間はまさに,日本側の混乱で日米関係が大きく動揺した時期であった。この動揺は今後も尾を引くかもしれない。今や,日米双方が相手国の外交や布陣に十分な情報と周到な理解を要する。学生や研究者のみならず,実務家や政治家にも,ぜひ本書の一読を勧めたいところである。
村田晃嗣(同志社大学)
菅 英輝 編著
『冷戦史の再検討──変容する秩序と冷戦の終焉』
(法政大学出版会,2010 年,3,990 円)
欧米では冷戦史の研究が盛んに続けられているが,従来のように地政学や軍事戦略に注目した研究だけではなく,同盟内政治,第三世界,文化との関係など,研究の視野が広がっている。同時に冷戦終焉後の視点から,冷戦とは何であったのか,なぜ終わったのかを問う研究も現われている。いわば冷戦の全期間をトータルに俯瞰する研究が現れているのである。ところが日本では冷戦史研究がそれほど盛んであるとは言えない。冷戦の中で西側の一員として役割を果たしていたにも拘わらず当事者意識が薄いうえ,経済大国になったという受益者としての意識が,日本における冷戦史研究のネックになっていると,編者の菅は指摘している。その意味で本書の刊行は意義深いといえるであろう。編者の菅はすでに同じ出版社から本書の姉妹編として『アメリカの戦争と世界秩序』を上梓しており,これらは科研費による研究プロジェクトの成果である。
冷戦史研究で成果をあげている海外の研究者からの寄稿もあり,また近年わが国で冷戦史研究に取り組んでいる若手の論考も掲載されている。また菅も含めて我部,松岡などベテランの研究もあって,共著者たちの背景も多様であり,現在の視野の広がった冷戦史研究のあり方を実証するかのような優れた構成になっている。第 1 部ではトルーマン政権が朝鮮戦争をきっかけにして軍事大国になっていく過程と,ケネディ政権のヴェトナムへのアプローチが検討され,第 2 部では第二次ベルリン危機とドイツに対する「二重の封じ込め」の問題,ヴェトナム戦争期のアメリカにイギリスが影響を与えていたこと,米ソデタントの中でイギリスが影響力を保持しようとしていたこと,米韓合同軍司令部の設置問題などが検討されている。第 3 部では中国を中心にした論考がまとめられ,第二次世界大戦後の国共内戦とマーシャル・ミッションによる調停の過程や,中ソ対立とこの二国のアメリカに対する政策の違いが分析され,米中和解に対するソ連の対応と米ソデタントとの関係を考察し,米中和解が日米関係にどのような影響を与えたかを現在の視点も含めて分析している。全体として,中ソ対立,デタント,ヴェトナム戦争,西側同盟国の動向,などに焦点が当てられており,冷戦が単に米ソ対立ではなく,「力の拡散」がもたらす同盟内政治や「下からのデタント」など多岐にわたる問題があることを意識しながら検証を進めている。中ソが東南アジアをめぐって対立を深めたり,ニクソン,キッシンジャーが日米関係を重視していたことなど,綿密な一次史料の発掘により,従来の印象とは異なる見解を実証的に分析している点で優れた研究となっている。
今後の冷戦史研究では,本書が示したような,多様な視点と一次史料の活用による実証性を,ともに担保するような分析が不可欠となっていくであろう。その意味で本書は冷戦史研究をさらに発展させる契機となるであろう。
鈴木健人(明治大学)
有賀夏紀,紀平英作,油井大三郎 編
『アメリカ史研究入門』
(山川出版社,2009 年,2,500 円)
入門書というものは時代とともに書きかえられなければならない。それは,アメリカ史研究の場合も例外ではない。いうまでもなく,アメリカ合衆国における研究の進展があるからだけではなく,日本における研究の進展もあるからであり,さらには世界の歴史研究における進展があるからである。冷戦の終了,インターネットの普及とともに,世界,とりわけ日米を取り巻く研究環境は,問題意識や研究方法に大きく影響を与えつつ,大変化を起こしているからである。その意味で,本書は書きかえられるべくして書きかえられたといえる。
本書は,現代のアメリカ史研究の位置を俯瞰した適切な「総説」の後,3 部構成となっている。第 I 部は「通史編」である。世界史的視野に立ったアメリカ史研究全般の研究史整理が行われている「序」に始まり,「植民地時代」から「現代のアメリカ」まで,時代区分に従って 6 章がもうけられ,それぞれ時代の概観がなされた上で各時代の最新の研究動向がていねいに解説されていてわかりやすい。
類書と比べて,本書の斬新性がもっとも発揮されているのが第 II 部の「テーマ編」といえる。適度な頁数に収めるために割愛せざるをえなかったテーマも多かったと思われるが,社会史の現在を踏まえ,各テーマの位置づけを行う「序」に続き,ここで扱われた 8 つの章のテーマ設定に 3 人のベテラン編者と各著者の真骨頂が集約されている。「歴史のなかの人種・エスニシティ・階級」,「ジェンダーの視座から見るアメリカ史」,「宗教と思想に見るアメリカの自己理解」,「コミュニティ,学校と『アメリカ人』の形成」,「ポピュラーカルチャーの見方と見え方」,「歴史のなかの環境」,「軍事思想・制度の歴史的変遷」,「日本にとってのアメリカ」。従来のテーマ設定との大きな違いは,アメリカ合衆国に対する目線の高さと角度の違いから来ているといえよう。
地味ではあるが,研究を進める上でこの上なく頼りになるのが第 III 部「資料編」の 3 つの章である。80 頁近くに上る詳細な「参考文献」,電子データの危険性,利便性,入手方法,使用方法のていねいな解説をした「アメリカ史研究のデジタイズ」,現地における資料収集に欠かせない「アメリカ史研究文書館案内」はいずれもインターネット時代の入門書に必須のアイテムといえよう。
アメリカ史研究のベテランと中堅,総勢 20 人に上る執筆陣の手になる本書は,学部生や大学院生にとって研究の指針となるばかりでなく,専門研究者にとってもアメリカ史研究全体の到達点を確認する上できわめて重要な一冊たりうるといえる。また,研究者にとどまらず,アメリカ史に関心を持つ人なら誰も,わかりやすく,読み応えのある本書にきっと快哉を叫ぶに違いない。関心のある分野から読み始め,ぜひ通読してほしいと思う。
(東北大学 竹中興慈)
Takai, Yukari,
Gendered Passages: French-Canadian Migration to Lowell, Massachusetts, 1900‐1920
(Peter Lang, 2008, $36.95)
アメリカにおける移民史研究は,概して研究者の層が厚く,質,量ともに最も充実した分野のひとつであるが,意外なことに 20 世紀初頭のカナダからの移民に関する研究は,比較的手薄であるといわれてきた。
本書はそのカナダの,主としてケベックからマサチュセッツ州ローウェルに移住したフランス系カナダ人家族の,1900 年から 1920 年までの記録に基づいた詳細な研究成果である。本文は六つの章から構成されており,前半の二つの章は人々の移住(migration)の背景を理解するために,19 世紀後半から 20 世紀初頭の,出立地ケベックと目的地ローウェルの経済社会的状況が概述される。第三章では人々が北から南へと国境を越える移動の特徴が,故郷と移住先との距離的近さゆえの頻繁な往来の事実や,家族のネットワークという点を重視して分析されている。後半の三つの章ではローウェル移住後の移民たちの定着と適応の過程が叙述,考察されているが,特に五,六章では,女性たちに焦点をあてて,児童労働を禁止する法律が制定された後,家計を維持するために工場で働く年配の女性たちが増加し,その結果工場での賃労働と夫や子どもたちの世話をする家事労働との両方を一身に担って二重,三重の責任を負いながら懸命に生きようとする女性たちの様子が詳細に論じられている。ここから導き出されるのは,家族単位で移住した人々の家族内においても,一家の稼ぎ手で夫で父親たる男たちと,妻で母親で主婦たる女たちとの間には,同じ移民でありながらその経験は大きく異なり,みな移民として一括りに論じることは出来ないという事実である。題名が Gendered Passages たるゆえんであろう。
本書は,現在トロントにあるヨーク大学グレンドン・カレッジで教鞭をとる,英,仏両言語に堪能な,気鋭の著者がモントリオール大学に提出した博士論文がもとになっており,入手し難い貴重な一次史料がふんだんに用いられていることが,大きな魅力の一つである。特に 1910 年と 1920 年の国勢調査の原票と,同時期の,氏名,年齢,出生地,住所,職業,同行者らの詳細な情報を含む入国審査資料(Border Entries)の両方を付き合わせながら,可能な限り個人の移動の足跡を辿り,人生を再構成する手法は見事である。直接のインタヴューを含むオーラル・ヒストリーの活用も,個々の移民たちの具体的な日常生活や心のひだに分け入って読者の想像力を膨らませてくれる。
移住に際しては,同じエスニック集団内や,同じ家族内のメンバーであってさえも,年齢,男,女,こどもなどで,その経験が異なるという指摘それ自体は,特に新しいわけではない。だが,それでは具体的にどのように,と問われると,不明なことが多い。その意味で,膨大な一次史料に基づいて本書が解き明かしてくれた,この特定の時期の,特定の地域の移住者たちの,統計的な諸事実やディテールに満ちた移住の経験,人生の物語の数々は,トランスナショナルな移民史の大きな物語を豊かにし,空白部分を補う上で大きな貢献だといえよう。
太田和子(共立女子大学)
2011年03月29日 | アメリカ学会会報
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