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会報172号(新刊紹介)

古矢 旬 著
『ブッシュからオバマへ──アメリカ 変革のゆくえ』
(岩波書店, 2009 年, 2,100 円)
砂田一郎 著
『オバマは何を変えるか』
(岩波新書, 2009 年, 777 円)
渡辺将人 著
『評伝バラク・オバマ── 「越境」 する大統領』
(集英社, 2009 年, 2,200 円)

 B・オバマには人の予想を裏切るところがある。 黒人であっても, その肌の色はケニヤ人留学生であった父のものであり, 米国人の母は白人であった。 雄弁家としてアメリカの理想を訴えても, その政治姿勢はリアリズムが貫徹している。 アメリカを知悉した研究者の間でも, 彼の大統領就任に驚いた者は少なくない。 意表を突かれて人々はオバマとは何者か興味を抱くが, 彼の素顔を知れば知るほど浮かび上がるのは, 良くも悪しくもオバマという人物が持つ測りがたさである。
 政権が誕生した年に発表された上記の三冊は, いずれもアメリカ政治を専門とする人々による力作であり, 日本で今後広く参照されるべき文献である。 古矢旬氏は 2000 年大統領選挙以後のオバマ政権成立までの歴史潮流の変化を描き, 砂田一郎氏はオバマの大統領選出後の政治的イニシアティヴを扱い, 渡辺将人氏はオバマの人となりに焦点をあてている。 この三冊を読むことで, われわれはオバマが置かれている歴史的位置について基本的知識を得ることができる。 けれども, 私が読了して感じたのは, オバマに対する理解の深まりよりも, 新たな考察を迫ってくる問題の重圧であった。
 『ブッシュからオバマへ』 は, 古矢氏が新聞・雑誌等で発表した時論をまとめた著作である。 I 章から終章までのタイトルを見ると, 「9・11 後のアメリカ」, 「イラク戦争」, 「漂流するブッシュ政権」, 「オバマ大統領への道」, 「オバマ政権の課題」, 「「変革の大統領」 とアメリカの危機」 となっている。 各章の冒頭にはそれぞれの時期の概観が示され, また集められた時論の後には補遺が置かれている。 補遺のなかには, アメリカ史学者協会 (OAH) の 2003 年年次大会で古矢氏と M・ケイジンがアフガン戦争をめぐって交わした言葉のように同時代史の鮮烈な一場面を伝えたものもある (65‐66 頁)。 同時代のアメリカに関する省察として洞察に富んだ作品である。
  『オバマは何を変えるか』 は大統領就任式から 200 日あまりを分析対象とし, 政権に対する初期評価を行ったものである (v‐vi 頁)。 各章は 「動き出したオバマの変革」, 「経済危機から変革へ」, 「世界との関係を変える」, 「アメリカ社会を変える二つの政策」, 「民主主義の再生をめざして」 で構成され, 巻末にオバマ政権関連年表が付されている。 社会変革のための二つの政策として第 4 章で取り上げられているのは, 医療保険改革と環境エネルギー政策である。 第 5 章で民主主義再生の試みとされているのは, 党派対立, 利益集団政治の克服に向け, 草の根民主主義を活性化しようとする大統領のリーダーシップである。
 『評伝バラク・オバマ』 は, 少年期から大統領になるまでの折々の時期にオバマと出会った人物をインタビューすることで, 彼の人生行路を綴ったものである。 渡辺氏はオバマを 「遠近で印象が変わるポストモダンの絵画」, 「光の加減で色の変わる多面体のガラス細工」 にたとえている (6 頁) が, 氏がそのように指摘する多様さは同書の章立てによくあらわれている。 それは, 第 1 章 「「帰国子女」 の大統領」 以降, 「「ハパ」 の大統領」, 「「詩人」 の大統領」, 「「オーガナイザー」 の大統領」, 「「プロフェッサー」 の大統領」, 「「脱党派」 の大統領」 と続き, 「オバマのアメリカ」 で終わる。
 ハーバード大学ロースクール時代, 『ハーバード・ロー・レビュー』 の編集長を務め, 卒業後にシカゴ大学で教鞭をとり, 48 歳で大統領に就任した彼の経歴は, エリートの典型に思える。 けれども, この作品に触れると, インドネシアでの海外体験, ハワイ語で混血を意味する 「ハパ」 としてマルチ・レイシャルな環境のもとに過ごしたハワイ時代, カリフォルニアでの学問との出会いとニューヨークでの文学への耽溺, シカゴでのコミュニティ・オーガナイザーとしての活動, そしてロースクールの教師を経由しての政治家修行と, 実に多彩な経験の上に人間オバマが形成されたことがわかる。 また, この書のもう一つの特徴となっているのはオバマを支える選挙組織や有権者に対する分析の鋭さであり, キリスト教左派の動向やエスニシティ・グループの票の動きをもとに, アメリカ政治の変化を描いている。
 これら三冊は, いずれもオバマの選挙戦における中心テーマである変革について, 異なる視点から解説し今後の見通しを提供している。 オバマには米国初の黒人大統領という誰から見てもわかりやすい変化がある。 けれども, 米国の有権者が望んでいるのは現状の根本的変革であり, そのための指導力の発揮が彼の課題であるとする点で, 著者たちは同じ立場にある。 経済危機にせよ, 出口の見えぬイラク・アフガニスタンでの戦いにせよ, 巨大な指導力が必要なものばかりである。 しかも, アメリカが直面する危機は前任大統領の政策的失敗の帰結であるのと同時に, 古矢氏によれば, 「国際関係も, 経済も, あるいは民主主義的政治空間そのものが, 文明史的な変容の時」 を迎えていることから生じたものである (275 頁)。 一口に言えば, オバマがなすべき変革とは, 20 世紀の世界で民主政のモデルになったものの, 21 世紀初頭に至ると, その民主性に疑問の付されるようになったアメリカを再構築することなのである。
 現在, オバマは議会選挙で敗北して苦境に陥っている。 才人である彼の堅実な性格もあって, B・クリントンのように共和党保守派を翻弄する術数を駆使する様子はない。 ここで取り上げた三つの著作は, オバマが米国政界の常識や人の予想を越えていくポテンシャルを持っていることを示しつつ, 米国の危機の深刻さをいたるところで強調している。 果たして, オバマはどのような刻印を米国と世界の歴史に残そうとするのか, そしてアメリカはオバマという大統領にどのような運命を与えるのであろうか。
(中野博文 (北九州市立大学))


森  聡 著
『ヴェトナム戦争と同盟外交──英仏の外交とアメリカの選択 1964‐1968 年』
(東京大学出版会, 2009 年, 6,800 円)

 ヴェトナム戦争はこれまで, アメリカの単独主義的行動の典型例とみなされることが多かった。 だが本書は従来看過されてきた側面, すなわち和平をめぐる西側同盟内部の動きに焦点を当てたものである。
 英仏からすればユーラシア大陸のはるか彼方, アメリカからは太平洋を遠く隔てた地を舞台に, この三カ国は熾烈な外交戦を演じた。 本書は一見単独介入的な戦争の裏に存在した同盟内相互作用を, 比較対照のためソ連も登場させつつ分析するという, 斬新な試みである。
 英仏はヴェトナム派兵に応じず, 軍事的には直接貢献することはなかった。 だが両国はともに, 公然とあるいは水面下でジョンソン政権にさまざまな働きかけを行った。 それは和平を求めるうえでアメリカを制約していた要因を除去し, 軍事的勝利以外の選択肢を提供し, ハノイに対するワシントンの態度を軟化させるなどの貢献をもたらした。 裏を返せば, アメリカもそうした英仏の動きを可能な範囲で利用したわけである。 そこには同盟国の戦略的・政治的価値, アメリカとの信頼関係, 政府機構間の緊密さ, 同盟国が第三国に対して行使しうる外交的資産など, さまざまな要素が絡んでいた。
 分析の対象となる時期は 4 つの段階に分けられている。 ①アメリカによる和平交渉の受諾 (英の成功と仏の失敗, 1965 年 2~4 月) ②撤退意思の表明 (ソ連の成功と仏の失敗, 1965 年 8 月~1966 年 10 月) ③停戦条件の緩和 (英ソとも成功, 1966 年 10 月~1967 年 6 月) ④北爆停止に向けた方針転換 (仏が間接的に影響, 1967 年 7 月~1968 年 3 月) である。 その叙述はまさに, 和平と同盟のヴェトナム戦史と呼ぶにふさわしい。
 惜しむらくは 1965 年 2 月以前, つまり戦争本格化直前について検証がないことである。 評者の個人的興味もさることながら, それはドゴールが南ヴェトナム中立化構想を公にするなど米仏間の軋轢が表面化した時期, イギリスがアメリカの戦争を間接的に支援しつつ対米関係に齟齬を生じさせ始めた時期だからである。 なんらかの形で今後著者による分析を期待したい。
 ヴェトナム戦争終結から 35 年。 アメリカは過去の亡霊から逃れられないままイラクへ, アフガニスタンへと兵を進め, そのたびに同盟国も対応を迫られてきた。 いったい次はどこになるのか。 「戦うアメリカ」 に対して 「戦わない同盟国」 はどこまで影響力を行使できるのか。 その外交はいかなる条件下で効果を発揮しうるのか。
 同盟とはそもそも何なのか。 首脳がファーストネームで呼びあえばこと足りるのか。 一方が他方の要求に唯々諾々と従えば絆が深まるのか。 仮想敵とおぼしき存在が消滅し, 国際環境が大きく変化した場合, 同盟はいかに変容すべきなのか。 相手国の都合になど構わず独自性を主張し合意を無視することは同盟を損なわないのか。
 本書の分析はこうしたさまざまな問いかけに貴重な示唆を与えるだろう。 それはわが国が日米同盟の将来を考えるうえでも重要な手がかりとなろう。 また北朝鮮やイラクの核武装問題, グローバルな金融・貿易・環境問題など, 多岐にわたって応用可能であろうと思われる。
松岡 完 (筑波大学)


和泉真澄 著
『日系アメリカ人強制収容と緊急拘禁法──人権・治安・自由をめぐる記憶と葛藤』
(明石書店, 2009 年, 5,800 円)

 本書は, 日米戦争中の日系人の強制収容の記憶が 1950 年緊急拘禁法の成立と 71 年の撤廃に与えた影響を明らかにすることを目的とし, それぞれの政策の立法化から実施に至る過程に関わった政治家らの議論や最高裁判決などの言説の比較検討を行っている。 緊急拘束法が強制収容をモデルに作られたこと, 日系人がその撤廃運動に積極的に関わったことは広く知られているが, この法が実害のないままに廃案になったこともあってか, これまであまり詳細な考察はなされていない。 まずは著者の長年の努力の豊かな結実を慶びたい。
 二つの政策は, 前者は日系人のみを対象とした人種差別の問題として, 後者は, 50 年代には共産主義者, 60 年代は急進的反政府運動に対する弾圧の問題として, それぞれ異なる文脈の中で語られてきた。 そもそも, 米国の歴史を通じてマイノリティは, 時代や軽重, 方法に違いはあるが, 皆, 何らかの差別を受けてきた。 その中で, 戦時に, 敵国の, しかも米国に奇襲攻撃を仕掛けた卑怯な敵国のイメージを重ねられてしまったという日系人の特殊性を強調することは, 補償 (リドレス) 要求運動の戦略としては効果的だったが, その特殊性を強調し過ぎることは, 政府による市民的自由の侵害という, アメリカ人全体に及ぶ可能性のある, 普遍的な問題性を覆い隠してしまう。 本書の問題意識はそこにある。
 本書では, まず第一章で第二次大戦前の米国の, 緊急事態における市民的自由の問題が歴史的に概観され, 大戦勃発後, 政府がどのように 「人種カテゴリーに基づく」 市民の集団的転住を可能にしたか, それを連邦最高裁がどのようなレトリックで正当化したかが明らかにされる。 次に第二~五章において 1950 年緊急拘禁法成立に至る連邦議会における議論, 同法成立後の各政府機関や市民団体の反応, 1960 年代に同法の撤廃を要求した草の根の運動, 同法撤廃に向けた下院国内治安委員会での議論と最高裁判決の内容が順次俎上に乗せられ, この政策が合理化されていく過程と, そこに日系人の強制収容の 「記憶」 がいかに介在したかが検討されていく。
 それにしても, このような言説分析では史料批判が難しい。 意図的な嘘ばかりではない。 現場にいる全ての人が同じ情報を共有しているわけではなく, 社会的背景や役割によって考え方も異なる。 何よりも歴史研究をする際に忘れがちなのが, 我々が過去の出来事を, 事の結末も影響も知った上で, 有利な位置から見ているということである。 日米戦争中にどうすれば 「失敗」 を避けることができたか縷々語ることは容易だが, 9.11 後の米国で (あるいは日本で), 治安維持と市民的自由のバランスの問題の落としどころを何処に見つけるべきかを言うことは難しい。 また, 些細なことではあるが, 例えば強制収容政策を支持した人が, この政策に巻き込まれた子供の姿に涙するということは必ずしも矛盾しない。 ある人物の涙を彼の公的な発言の意味を忖度する決め手に使うことができるか等, 分析の根拠の幾つかで疑問が残ったが, それがこの研究全体の意義を減じるものではない。 今後の研究の益々の発展を祈りたい。
村川庸子 (敬愛大学)


田中久男 監修 早瀬博範 編著
『アメリカ文学における階級──格差社会の本質を問う』
(英宝社, 2009 年, 3,990 円)

 快挙である。 アメリカ合衆国における階級の生成史を概観し, ホフスタッター言うところの, アメリカの 「反知性主義」 の精神風土と人種とジェンダーと地域との関係を簡潔に論じた田中久男の序論だけでも必読だ。 本書は, 文学研究において真正面から取り上げられることがめったにない問題, 「アメリカ文学研究における死角としての階級」 (本書 p.2) のテーマに挑んでいる。 「階級など存在しないという国民的ドグマ」 (p.6) が支配してきた (もしくは, そういうドグマが意図的に伝播されてきた?) アメリカにおいて, 作家が 「国家的タブー」 である階級を, いかに作品世界において可視化したかを検証する。 作家の階級意識 (という限界) を抉り出す。
 取り上げられる作家は, 多岐に渡る。 アメリカにおいて階級分割が明白になった 19 世紀後半のエマソン (松島欣哉論文) やホーソン (藤吉清次郎論文) に始まり, スティーヴン・クレイン (増埼恒論文) に, フォークナー (大地真介論文, 早瀬博範論文, 重迫和美論文, 赤山幸太郎論文, 大野瀬津子論文) に, ヘミングウェイ (光富省吾論文, 本荘忠大論文) に, ナボコフ (樋口友乃論文) に, テネシー・ウイリアムズ (山野敬士論文) に, マラマッド (三重野佳子論文) に, ジョーゼフ・ヘラー (新田玲子論文) に, トニ・モリソン (渡部知美論文) に, レイモンド・カーヴァー (栗原武士論文) に, メキシコ系作家ルドルフォ・アナーヤ (水野敦子論文) へと広がる。
 本書は, 大きなテーマを扱う論集が陥りがちな混乱を, 適切な切り口を選択することによって回避した。 本書が切り口として, 人種やエスニシティやジェンダーを選んだのは, それらが, ある人間集団を下位の階級に据え置き, 搾取の対象にする根拠にするための 「捏造物」 だからだ。 産業主義や資本主義を切り口にしたのは, それらが, 人間集団の階級分断を促進したからだ。 地域性を切り口にしたのは, 人間集団の階級階層分化は, 均質に普遍的に生じるのではなく, 地理的条件と, そこから派生した歴史的社会的文化的条件により違ってくるからだ。
 本書に収録されている各論文が示すように, 社会に生じる葛藤は, 人間集団が階層階級に分断されていることから生じる。 個人の喜怒哀楽の質と量と, 思想の質は, 個人が属する階級によって決定される。 作家は (上層であれ下層であれ) 中流階級から生まれるので, 上流階級や下流階級は異界であるので, また, 小説そのものが中流階級的価値観の産物なので, 小説が階級全体を描くのは不可能だ。 それでも作家たちは, 階級というマトリックスに閉じ込められる人間の悲哀と怒りと, 自由への苦闘を描く。 人間社会の別のありようを幻視する。 そのような階級意識的作品は, 読者の階級的無意識を開く。 力作ぞろいの収録論文の中でも, 早瀬論文と, 光富論文と, 水野論文と, 新田論文と, 本荘論文と, 栗原論文と, 赤山論文は, 階級というテーマの軸を掴んで離さず論を展開することに成功し, 本書の志をよく実践している。
藤森かよこ (桃山学院大学)


濱田雅子 著
『アメリカ服飾社会史』

(東京堂出版, 2009 年, 2,730 円)

 19 世紀まで, フランスを中心とするヨーロッパ・ファッションに憧れを抱いていたアメリカ女性たちが 20 世紀にはいって, いかにファッションにおいてアメリカ的アイデンティティを確立したのか。 これが本書のテーマである。 ヨーロッパ人到来以前のアメリカの自然環境とそこで生活する先住民の衣生活について, 大きく 7 つに分けた文化圏ごとの概観にはじまり, 植民地時代から 20 世紀半ばまでのアメリカにおけるファッションの動向が描かれるが, 本書で多くの頁が割かれているのはもっぱら 19 世紀である。
 本書の構成は, 第 1 章:北アメリカの自然と文化, 第 2 章:プランテーションの衣文化, 第 3 章:アメリカらしさの萌芽, 第 4 章:フランス・ファッションへの憧憬, 第 5 章:ローウェルの日々, 第 6 章:西部開拓時代の衣生活, 第 7 章:家庭裁縫から既製服生産へ, 第 8 章:衣服大衆化の時代の順になっている。
 もともと服飾関係の仕事をされていた著者らしく, 普通の歴史家なら素通りしそうな, 裁断や縫製方法, 型紙の製図システムなどに関する興味深いエピソードをちりばめ, 図版も多く, 視覚的にも楽しい, 一般向けの読み物になっている。 個人的には, 第 4 章で取り上げられた 「メルヴェイユーズ・ファッション」, すなわち 18 世紀末から 1820 年ごろまで流行したコルセットなしで着用するハイウエストドレスに関する記述が興味深かった。 本書ではデュポンとマニゴーという 2 人の女性にのみ焦点があてられたが, ヨーロッパ社会全体を席巻した, この動きやすいスタイルがなぜ短期間で姿を消したのか, 服飾史の専門家の意見を聞きたかった。
 本書には, 残念なことに読者に誤解を与えかねない部分や誤植等が含まれており, 註の付け方についてもわかりにくい点が, いくつか見られる。 単純な誤植では, たとえばブルーマーをはいた女性の絵 (112 頁) のキャプションが 「18 世紀中頃」 になっていたりする。 また男性の既製服産業の開始時期を 「通説で」 南北戦争期としている点 (187 頁) や, ローウェルの女工の多くが兄弟をハーバード大学に行かせるために工場労働を選択した (138 頁) などの記述については, S・ウィレンツや T・ダブリンの研究に慣れ親しんだ者としては違和感を抱かざるをえないし, 『ローウェル・オファリング』 に現実の工場の規則や労働時間などが掲載されていたかのような表現 (146‐47 頁) は, 誤解を生む。
 最後に, 19 世紀後半から 20 世紀の消費の問題は, 近年, 日本でも研究が盛んにおこなわれているが, それらの研究成果と本書で扱われた当時のファッションの動向がどのように関わっているのか, 本書で答えを見つけることができなかったのは残念である。
 久田 由佳子 (愛知県立大学)


石井泉美 著
Bad Fruits of the Civilized Tree: Alcohol & the Sovereignty of the Cherokee Nation
(University of Nebraska Press, 2008, $45.00)

 本書は, アメリカ先住民の主権が, 植民地当局, アメリカ政府, 先住民の居住地周辺の諸州によって, 歴史的にどのように掘り崩されていったのか, またそれに対して先住民の側はどのように対抗したのかという問題を, もともとはアメリカ南東部に, そして強制移住後にはインディアン・テリトリー (現オクラホマ州) で居住したチェロキー族を対象に, 特に先住民社会における飲酒の習慣の受容という問題との関わりに焦点を当てながら検討を加えたものである。
 今日のアメリカ先住民社会にはびこるアルコール依存症や, それとの関わりで発生する疾病や犯罪といった社会問題に目を向けるまでもなく, 白人によって先住民社会にもたらされ, 広まった飲酒の習慣は, 過去から現在に至るまで, 先住民社会に深刻で甚大な影響を与え続けている。 他方この問題は, 従来から社会学, 人類学, 歴史学などの研究対象として注目されてきたため, すでにかなりの研究が蓄積が上梓されている。 ただしそれら先行研究の多くは, 主として飲酒という習慣がアメリカ先住民社会に与えてきた社会的, 文化的影響に着目したものであり, 本書のように, その政治的影響について焦点を当てて論じているものは少ない。 その意味で本書の内容は, 非常に独創的である。
 本書において著者は, チェロキー族とアルコール飲料との関わりについて植民地時代から説き起こし, 19 世紀初めの 「文明化」 の時代や, その後の強制移住, そして移住先における部族の再建とオクラホマ州成立にともなう部族政府の解体という激動の歴史のなかで, チェロキー族が独立国家としての主権を守っていく上で, いかに飲酒に関わる諸問題が重要な意味を持っていたのかという点を豊富な史料を駆使して論証している。 特に紹介者にとって興味深かった議論は, 飲酒という行為が常にチェロキー族の主権を掘り崩す要因となったわけでなく, チェロキー族が自らの政府を使って飲酒を規制することによって, 時には主権の行使あるいは維持に役立ったという指摘である。 これは先住民社会における飲酒の蔓延を否定的にしか論じてこなかった多くの先行研究に一石を投じるものであり, 歴史におけるアメリカ先住民の主体性を描き出そうとする著者の意欲がよく表れている。 また, 主にチェロキー族の女性たちによって担われた禁酒運動が, 白人社会との共存を目指していたチェロキー族にとって, 自らの道徳性や 「文明化」 の水準を示す役割も担っていたという指摘は, それ以外の 「文明化」 の指標である農民化やキリスト教化などと並んで, 禁酒という行為が, いかに 19 世紀当時のアメリカ先住民や彼らを取り巻くアメリカ社会で 「文明」 の尺度として重要視されていたのかを再認識させるものである。 このように, 本書が提供する情報や視座は, アメリカ先住民史研究のみならず, 広くアメリカ史研究一般にも示唆を与えるものであり, 本書が多くの読者に迎えられること願ってやまない。
佐藤 円 (大妻女子大学)


藤本一美 著
『現代米国政治論──ブッシュ Jr.政権の
  光と影』
(学文社, 2009 年, 2400 円)

 本書は, 2 期 8 年にわたった G・W・ブッシュ政権を, その誕生から 2008 年の大統領選挙にいたるまでの期間, 考察した書である。 この 8 年間, アメリカは大きく揺れた。 「思いやりのある保守主義」 を掲げて当選したブッシュ大統領は, 決して外交や安全保障で大きな成果を上げるべく政権についた大統領ではなかった。 しかし, 9・11 テロ攻撃によって, それは修正を余儀なくされる。
 本書に掲載された文章の中には, ほぼリアルタイムで執筆されたものも少なくないようである。 そのため, 丹念な資料調査に基づくというよりも, その時々に起きた事象を即座に評価し, その意味を確定しようとした著者の思考の軌跡の記録という色彩が強いのが本書の特色だ。 文章の多くはすでに他の媒体で発表されたものが多いが, ブッシュ政権下で起きた様々な事象を, それが風化する前に把握しようする問題意識において一貫している。 その意味において, 本書は目の前でめまぐるしく展開するアメリカ政治を, 体系的に論じたものではない。 むしろ, 長年にわたってアメリカ政治を分析し, 観察してきた著者の視点が色濃く反映しており, 概してブッシュ政権には批判的である。 そのため, 部分的に著者の 「思い」 がストレートに出過ぎている表現が散見できる。
 他方, ブッシュ政権の 「強固で頑迷な姿勢」 が, 9・11 テロ攻撃を招いたのではなく, 米国に対する世界の怒りはもっと以前から存在していたと評している点などは, 本書が 「ブッシュ批判」 に終始しているのではないことを示している。 また, 若干細かい点になるが, 一般にチェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官を他の新保守主義者と一緒くたにして論じるケースがあまりに多いが, 彼らを 「伝統的タカ派」 として, 敢えて新保守主義者と区別している点などは評価できよう。
 ブッシュ政権については世界中が注目したこともあり, これ以上論じることはないのではというほど論じられてきた。 しかし, ブッシュ政権の歴史的意味を, その前後の状況と照らし合わせて評価する作業は, まだ始まったばかりである。 その際に重要なのは, ブッシュ政権を説明する多くの言葉それ自体が, ブッシュ政権を批判する機能を有していたという点を認識する事だろう。 その点で, 「新保守主義 (ネオコン)」 のような言葉を注意深く用いることで, 思考の陥穽から抜け出る事が重要だろう。
 本書は, 三部プラス補論という構成になっている。 第一部は, 政権誕生から 9・11 テロ攻撃, そしてイラク戦争について論じられる。 第二部は, ブッシュ政権の大きな特色であった保守主義が, 国連不信や宗教右派などと関連づけて論じられる。 第三部は, 2000 年以降の国政選挙と, オバマ大統領を誕生させた 2008 年の選挙までが論じられ, 補論ではオバマ大統領が取り上げられる。 著者自身が述べているように, 本書は一般読者向けに書かれた評論集であるが, これらはゼロ年代のアメリカ政治を分析するためのナマの素材でもある。 巻末の邦語主要参考文献を見ても, すでにこれだけブッシュ政権を論じた本があるのかと驚かされるが, これらを素材にしたブッシュ政権に関する冷静な研究・評価が待たれる。
中山俊宏 (青山学院大学)

2010年04月27日 | アメリカ学会会報