« 地域研究学会連絡協議会「学術研究推進のための財政的支援の重要性」に関する声明について | フロントページ | 会報171号(巻頭言) »


会報171号(新刊紹介)

木下 昭 著
『エスニック学生組織に見る 「祖国」 ──フィリピン系アメリカ人のナショナリズムと文化』
(不二出版, 2009 年, 5,800 円)

 本書はフィリピン系の学生組織のナショナリズムについて論じている。 使用概念を丁寧に説明し, 移民政策やマクロな動向にも目を配った折り目正しい研究である。 英文ではフィリピン系の人々についての研究が出版されているが, それらは往々にしてフィリピン系アメリカ人のエンパワメントを目的にしたものや文化批評であり, 数点を除き, フィリピン系の人々の実像を必ずしも明確に示していない。 フィリピン系はアジア系の中では中国系に次ぐ人数を持つエスニック集団であり (72 頁), その実像を把握できる日本語の著作が求められていたなかで, 本書はこの要請に応えており, 高く評価できる。
 9 章からなる本書では, 第 1 章では主要な分析概念である 「遠隔地ナショナリズム」 を理論的に考察し, 第 2 章ではフィリピン系移民の通史を論じている。 第 3 章, 第 4 章ではアメリカ (特に西海岸) の大学においてエスニシティがどのような重要性を持つに至ったかを論じている。 特に, 第 4 章ではエスニシティの 「希薄化」 という論点から日系と比較しており, 日系に関心のある人にも読み応えのある内容である。 第 5 章から第 9 章はフィリピン系移民の問題や営みをテーマ別に論じている。 アメリカ生まれの二世によるフィリピンから来た新移民に対する蔑視 (第 5 章), 舞踊とナショナリズム (第 6 章, 第 7 章), 移民の祖国訪問に関するフィリピン政府の政策 (第 8 章), フィリピン系学生に対するフィリピンの左翼思想の影響 (第 9 章) となっている。
 一次資料としては, 学生への聞き書きや参与観察を中心に扱っている。 聞き書きはやや平板な感想が多いが, フィリピン系の人々の様々な見解がバランス良くテーマに沿って紹介され, それらの見解から事象の意味を読み解いていく方法は適切である。 その反面, これら資料の持つ制約から, 分析は調査時点に重点が置かれている。 2000 年代初頭時点での綿密な描写は, これらのテーマにおいて今後定点観測を行なっていく意味でも, 有用であろう。 また, 本書は学生組織を社会的文脈の中に位置づけており, 近視眼的な状況報告に留まらず, フィリピン系の学生の生活や想いをいきいきと描き出している。
 このように本書はエスニック集団の実像を描き出すことに成功している反面, ナショナリズム研究としては異なった視点からの分析も必要だったのではないだろうか。 アンダーソンのエッセー (“Long-Distance Nationalism,”) によれば, 本書の分析概念である 「遠隔地ナショナリズム」 は亡命者や移民が祖国の政治に関わり続けてきた運動である。 本書では広義の政治とナショナリズムの分析が希薄である。 第 9 章においてフィリピンの国内政治との関係に多少は触れているものの (248‐257 頁), 本書の分析枠組みから言えば, フィリピン系学生団体の営みがアメリカの文化政治に対して持つ意義についての言及が欲しかった。
岡田泰平 (神奈川大学・講)


島田法子 編著
『写真花嫁・戦争花嫁のたどった道──女性移民史の発掘』
(明石書店, 2009 年, 4,500 円)

 本書は 「写真花嫁」 と 「戦争花嫁」 をアジア女性の国際移動という観点から捉え, その生活を社会史の視座から多角的に分析したものである。 九本の論文で構成されるこの書に通底するテーマは, 主に二点にまとめられる。
 まず, アジアから結婚を理由に祖国を出た女性の背景は非常に多様であった。 日本からハワイ, アメリカ本土, オーストラリア, ブラジル, そして朝鮮半島からハワイなど, その出発地と到着地は地理的に様々であり, 硬直化されたナショナル・ヒストリーの枠組みでは捉えきれない。 また, 彼女たちの祖国における家庭環境や社会状況も多様であった。 「貧しい」 「パンパン」 などのステレオタイプは否定されねばならない。 さらに女性たちの結婚相手の人種やエスニシティは, 白人, 日系アメリカ人, アフリカ系アメリカ人など, 一様ではない。 本書はこれら異なるベクトルを見定めて, 丁寧に分析を重ねていく必要性を繰り返し強調している。
 次に重視されるのは, 花嫁となった女性の主体性である。 「写真花嫁」 や 「戦争花嫁」 は本人の意志と無関係で結婚させられたり, 経済的事情でやむなく嫁になったりした時代の被害者として扱われることが少なくない。 しかし自らの選択で海を渡った女性もいたし, やむを得ず祖国を離れたとしても, 新しい定住地での生活を積極的に切り拓いていった女性が数多くいた。 本書はこのような女性の努力や決断を掬い取ることで, 「一般の女性たちを主人公として歴史を組み立てていく社会史としての移民史」 (295) を確立する必要性を訴えている。
 さらに本書は今後の女性史・移民史研究に三つの重要な問題を提起している。 まず, 「花嫁」 として渡った女性たちの生活史を再構築するにあたり, 研究者は資料といかに対峙すべきか。 オーラルヒストリー, アンケート, 回顧録などが効果的に使われており, なかでも田村恵子によるインタビュー分析は, 「花嫁」 たちの言葉の裏に潜む意識を解き明かしていて興味深い。
 本書では, ベリナ・ハス・ヒューストンが論じる草の根交流の担い手としての女性や, 土屋智子が示す一家の働き手としての 「軍人花嫁」 の姿など, 女性は歴史の周縁ではなく, 中心に据えられている。 その一方で, 「花嫁」 たちが男性・白人中心主義的な社会構造のなかで, 様々な形で自由を奪われ, 権利を制限されてきたことも明らかにされている。 そのような圧倒的な 「構造の力」 と, 女性の主体のバランスをいかに取るべきか, 本書はこの点についても示唆に富む論文が多い。
 また本書は 「セトラーコロニアリズム」 の視点からも興味深い。 移民女性の主体性の回復とともに考慮すべき課題は, そのような女性たちがハワイやブラジルの移住先の 「コロニアリズム」 といかなる関係にあったかという点である。 このことについても, 一連の論文は多様な観点から考えさせてくれる。
 このように本書は日本やアメリカの女性史・移民史に重要な知見を提供し, 意義深い問題提起をしている。 文体は平易で, 論旨も明確であり, この分野の研究者はもちろんのこと, 学部学生などにも有益な書であろう。
矢口祐人 (東京大学)


日高 優 著
『現代アメリカ写真を読む──デモクラシーの眺望』
(青弓社, 2009 年, 3,000 円)

 写真とデモクラシーという言葉の並びに, 写真が映し出すデモクラシーの現実云々などといった凡庸な主題を間違っても思い浮かべてはならない。 そうではなく, 写真とデモクラシーという, 人が下手をすると了解の身振りを許してしまっている事象と概念に, むしろ不断の不透明さを認め, そこを出発点として, 手に入る知的道具立てをすべて携えて斬り込んでいくこと, それこそがこの書で賭けられたものである。
 写真なるものが内在的に抱え込む幾つもの可塑的側面に細心の注意を払いながら, と同時に, デモクラシーという政治的でも制度的でも思想的でもある概念さらにはジャーナリズム的用語でさえある概念の, 時代のなかで揺れ動く軌跡を丹念に辿る作業は, それら二つの事象と概念がアメリカという近代の大いなる実験室で出逢う (出逢い損ねる) さまざまな姿──交差し, すれ違い, 衝突し, 捩じれさえする──をスリリングな筆致で記述し分析する。 そこで浮かび上がってくるのは, 20 世紀アメリカにおける, 人々の意識のなかに畳み込まれ隠されていたいくつもの力線であり, それら力線が織り上げる相貌こそがここで 「眺望」 と名付けられているものであるといっていい。
 むろん, 写真とデモクラシーをめぐる抽象度の高い理論的な議論がこの本で繰り広げられるものではない。 二つ折りにされた不透明さを解析する著者の筆は, 具体的状況のなかに在る個別具体的な写真の群れである。 政治経済の水準はもちろんのこと, 人々の日常の水準までも視野に収め, デモクラシーをめぐる人々の想いや願い, 無意識の欲望や妄想の夢が, 写真という身心が双方ともにしかも写す側と観る側の両側からせめぎ合う媒体においてどう切り結ぶのかが精度の高い文体でもって炙り出されてくるものなのである。
 わたしたちが立ち会うのは, 写真論の観点からいえば, アンセル・アダムスの風景, 名高い 「ザ・ファミリー・オブ・マン」 展, リー・フリードランダーのセルフポートレートやドゥエイン・マイケルズのストリート, ビル・オーエンスの郊外やスティーヴン・ショアのロードが, 新たな光のもとで照らし出されていく鮮やかな解釈であり, アメリカ論の観点からいえば, 西部なるもの, ニューディールなるもの, 60 年代なるもの, ポストモダンなるもの, さらには 911 なるものが, 従来とは異なった輪郭で測定されていく濃密な論の運びである。 急いで付け加えておけば, 名指されているわけではないものの, 哲学や社会学, 現代思想や精神分析の諸理論が文章の背後で周到に配され, それら理論が具体的現象の前で立ち竦む諸限界が透かし彫りにさえされているだろう。
 けれども, おそらくは, そうした既存の研究領域のなかでの新しい知見の提示に留まらない過激さこそがこの本の醍醐味である。 それは世界各国で現れ始めている, ミッシェル・フーコー以後の真に横断的で鋭利な知性と同じ地平に立つといえるものだ。 我が国においてようやく登場しはじめた, こうした世界水準の仕事に大きな興奮を覚えるのは評者だけではないはずだ。
北野圭介 (立命館大学)


Masahiro Nakamura
Visions of Order in William Gilmore Simms: Southern Conservatism and the Other American Romance
(University of South Carolina Press, 2009, $39.95)

 本書は, 南北戦争前のサウスカロライナ州で小説家・詩人・歴史家として活躍したウィリアム・ギルモア・シムズに関する研究書である。 生前, 「小説 24 冊, 短編小説 110 編, 詩 2000 編」 など膨大な数の作品をうみだし絶大な人気を博したシムズであったが, 没後は読まれることも少なくなり, その評価も低迷していた。 かれが著作のなかで南部の奴隷制を強力に擁護していたこともその一因であろう。 「生粋の南部人」 であったシムズは, 南部人であることに誇りを抱き, 当時の南部の主張を色濃く反映した作品を数多く発表した。 本書は, これまでのシムズと 19 世紀南部社会に関する研究を十分に踏まえたうえで, シムズの作品に見られる南部性について考察する試みである。
 本書の構成は, まずシムズと南部の思想についての全般的な考察があり, そのあとに主要な小説 (シムズはロマンスと呼ぶ) の作品論がつづく。 最初のところでは, シムズに見られる南部保守主義と社会秩序の意義が論じられたあと, 同時代の作家ホーソーンとの比較をとおして, 北部作家の作品には個人主義が顕著にあらわれているのにたいして, シムズの作品には社会と秩序を重んじる傾向があることが指摘される。 つづいてシムズの小説がテーマごとに分けられ, 3 章では犯罪者を扱った 『マーティン・フェイバー』 における自我と社会の対立について, 4 章では 『ウッドクラフト』 などにおけるアメリカ独立革命について, 5 章では旧南西部辺境を舞台にした 『チャールモント』 などにおけるアメリカ西漸運動について, 6 章では植民地時代を扱った 『バスコンセロス』 と 『イェマシー族』 におけるインディアンについて論じられる。 どの章においても, 他のシムズ研究者の意見を詳細に比較検討し, 小説からの豊富な引用を駆使して, それぞれの作品に見られるアメリカ社会・歴史にたいするシムズの見解が明らかにされる中でかれの南部的な捉え方が指摘される。 これらの論は, 著者がこれまで発表してきた論文がもとになっているので, それぞれを独立した作品論として読むことも可能である。
 最近のアメリカ文学史では, 著者が述べているように, アンティベラム期北部の文学作品が数多くキャノンとして脚光を浴びているのにたいして, シムズの作品は, 1950 年代以降徐々に研究書はあらわれてはいるものの, 一般的にはそれほど注目されることはない。 作品のなかには絶版になっているものも多い。 著者は, 作品に見られる社会と秩序の意義に着目することで, シムズが文学史においてもっと評価されるべきだと訴えている。 本書は, 奴隷制南部の作家シムズを南部保守主義の観点から再評価しようという意欲的な 「チャレンジ」 であり, シムズ研究者だけでなく, 19 世紀南部の文学や社会を研究するものにとっても示唆に富む有益な書物である。 そして, ポウを除けばそれほど関心を向けられることのなかった日本のアンティベラム期南部文学研究に新たな刺激をもたらすにちがいないであろう。
滝野哲郎 (大阪府立大学)


舌津智之 著
『抒情するアメリカ──モダニズム文学の明滅』
(研究社, 2009 年, 2,800 円)

 本書はアメリカ文学における 「抒情」 と 「モダニズム」 という (一見相容れない) 概念を再定義することで, モダニズム文学解釈に新たな光を投じる画期的かつ重厚な研究書である。 「抒情」 と 「モダニズム」?とまずは首をひねるのが, 従来のモダニズム解釈に馴染んだ者の自然な反応だろう。 あるいは, そもそも 「抒情するアメリカ」 というタイトルは自家撞着ではないか, という反応もうなずける。 著者も言うように, 歴史的に前進的な夢や自由を希求してきたフロンティア・スピリットの国アメリカと, 比較的成熟した文化においてゆるやかにたちのぼるはずの抒情性とではいかにも座りが悪く, また近現代においては物質主義や軍事力など暴走的な価値で知られるアメリカで 「勇気」 や 「雄々しさ」 ならいざしらず, 密やかな静けさのうちに甘美な情緒を吐露するような心性は反アメリカ的とさえ言える。 そしてそのようなアメリカが生み出した文学のなかでも, ロマンティシズムへの反動という成立ちゆえ, ことさら抒情性を廃した文学的モードとして知られるモダニズム文学。 これらアメリカとモダニズムに著者が正しく見いだしたのが, ほかでもない抒情性であった。 なるほど, 過剰は構造的に抑圧を内包するものである。 許されぬがゆえに切望され, 抑圧ゆえに回帰する, 逆説の領分──抒情。
 かくして 「闇の深さによって微光をすくいとる」 べく, 明滅するアメリカのモダンな抒情を跡づける本書は, またモダニズムという時代区分とその作品の幅を従来よりも押し拡げている。 射程に収めるのは 19 世紀後半から一世紀ほど, しばしばプロト・モダニストと理解されるメルヴィルをさらに 「ロマンティック・モダニスト」 と捉え直して議論の始点とし, ハイ・モダニズムを経て, 「拡大モダニズムの射程」 と題される第三部では T・ウィリアムズの戯曲やビーチ・ボーイズの音楽作品までもアメリカン・モダニストの正統な末裔と捉える。 つまり, そもそも抒情が抒情詩というジャンルと不可分であり, またこれまでモダニズム批評において演劇や音楽作品が十全に議論されてこなかった以上, 氏はジャンル論においても拡大・越境を試みていることになる。
 各章とも出色の完成度で学ぶことは多いが, 本書を貫くメッセージのひとつに文学批評の立ち位置をめぐる議論があるように思われる。 「時代や国家が頬を濡らして泣くことはない。 涙を流すのは, いつも一個人である」 (第五章)。 帯にも繰り返されるこの言葉からは, あらかじめ社会的である身体, あるいは個人的なことはすべからく政治的であるという了解を経た今日なお, 個人の涙を 「大きな物語」 のために蹂躙し画一化してはならないというメッセージが聞こえてくる。 それは読者が素足で作品に立つ読書体験から, 時にあまりにも遠く離れてしまう文学批評の方法論そのものへの警鐘ではなかろうか。
 いずれにせよ 「抒情」 を掬い上げる氏の読みによって, たとえば 『白鯨』 のエイハブの痛みが改めて心に突き刺さる。 すぐれて理知的でありながら感情をゆさぶる批評というのは撞着であろうか。 あたかも矛盾のモード, 抒情の本質を本書そのものが体現しているかのようである。
小笠原亜衣 (立教大学)


下河辺美知子 編著
『アメリカン・テロル──内なる敵と恐怖の連鎖』
(彩流社, 2009 年, 2,625 円)

 「アメリカ」 と 「テロ」, この二つの単語を並べて 9.11 を想起しないでいることはもはや不可能であろう。 第一線で刺激的な仕事を展開するアメリカ文学, 文化研究者たちが執筆陣に名を連ねる本論文集も当然この 「同時多発テロ」 に注意を払い, 時に詳細な考察を加える。 しかし, 事件以降頻繁に目にする 「市民への無差別な攻撃」 を意味するテロリズムという語の一般的な用法に基づいて 9.11 を解説することは, 本書の主眼ではない。 むしろ, 『アメリカン・テロル』 は, 「ある権力によって統一された秩序を内部から破壊する」 テロリズム, およびアメリカという共同体に遍在する 「恐怖という心的ダイナミズム」 (共に下河辺) の系譜をたどり, 同国の形成, 発展につきまとうテロルの重層性を様々な角度から検証する。 扱われるのはチャールズ・ブロックデン・ブラウンからウィリアム・フォークナー, ドン・デリーロ他現代作家にいたる上, 文学にとどまらず演劇やヴィジュアル芸術を含めてジャンル横断的に議論が繰り広げられる。
 特筆すべきは, 文学テキストを精読して新しい文学史の可能性を探る, あるいはテキスト解釈の限界を押し広げるという文学研究の当然の手法が極められる一方, 本書が新しい形のアプローチを提示する点だ。 例えば, 権田論考は, アメリカで急増する 「極右主義者たちの反政府主義」 が, 「本来は回顧的で受動的である報復という行為が, むしろ投企的で能動的な行為としてあらわれ」 るパラノイアによって駆動されることを看破する。 この指摘はテキストの具体的な読解によって裏打ちされ, その意味で伝統的な文学研究の方法論にのっとってはいるものの, しかしながら, かつてないほどに未来志向でもある。 より正確には, 書かれたテキストよりも必然的に後世を生きる読者=われわれにとっても未来の問題として現れることが顕著なテロの恐怖と向き合うには, 錯綜した動的な過程をとらえ記述する批評能力や先見的な理論的先鋭が従来以上に必要になるということなのであろう。 その意味で, 精神分析批評の立場からトラウマの表象や共同体の記憶のあり方に着目する, 様々な意味で 「前向き」 な文学, 文化研究の動向に関わってきた下河辺こそが本書の編著者である意義は大きい。
 他方, 本書が最終的に示唆するいま一つの恐怖は, 「アメリカン・テロル」 がもはやグローバルなものとなった現状である。 すなわち, 9.11 がアメリカン・テロルの系譜に位置づけられるとき, アルカイダ他テロ集団はアメリカという国家を外から攻撃したと同時に, アメリカ化したグローバル社会の内に存する敵とも見なされるべきなのである。 だとすれば, 「<部分>を<(他者としての) 全体>に格上げ」 する 「<テロとの戦い>というレトリック」 (下河辺) は, 地球上に存在する部分でありながら限りなく異質な他者という二律背反的な存在としてテロリストたちを定義することになる。 本書が言外に見据えるのは, このように様々な境界をめぐる内と外の臨界現象を引き起こす (グローバル・) アメリカン・テロルのダイナミズムに他ならないはずだ。 だからこそ, 本書はこの圧倒的な問題に取り組む者にとって必携の書となろう。
辻 秀雄 (首都大学東京)


都甲幸治 著
『偽アメリカ文学の誕生』
(水声社, 2009 年, 2,800 円)

 刺激的な表題だ。 一般に 「偽」 モノは 「真性」 が何を根拠に 「真正」 性を保持しうるのかという問題を逆照射してみせるものだが, 国民国家的な枠組みの虚構性が暴かれ, 真正なアメリカ文学はどこにもないということが既に明らかな今, あえて自ら 「偽」 を名乗ることにいかなる戦略があるのか。 都甲は自らのアメリカ体験を通してその 「偽」 の由来を語ってみせる。 「日本の私」 がアメリカ文学を研究することをどう正当化しうるのか。 この国でこの業界ができて以来連綿と抱えられ続けてきた苦悩であろう。 この率直な告白だけでも, 大学というシステムに守られて日本でアメリカを研究する我々自身のありかたを考察する上で一読に値する。 そしてこの疑問に対して都甲が取るのが 「偽」 というポジションだ。 自分には 「本物のアメリカ文学を生み出すことはできない。 しかし創作や翻訳という形で, それを材料とした偽物は作れるのではないか」 という発想。
 全体の構成は緩やかで形式も様々, 統一した主題を求めるでもない。 共通しているのは 「書き手・都甲幸治」 という事実だけである。 だから内容に重複が見られたり, 各章で読みのアイディアは豊富に提示されるのにそれを絡めとる結論がないままなのも, 編集形式上仕方がないのかもしれない。 しかしそういった些事よりも, この優秀な翻訳家が紹介してくれるアメリカの新しい作家の情報や, アメリカ文学への新しい視点を楽しむのがこの本の正しい読み方であろう。 ケン・カルファスやジュノ・ディアスについてこんなに丁寧に紹介してくれる日本の媒体などほかには存在しないのだから, それだけでもありがたい。
 村上春樹の初期 2 作品が海外では 「なかったことになっている」 ことを論じた 2 つの章が興味深い。 都甲は村上の海外メディアでの発言を丹念に拾って, 作家が文化的境界を隔てて使い分けるセルフイメージを浮き上がらせる。 いわば 「偽」 アメリカ作家としてのムラカミと日本作家としての村上を対照してみせる。 アメリカ的なものに惹かれ, その文化を吸収し, 「決してアメリカ人になりきることはできない」 し 「純粋な日本人に戻ることもできない」 と言う著者なりのスタンスに村上春樹という題材は格好である。 日米両者間の境界が, じつはグラデーションのなかに無理矢理引いたあとづけの線に過ぎず, 文化や人の流動性が易々とその線を超えることの典型的な例が, アメリカ文学を読んで作家になった村上に, そして彼の作品を読む各国読者の読書体験, およびその相互作用に見られるからだ。 そのとき 「偽」 は確かに 「真性」 に疑義を挟みその絶対性を揺さぶる。
 だからこそ 「偽アメリカ文学」 というキャッチーなフレーズはもう少し慎重に定義してほしかった。 村上の作品やアレクシーのようなマイノリティ作家の作品, あるいは都甲によるアメリカ小説の日本語訳がそうだというのと, 本書のエッセイ群が 「偽アメリカ文学」 だというのは, 意味合いが違う。 とはいえ 「偽アメリカ文学」 はまだ 「誕生」 したばかりである。 次にはもっとはっきりした輪郭を持った 「論」 として現れるのを期待したい。
秋元 孝文 (甲南大学)


佐川和茂 著
『ホロコーストの影を生きて─ユダヤ系文学の表象と継承』
(山交社, 2009 年, 2,000 円)

 本書はユダヤ系作家によるホロコースト文学に関する研究である。 ホロコーストとは 「ヒトラー第三帝国の支配中, ナチスが 600 万といわれるヨーロッパのユダヤ人を大量虐殺した事実を示す言葉」 である (引用はすべて本書より)。 人類史上例のないこの殺戮は, 人間が残忍でありうる可能性の極限を示しているがゆえに, 人間とは何かという問いに対する準拠枠として機能することになる。 本書によれば, ホロコースト文学とは, ホロコーストを主題とするか, もしくはその影響が色濃く刻まれている作品のことである。 本書が主として扱う合衆国在住のユダヤ系作家はホロコーストの生還者もいるが, 多くはそれを実際に体験してはいない。 しかし, ホロコーストはユダヤ系作家の創造力に深甚な影響を及ぼし, 多くがその直接もしくは間接の体験を映しだす作品群を世に送った。 本書は, それらの作品群を通してホロコーストと今日の世界との共通性を浮かび上がらせ, そのような理不尽な暴力に直面した時人はどうすべきかといった問いに応答しようとしている。
 第一章では, 第二次大戦以降出版された合衆国のホロコースト文学を, ヨーロッパのそれと比較する。 ホロコーストの体験を証言者として語るヨーロッパの作家とは異なり, アメリカのユダヤ系作家たちは 「沈黙する神への疑念と信仰との間を揺れ動」 きながら, ホロコーストを現代社会へと照射することに力を注いだ, と論じる。 第二章以降は, ソール・ベロー, バーナード・マラマッド, アイザック・シンガー, イスラエル・シンガー, エドワード・ウォーラント, エリ・ヴィーゼル, アモス・オズ (イスラエル作家), ヘレン・エプスタインといったユダヤ系作家の作品が, 章ごとに考察される。
 ベローを扱う第二章では, ホロコーストについて直接語ることを避けた 『ハーツォグ』 までの作品と, ホロコーストの生き残りを主人公にした 『サムラー氏の惑星』 を比較, 考察する。 著者は, ベローの歴史認識の深化と 「滅亡の危機を克服し存続への道」 を切り開いていこうとする強い意図を読み取る。 第三章のマラマッドも, ホロコーストという 「遠景」 を身近な日常生活へとみごとに照射した作家である。 著者は, マラマッドが, 『アシスタント』 から 『神の恩寵』 に至る作品を通してホロコーストを多面的・重層的に描きだすことによって, 「破壊された人間性の回復」 へと向かうさまをたどる。
 第四章は, ヒトラーによって奪われたユダヤ世界のイディッシュ語での復元を試みるシンガーを扱う。 彼が, ホロコーストの狂気を告発すると同時に, ホロコースト以前の罪, 人間存在そのものに内在する罪をも抉りだそうとしていることに著者は注目する。 そして第七章では, ホロコーストを生き延びた作家ヴィーゼルを論じる。 本書によれば, 数少ない生還者としてアウシュヴィッツを記憶化する言葉を紡ぐ作家は, また, ディアスポラ・ユダヤ人として, 中東で孤立するイスラエルを魂の故郷と考える。 本書は, 著者のユダヤ文学に対する長年の研鑽が凝縮した優れた一冊である。 高度に専門的でありながら, 反戦という普遍的なメッセージを伝えている。
鵜殿えりか (愛知県立大学)


入子文子, 林以知郎 編著
『独立の時代──アメリカ古典文学は語る』
(世界思想社, 2009 年, 1,995 円)

 エイブラハム・リンカーンを守護神のように掲げながら登場したオバマ第 44 代大統領が, アメリカの国家的自意識における南北戦争の歴史の重要性を改めてアピールした観があるなかで, 本書 『独立の時代──アメリカ古典文学は語る』 は, フレンチ・アンド・インディアン戦争および第 2 次米英戦争を含む広義のアメリカ独立の時代を, 21 世紀的文脈に立って包括的に捉えなおそうとする試みである。 「まえがき」 では, 本書が, 9.11 同時多発テロ以降, 建国の歴史への国民的な関心が高まりを見せた時勢を直接の背景として構想された企画だと述べられている。 しかし, 総勢 9 名の執筆者による質の高い論考は, 独立革命が, 決して, 昏迷の中にあってこそ意識化される美しい過去, 回復するべき理想として単純に理解されるべきものではなく, むしろ, アメリカの 「今」 さえを左右しかねない国家的矛盾の起源を成す歴史でもあり得たことを浮き彫りにしている。 断絶による始まりを統一と継承の物語に仕立て上げてゆくという独立の時代の使命感こそが, アメリカの文学, そして, 歴史を動かす原動力となって, アメリカの発展を支え, また逆に, アメリカを困難や恐怖へと落とし入れてきたのである。 アメリカの歴史は民主主義の発達の歴史としばしば同一視されがちなところで, 革命起源の国家として, 矛盾を演じることを余儀なくされたアメリカの道程を, 主に文学テクストの精読を武器に辿ってみせるところが本書の醍醐味であるといえるだろう。
 本書の構成は以下の通りである。 第 1 章 「建国の父子たち──ワシントン, アダムズ, モンロー」 (巽孝之氏), 第 2 章 「売れる偉勲, 憂うる遺訓──ウィームズの 『ワシントン伝』 再考」 (白川恵子氏), 第 3 章 「『開拓者たち』 と家系譜の書き換え──上機嫌な時代の自己意識的なアメリカニズム」 (林以知郎氏), 第 4 章 「北米毛皮交易の原風景──アーヴィングの 『アストリア』 の意義をめぐって」 (齊藤昇氏), 第 5 章 「「ある鐘の伝記」 を読む──ホーソーンにおける歴史と詩学の交錯」 (入子文子氏), 第 6 章 「「継承」 と 「革命」 のはざまで──メルヴィル作 『ピエール』 を読む」 (福岡和子氏), 第 7 章 「ジェイムズ家とアメリカ独立期」 (水野尚之氏), 第 8 章 「アメリカの始まりに目を凝らして──マーク・トウェインの〈インディアンタウン連作〉」 (里内克巳氏), 第 9 章 「記念碑が創る独立戦争の記憶」 (和田光弘氏)。 これらのタイトルを概観しただけでも, その分析対象の多様さ, 時代的な広がりから, 独立の時代の包括的な再評価という本書の目的の深さを窺い知るには充分だろう。 革命起源を問題化することによって浮かび上がるアメリカの無意識は, 実に, 我々の意表を突くものばかりであって, アメリカを語るための新たなパラダイムとしての独立革命の有効性を否応なく実感させられる。 『独立の時代』 は, 南北戦争の成果を前景化するオバマ政権を背景に読むからこそ, より深遠なるアメリカ理解に私達を導いてくれるのである。
若林麻希子 (青山学院大学)


北米エスニシティ研究会 編
『北米の小さな博物館 2』
(彩流社, 2009 年, 2,310 円)

 『北米の小さな博物館』 (2006 年) の続編である本書は, ジェンダーや人種・エスニシティの視点から, 主としてそれらに関わる北アメリカの博物館を取り上げた本である。 前著と同様, 北アメリカのジェンダー, 人種・エスニシティ, 階級, 世帯の問題について共同研究を行っている北米エスニシティ研究会が編集している。
 ここで取り上げられている博物館の多くは, 「北アメリカの博物館」 と聞いて一般に想起されるような, 大都市にある著名な美術館や歴史博物館, 自然史博物館ではない (それらも数館取り上げられてはいるが)。 書名に 「小さな博物館」 とあるように, 例えばシラキュースのエリー運河博物館やニュー・オリンズのマルディ・グラ博物館といった, 特定のテーマや対象に焦点を当てた博物館や, その地域やそこに住む人々の歴史に深く関わる博物館が多く選ばれている。 本書はこのように, 広くは知られていない博物館を取り上げた上で, さらに, 通常は 「博物館」 とみなされない多様な対象──国際機関 (国際連合本部), 国立公園 (カラウパパ国立歴史公園, プレシディオ・オブ・サンフランシスコ), 私有地の墓碑 (おけいの墓) など──を選択しているところに大きな特徴がある。 それらには, 各地域の歴史や時代が刻み込まれており, 博物館と同様に, 北アメリカの社会や文化を伝えてくれるのである。
 本書のもう一つの大きな特徴は, それぞれの項目の叙述の仕方にある。 博物館の概要や設立の経緯を中心に論じている項目もあるが, 多くの項目は, その博物館が対象としている史実や事象に関する記述が中心となっている。 つまり, 本書は, 博物館自体についてと言うより, その博物館が扱っている対象について学べるようになっており, 博物館に展示された品々を前にしてその解説を読むかのような体験を与えてくれる。 博物館の存在をきっかけに語られるのは, 例えば以下のようなトピックである。 ナヴァホとメスカレロ・アパッチの強制移住の歴史, 19 世紀アメリカにおけるギリシア熱, ヴァージン諸島とデンマーク文化, ハワイのハンセン病とカトリックの奉仕活動, アメリカにかつてあった捕鯨文化, 五大湖と大西洋を結ぶエリー運河の建設, アメリカ本土への初の日本人入植, 多様なマルディ・グラ文化, シアトルのニホンマチ, ハワイのキリスト教化, ボーイスカウト運動, モルモン教徒の西部移動, セツルメント運動, アメリカにおけるチェコ系・スロヴァキア系移民, ユダヤ系アメリカ人の食事と宗教, カナダ先住民シュスワップなどである。 博物館をてがかりに, このような多様な文化の存在を教えてくれる本書は, 北アメリカの歴史と文化を学ぶための良き導入となるだろう。
 多様な文化の中で本書が特に焦点を当てるのが, マイノリティに関する記述である。 本書の 「はじめに」 が指摘するように, アイデンティティの再構築の視点に加えて, 各博物館が多文化主義の動向とともに共生の道を歩もうとしている様子が随所に描かれている。 過去だけではなく, 現代の北アメリカについて知る上でも本書が良書となっている所以である。
加治屋健司 (広島市立大学)

2010年01月18日 | アメリカ学会会報