« (社)日米協会「アメリカ研究者の集い 2009」のお知らせ | フロントページ | 会報170号(巻頭言) »
会報170号(新刊紹介)
菅 英輝 編著
『アメリカの戦争と世界秩序』
(法政大学出版局, 2008 年, 3,990 円)
アメリカは 「自由の国」 であり, 理念と文化の力, 経済の力, そして時に軍事力を用いて, 自由主義と民主主義を世界に広めてきた歴史がある。 アメリカ研究者は, イラク戦争を経験した今日, その問題を特に 「戦争」 とのかねあいで考察することが避けて通れない。
本書の表紙を見ると, 標題とともに 「アメリカの戦争とリベラルな世界秩序の形成」 という意味の英語が併記されている。 編著者によれば, アメリカがリベラルな世界秩序の形成をめざすことと, 戦争を引き起こすこととの相互関係は, これまで十分に検証されてこなかった。 そこで, 本書では, 「アメリカの戦争とリベラルな世界秩序の形成」 が生み出すさまざまな問題を総合的に検討することが試みられている。
本論は 2 部構成となっており, アメリカの戦争を国際社会とのかかわりで考察する 5 つの章 (アメリカ帝国主義論の新展開, アメリカの戦争のやり方, ローズヴェルト系論の対外政策, 湾岸戦争からイラク戦争へ, UNHCR とアメリカ) と, 国内社会の視点から考察する 7 つの章 (正しい戦争と不正な戦争, アメリカ市民社会と戦争, 「アメリカの戦争」 における道徳的文法の系譜, イラク戦争とメディアの敗北, 戦争の経済コスト, アメリカ独立戦争とワシントン神話の形成, 戦争の克服と 「和解・共生」) から成る。
本書の標題からはアメリカ研究よりも国際政治学の分野に近い印象を受けるかもしれないが, このように本書は, アメリカの戦争を国際社会と国内社会の両側から多面的に分析・記述しようとする内容となっている。 アメリカが戦争を通じて世界秩序を形成していくという面もあれば, それと同時に戦争がアメリカ社会に影響を及ぼす面もあり, 両者の間にはダイナミックな相互関係があることが想定されるからである。
もっとも, 本書は, 12 名の執筆者による論文集であり, 戦争を媒介してアメリカ社会と国際社会が連動するメカニズムについて明確な結論が示されるわけではないが, 編著者の歴史観は 「序章 アメリカ外交の伝統とアメリカの戦争」 の中に垣間見ることができる。
それによれば, 19 世紀以降のアメリカの帝国主義的膨張の基本要因は 「門戸開放帝国主義」 という枠組みでとらえられる。 経済的権益の確保はアメリカ外交のもっとも重要な目標である。 イラク戦争においては, 石油の安定的確保, 中東におけるヘゲモニーの維持, イスラエルの安全という戦略的考慮がもっとも重要であり, 中東の民主化は優先順位の高い目的ではなかった。 それは, 第一義的には, 世論に対して戦争の正当性を訴える狙いで開戦の理由に挙げられた。
本書は, アメリカ研究者の学問的および実践的な関心が交差する重要なテーマに挑んだ意欲的な企画であり, ぜひ多くの読者に読まれることを期待したい。
(桜美林大学 西岡達裕)
上坂 昇 著
『神の国アメリカの論理──宗教右派によるイスラエル支援, 中絶・同性結婚の否認』
(明石書店, 2008 年, 2,940 円)
この紹介文が掲載される頃には, オバマ大統領の実績評価も十分になされていることであろう。 オバマ 「候補」 は反キリストか, という議論で始まる本書が, 何だかずいぶん昔の話をしているように聞こえるとしても, それは時事評論的な著作の宿命と言うほかない。 だが本書には, それを越えて継続的な意義をもつ貴重な情報もふんだんに盛り込まれている。 著者はアメリカの宗教右派をその内部論理に沿って理解することを求め, 「イスラエル支援」 「妊娠中絶」 「同性愛」 という三つの軸を立ててこれを具体的に検討している。
そもそも, アメリカはなぜあそこまでイスラエルに肩入れするのか。 ユダヤ人は人口比にして 2%弱しかいないのに, アメリカでは一般大衆も圧倒的にイスラエル寄りである。 この不思議を扱っているのが最初の主題である。 問題の鍵を握るのは 「クリスチャン・シオニズム」 であるが, 本書を知らぬおおかたの人には, なぜキリスト教徒がユダヤ人のパレスチナ帰還に強い関心をもつのかが理解できないであろう。 それは, 聖書をある特定の原理主義的な流儀に従って読むと, ユダヤ人の帰還こそがキリスト再臨と終末到来の前提条件だと考えられるからである。 なお, ここには 「メシアニック・ジュー」 ないし 「ヘブル・クリスチャン」 という聞き慣れない呼び名の人々が登場するが, 日本ではほとんど紹介されたことがないので, これも本書の貢献の一つであろう。
一方, 妊娠中絶という二つめの主題をめぐる議論は, すでに本邦でも多々紹介されているが, 本書はロウ判決以後の出来事や資料をていねいに渉猟して解説を加えており, 歴史的経過のおさらいにも便利である。 ここは強硬なフェミニスト論客の主張が飛び交う領域なので, 下手をすると単なる情報整理だけでも火傷を負いかねない。 その中で評者が好感を覚えたのは, 著者が数々の統計資料や世論調査をきちんと踏まえた上で, なおそれらの数字だけで国民の意見を計ることの難しさを嘆いているところである。 歴史家は何の裏付けもなしにドラマを仕立て上げるわけにはゆかないが, さりとて数字を並べれば自然と歴史がドラマになるわけでもない。
中絶論争の歴史はせいぜい前世紀からだが, 同性愛をめぐる議論には紀元前からの長い歴史の蓄積があり, かつ現代神学や聖書解釈学の知見が関与する割合も大きい。 生物学や倫理学や文化論など, 多方面からのアプローチも必要な主題で, 評者の訳書や論文も何点か参看していただいてあるが, これだけの短いスペースでそれらを見渡すのはさぞ難しかったであろう。 著者はみずからも不案内な尋ね人としてこの論題に取り組んでいるため, 予備知識のない者にも親切でわかりやすい説明になっている。 同性愛は普遍的だが, アメリカではそれが独特な余波を伴って現象する。 そこにアメリカの固有性を見ようとする著者の着眼は正しい。
森本あんり (国際基督教大学)
リリアン・E・スミス著, 廣瀬典夫 訳・著
『リリアン・E・スミス 『今こそその時』 ── 「ブラウン判決」 とアメリカ南部白人の心の闇』
(彩流社, 2008 年, 2,940 円)
本書は, 二部構成で第 I 部のリリアン・スミスの著書 『今こそその時』 の翻訳と, 第 II 部の翻訳者による考察 「ポストコロニアリズムの時代におけるリリアン・E・スミスの再評価」 から成る。 第 I 部の 『今こそその時』 は, ブラウン判決を高く評価したスミスが, その受け入れをアメリカ市民に訴える目的で判決の翌年に出版した書であるが, 判決から 50 年経った 2004 年に 49 年ぶりに再版されたことがきっかけとなり, 日本語訳出版に至った。 第 I 部は 3 部に分かれ, 最初の 「今こそその時」 では, 人種隔離の歴史を辿り, 隔離の背景にある白人の心の内を分析している。 そこでは, 白人の不安が隔離を生み出すことが論じられる。 そして, その不安が煽動家によって煽られ, ついには隔離が立法化されるというプロセスを明らかにしている。 予てより隔離に反対の姿勢を示してきたスミスは隔離された南部について, 自分たちを壁で囲って知りたくないことを語りかける科学や批判者から遮断した状態だと批判的に述べている。 そして, 最高裁の判決が出た今こそ隔離を撤廃し, アメリカに対する世界の不信感を払拭しようと呼びかける。 次の 「行動や言葉で示すべきこと」 では, 隔離撤廃に際しどのように行動すべきか実用的な指針が示される。 最後にスミスが講演でよく受けた 「25 の質問」 と答えで締めくくられる。 廣瀬氏が指摘するように, 人種隔離を 「黒人の問題」 というよりは 「白人の問題」 と把握している点が同書におけるスミスの分析の特徴と言えよう。
第 II 部において廣瀬氏は, 人生のほとんどをジョージア州で過ごした生粋の南部白人でありながら人種隔離廃止を唱えたスミスの視座が, 当時の南部の枠にとらわれることなく際立って今日的であったことを明らかにしていく。 氏は, 『夢を殺した人たち』 『奇妙な果実』 等の著作における南部白人の描写をも検討し, スミスがプアホワイト, 宗教, 父権制社会をどのように捉えていたのかを分析する。 そして, 隔離を基盤とした南部の支配体制を白人の心を軸に描出し, 南部の父権制社会に生きる白人男性の歪みや, 南部支配者層が白人優越という論理を利用してプアホワイトを人種隔離装置の一部として機能させていたことなどを暴きだした点に注目し, スミスの視座をポストコロニアルと指摘する。 また, 同時代あるいは現代の論者と比較検討し, モリソンやサイードとは共有する考え方があり, フォークナーやマクギルらの南部人自由主義者 (liberals) や穏健主義者, アグレリアンとは対立点が見出されることから, スミスをポストコロニアリストと位置づける。 当時の南部白人女性としては極めて稀に 「急進的」 であったリリアン・スミスの考え方を, 「ポストコロニアリズムに繋がる視座」 として考察した第 II 部は, 第 I 部の解説にとどまるものではない。 『今こそその時』 の出版から半世紀が過ぎた今, スミスの位置づけを再考する研究書として意義深い。
(細谷典子)
宇沢美子 著
『ハシムラ東郷──イエローフェイスのアメリカ異人伝』
(東京大学出版会, 2008 年, 2,940 円)
名字をふたつ重ねた 「ハシムラ東郷」 という名には, いかにも日本好きの外人さんの努力を見る思いがある。 うーん, がんばって考えたんだね, でもどっかおかしいよな, というのが第一印象。 しかし, 本書の表紙を見ると, 眼鏡で出っ歯でちょっぴりナヨっとしたアジア人像は, 確かにどこぞで見たような気がしてきた。 オードリー・ヘプバーンの主演映画 『ティファニーで朝食を』 やサイバーパンク映画の傑作 『JM』 にも, こういう怪しいオッサンを見かけた気がする。 あの連中が 「ハシムラ東郷」 の子孫なら, 御本家たるもの, どこでどのようにその影響力絶大なステレオタイプを作り上げたのか。 本書はまさしく, その奇妙な侮辱的 (?) 日本人像の正体に迫る, 謹厳実直にして膨大なるリサーチの賜物である。
ハシムラ東郷とは, ユダヤ系米国人ウォラス・アーウィンのペンネームにして架空の人物であった。 日本からカリフォルニアに渡ったスクールボーイの日常がいかに失敗の連続であるか, その奮闘ぶりをエッセイとして書いたところ, 好評を博したという。
ではスクールボーイとはなにか? 著者は懇切丁寧に 「学僕」 と訳される, この謎の職業を紹介している。 これはメイドさんがやる仕事を引き受けた日本男児, いわば住み込みのボーイさんのこと。 日本では地位も名誉も野心も将来もある男子が, はるばるアメリカくんだりまで留学して一流の知識を身につける……はずが, ご当地でなんとメイドさん的な仕事に邁進しなければならないとは! なんと哀しい境遇! とそこでつい笑ってしまうわけなのだが, その笑いこそが, 実は曲者なのである。 著者は, 国境を越えるついでに性差と階級の境も超え, 哀しさあまって滑稽と成り果てた黄色人学僕の物真似で売るアーウィン人気の秘密に, メスを入れていく。
なんとも奇妙なイエローフェイス現象だが, 日本人にとっては噴飯モノとして映りかねないハシムラ東郷のドジっ子のなかに, WASP 以外のアメリカ人であるアーウィン自身の心情が反復されている, というからおもしろい。
著者はハシムラ東郷の活躍の背景を知るために, 同時代のイエローフェイス作家オノト・ワタンナや米国へ渡って日本人詩人としてデビューしたヨネ・ノグチといった作家たちの活躍を論じ, さらにアーウィン自身の他の作品にも目を配る。 こんな作家たちがいたのか, という驚き以上に, なぜアメリカ人が日本人作家になりすましたのか, なぜ日本人が英語で作品を発表したのかなどなど, 未知の世界への興味をかきたててやまない内容だ。
通常ならば日本人差別への糾弾に傾きそうな話題だが, 本書は黄色人差別 (黄禍) が日本趣味 (ジャポニズム) と二律背反であり, 侮辱的と同時に魅力的でもあるというアンビヴァレンスにスポットを当てている。 この余裕が面白い。 冒頭で示したとおり, 評者などはまず, 外人がどのくらい日本人になれるかという問題に対し, けっこう手厳しい小姑的な鎖国的メンタリティで構えてしまうのだが, 本書はそうした条件反射に対しても慎重なまでに批評的距離を保ち, 複雑怪奇な異人種間交流の対話を巧妙なまでに演出しており, さわやかな読後感を与えてくれた。 小谷真理 (SF& ファンタジー評論家)
藤平育子 著
『フォークナーのアメリカ幻想── 「アブサロム, アブサロム!」 の真実』
(研究社, 2008 年, 5,000 円)
フォークナーが 20 世紀アメリカ文学を代表する作家であり, その代表作が 『アブサロム, アブサロム!』 (1936) であることは周知のことである。 本書はその 『アブサロム』 と関連作品の徹底的な読解を通して, フォークナー文学理解の 21 世紀的到達を示したものである。
難解をもって知られるフォークナーの作品のなかでも 『アブサロム』 はとりわけ難解であり, いくつもの 「謎」 を巡って活発な議論がなされてきた。 議論は尽きることがないものの, 20 世紀末にはおおよその定説が確立してきた。 しかしこの度出版された藤平氏の著書は, それらの定見に疑問を突きつけ, 入念な立証の作業を通して新たな解釈を次々と示していく。 数多くの創見のなかで最も主要なものは, 「語り手たちが隠蔽している」 サトペンの《重罪》 (フェロニィ) が奴隷売買であるということである。 また, 南部のみならずアメリカ全体が奴隷制度の《重罪》を犯しており, アメリカの夢がその《重罪》によって支えられているという告発である。
その創見をもたらす原動力となるのは次の 2 つの視点である。 藤平氏は基本的にフォークナーの諸作品を 「南部社会において周縁的な存在とされていた女性, 奴隷, 黒人たちが, 記憶される主体として共同体の歴史に自己を刻印する勇気」 (178) に着目して読解する。 その最たるものがローザ・コールドフィールドの役割の積極的見直しである。 「フォークナー研究は, 長い間, ローザを怒りと憎悪の女と決めつけてきた」 (74) として, ローザの物語の読み直しを進める。 いま 1 つは氏が 「ここ十年ほど, 私は, フォークナー作品における笑いや怒りなどの身体表現の《感染力》について考えてきた」 (56) と述べる身体への着目である。 その白眉は, クライティの手を振り払ったローザが, 思考を重ねるうちにむしろ白人優越主義に疑問をもち, 苦悩する立場に追いやられ, 遂には女奴隷の心の地獄を共有するようになったのだという解釈である。
このような視点を藤平氏が持ち得ているのは, 氏がフォークナー研究者であるとともに, トニ・モリスンの研究者であるからであろう。 氏にはモリスンについての独創的な著書もあり, 本書においてもモリスンの作品, とりわけ 『ビラヴィド』 (1987) を鏡として, 『アブサロム』 とフォークナーの文学を論じている。 フォークナーが南部白人男性作家でありながらアメリカの奴隷制や人種主義に対して苦悩し, 深い洞察を有していたことの新たな証拠として, 氏はクエンティン・コンプソンの祖父の言葉を引用・分析する。 この部分への着目は氏のモリスン体験を通してこそ到達しえたものだろう。
本書はフォークナーの文学が今や 「アメリカ文学」 の範疇を越えて, 世界文学となっていることを, 近年のフォークナー研究の最新成果を確実にふんだんに取り入れ, 完膚なきまでに立証している。 「フォークナー研究の現在と未来を見据えることを念頭において書いた」 (459) という 「あとがき」 の通り, 本書は現在におけるフォークナー研究の最高の到達点を示している。 この本を越えることこそが今後のフォークナー研究に課された大きな課題である。 山下 昇 (相愛大学)
諏訪部浩一 著
『ウィリアム・フォークナーの詩学 1930‐1936』
(松柏社, 2008 年, 3,800 円)
本書は 2004 年, ニューヨーク州立大学バッファロー分校に博士論文を提出受理された諏訪部氏が, 帰国後さらに 7 本の論攷に発展された議論の集大成である。 論攷は各々 『英文学研究』, 『アメリカ文学研究』 それに 『フォークナー』 などに掲載されてきた。
「序章」 に続く本論は 2 部構成全 5 章立て。 第 1 部 「社会的関心の変化」 と第 2 部 「歴史の重み, そして南部の臨界点」 は, 最初に各々20 ページ, 15 ページにおよぶイントロダクションを置く。 第 1 部の 3 つの章は 『死の床に横たわりて』, 『サンクチュアリ』 それに 『八月の光』 を, また第 2 部のふたつの章は 『標識塔〈パイロン〉』 と 『アブサロム, アブサロム!』 を論じる。 各章は独立してひとつの小説を扱うというより, 統一的問題意識の流れのなかで各作品を論じるので, どの章も直接対象とする作品ばかりでなく, つながりをもつ多くの作品への言及を含む。
20 世紀前半のアメリカ文化を特徴づけた 「男性不安」 を, フォークナーも含めたアメリカ作家たちはどのように昇華したかが論じられたあと, 議論はフォークナーの社会的関心への深まりと広がりに向けられる。 そのさい諏訪部氏は特に女性が作品で果たす役割に注目する。 作家が生きた現実の南部社会は家父長制に支配され, 女性たちを 「称える」 ことによって実は抑圧し, レーシズム隠蔽の手段として用いた。 だがフォークナーの小説世界にあっては, 女性たちは 「母」 か 「雌」 かという南部ジェンダーイデオロギーへの反逆者となる。 そのため彼女たちと関わる男性は 「解消され得ない男女間の葛藤」 に直面する。 だが, こうした状況からこそ, フォークナーの作品を特徴づける対位法的語りが生まれる。
フォークナーの女性たちが男性とどうかかわり, 両者の抜き差しならぬ関係のなかで, 南部社会のいかなる側面が浮かび上がり, どのような語りが生まれたかを追究した諏訪部氏が最後に達した結論とは, フォークナーも結局は環境に支配される 「歴史的産物」, 「保守的な白人南部男性」 だったということである。 ただし, これはフォークナーの評価を貶めることになるわけではない, とも氏は強調する。 自らが置かれた文化的宿命のなかで, その宿命に真摯に対峙したことこそが, 彼の真価なのだ, と。
本書一読, 自家薬籠中の物よろしく, 比較的初期のものから直近に至るまで, おびただしい量に達するフォークナー研究の蓄積成果を, 諏訪部氏が持論展開のなかに要約紹介される, その手際の良さに読者は印象づけられよう。 本邦フォークナー研究が本格化したのは 1960 年代だったが, 本書は半世紀のあいだにわが国のフォークナー研究がどこまで進展したかを示す, ひとつの指標となろう。 観念的難解表現がときに顔を出すようで, 理解のためには反芻が必要となって読み解くのに時間がかかるが, その苦労を補って余りある優れた研究書。
杉山直人 (関西学院大学)
武藤脩二 著
『世紀転換期のアメリカ文学と文化』
(中央大学出版部, 2008 年, 3,800 円)
本書は南北戦争後から 20 世紀初頭にかけてのいわゆる 「金鍍金時代」 のアメリカ文学と文化を多面的に論じたものである。 この時代はアメリカン・ルネサンスと 1920 年代という 「輝かしい」 文学史区分に挟まれ, ややもするとその両区分の橋渡し的期間として片づけられやすいが, 武藤氏はアメリカ文学・文化の連続性と変化を俯瞰的に見ることで, この時代の特性を再発見し, 重層的に考察しようとする。
武藤氏の批評スタンスは歴史を連続的な流れとして捉えるだけでなく, 文化の共時的でグローバルな相互作用にも目を向け, その両軸が交差するときの豊かで複雑な諸相を捉えようとする点にある。 たとえば 1 章では, ハーバード大学で英文学を教え, 優れた文芸批評家でもあったトマス・サージェント・ペリーが慶應義塾大学で教鞭を執るに至る経緯から, 彼の日本観とラフカディオ・ハーンの見た日本との違い, またその文学史観における進化思想の影響や夏目漱石にも見られる同様の要素など, 歴史的・地理的な文化の相互作用のあり様が連鎖的に語られる。 あるいは, ローマのコロセウムの表象をめぐる 6 章では, バイロン, ゲーテといったヨーロッパの文人たちから, ポー, ホーソーン, トウェイン, ジェイムズ, ウォートンへと続く流れを概観しながらも, そこに見られる 「芸術と倫理」 との相違が 「南と北の精神の差異」 であるという指摘や, ロマン派以降, コロセウムは衛生思想の影響を受け, 「実際的・科学的理解」 によって表象されるようになるという指摘など, ダイナミックな分析を展開する。
このような文化的共振は, 11 章からなる本書全体に表れる。 その基底にあるイメージは 「漂流」 であるが, その他の部分でも共鳴し合っているように思われる。 3 章で論じられるボストン・ブラーミンの (白人優位の) 意識と文化は, ペリーやその妻の印象派画家リーラ (2 章) と響き合い, さらにそれが失われることへの危機感を抱いたロバート・ローエル (8 章) ともつながる。 あるいはまた, 6 章で分析される自然に覆われたコロセウムの廃墟は, 最終章で論じられるニューイングランドの荒廃とも重なるが, 両者の表象の差異が, 「漂流」 として表現されたフロストのエマソンからの隔たりとしても認識される可能性を秘めている。
本書のように奥深い広がりのある研究は, 狭い専門領域に囚われた研究者の限界も指し示してくれる。 ジェイムズ兄弟やフィッツジェラルドに流れるアイリッシュ系の血の重要性と, 「ブラック・アイリッシュ」 の影響力が増大した時代に現れた 「アングロサクソン・アメリカン」 の 「スコッチ・アイリッシュ・アメリカンに対する隠微な差別意識」 (3 章) や, エマソンの 『志願兵』 に見られる戦争レトリックの系譜とヘミングウェイによるそのようなレトリックの否定 (7 章) などの指摘は, 作家による個別研究では決して得られない慧眼である。
このような時空間を縦横無尽に駆けめぐる本は, 長年にわたって地道な研鑽を積んだ人にしか書けない研究書であり, 読者にとってはいささか厄介な本である。 というのも, こういった本は再読を迫るからであり, かつ再読に値する本であるからだ。
野口啓子 (津田塾大学)
2009年08月29日 | アメリカ学会会報
Copyright © 2004 The Japanese Association for American Studies. All rights reserved.