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会報169号(新刊紹介)

新刊紹介

松田 武 著
『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー──半永久的依存の起源』
(岩波書店, 2008 年, 6,090 円)

 本書は, 松田武氏が 2007 年に英文で出版された Soft Power and Its Perils: U. S. Cultural Policy in Early Postwar Japan and Permanent Dependency (Washington, D. C: Woodrow Wilson Center Press & Stanford: Stanford University Press, 2007) を, 日本語に翻訳したものである。 筆者は本書の中でアメリカ合衆国をヘゲモニー国家と捉え, 第二次世界大戦後の冷戦状況の中で実施された対日占領政策を, 自国のソフト・パワーを利用して日本を東アジアにおける米国に友好的な中核国として抱き込む文化攻勢と位置づけている。 そして具体的には, 主に戦後初期の 「政府―財団―大学間の癒着問題」, 「文化交流の制度化及び研究者の姿勢」 をテーマに, ソフト・パワーが日本人アメリカ研究者に米国に対する依存体質をもたらしたばかりか, 結果的に日本の高等教育制度を序列化する上で重要な役割を果たしたと主張している。 筆者は日米の関係諸機関に所蔵されている関連一次史料を駆使して, このような立論を展開している。 以下でその内容を簡潔に述べたい。  
 アメリカは共産主義勢力の日本への浸透に対抗するため各地に文化センターを設立し, 日本人の誤った米国イメージの解消に努めた。 また, 合衆国に関する知識を知識人や一般大衆に普及させるため自国で刊行された図書の 「翻訳プログラム」 を推進し, 自由主義的資本主義の健全さとその共産主義に対する優位性を強調した。 その背後には日本のナショナリズムの台頭に対する懸念とアメリカ人の歴史的な反共主義が存在した。 特に 1948 年から 50 年にかけての東アジアで共産主義勢力が台頭する中, 日本を西側に繋ぎとめるための対日講話条約の締結は米国の重要課題であった。 その際, 交渉責任者のジョン・ダレスは, 日米文化関係の確立・維持を念頭にジョン・ロックフェラー三世を文化顧問として講和使節団に加えた。 ロックフェラーは, 具体案をまとめて 1951 年に報告書をダレスに提出し, 提案の実現に向けて日本人リベラル派との協力関係を強化した。 国際文化会館の設立事業はその象徴であったが, これは二国間の双方向性及び共同企画の原則, 民間主導による活動という彼の信念が活かされた文化関係制度化の成功例であった。
 一方, ロックフェラー財団はアメリカ政府と協力しながら, 文化冷戦下における日本で親米派の育成を目指した東京大学アメリカ研究セミナーをはじめ, 各種のアメリカ研究振興活動を財政的に支援した。 その際, 特定の大学やエリート研究者に潤沢な資金を提供したため, アメリカの財団の寛大さに依存する体質を日本人研究者に植え付けたばかりか, 日本の高等教育制度の階層化と中央集権化に重要な役割を果たすことになった。 さらにいえば, アメリカのソフト・パワーに依存して, 日本は民主主義の中核的価値観である人権や平等の理念を取り入れず 「形だけの民主主義」 を導入したに過ぎなかった。
林 義勝 (明治大学)

渡辺将人 著
『現代アメリカ選挙の集票過程──アウトリーチ戦略と政治意識の変容』
(日本評論社, 2008 年, 3,780 円)

 本書はアメリカの選挙で重要な役割を果たすアウトリーチ活動の歴史的変遷を通して, そこに映し出される現代アメリカの政治的な対立軸の諸相を読み取ろうとするものである。 著者が 「選挙区, 選挙民に手を差し伸べて集票につなげていく行為」 と定義するアウトリーチ活動は, 「空中戦」 と呼ばれるメディア戦略から草の根の動員活動までの集票過程全般をカヴァーする包括的な概念だが, 本書は空中戦との対比で 「地上戦」 とも表現される選挙区単位のフィールド活動を特に重視する。 これはさまざまな専門に分化したプロの選挙屋たちが活躍するアメリカでも経験者以外その実態を把握できないといわれるほど非常に複雑で流動性の高い領域であり, 今までその実態はあまり紹介されてこなかった。 本書では, 2000 年上院議員選挙においてヒラリー・クリントン陣営のアウトリーチ活動に携わった著者が, その貴重な経験と知識をもとに, 集票活動の現場に投影されるアメリカの政治的断層を分析する。
 第一章ではまずアメリカの選挙におけるアウトリーチ活動の概略と, 近年のその発達過程を概観し, 第二章以下ではアウトリーチのあり方を大きく規定する代表的な四つの対立軸を掘り下げることで実際にどのような断層が現代アメリカ選挙で重要な役割を果たしてきたのか明らかにする。 第二章では 「人種」 というファクターが二大政党のアウトリーチ戦略の発達を導いた歴史を概観し, 近年の変化にも注意を促す。 特に, 忠実な基礎票としての黒人層が, 雑多な集団を束ねてきた民主党には常に党内分裂の危険性をもたらす存在でもあったことから, 旧来的なアイデンティティを横断するオバマのようなタイプの政治家が待望されていたという分析は, 本書が 2008 年の選挙結果が出る前に出版されたことを考えれば非常に興味深い。
 第三章では 「エスニシティ」 という分断線に焦点をあて, 多民族社会アメリカを象徴するニューヨーク都市部で民主党が発達させてきたエスニシティ単位のアウトリーチ戦術と, この伝統をさらに発展させた 2000 年上院選挙におけるクリントン陣営の戦術を紹介する。 2004 年に W・ブッシュの大統領再選を実現した共和党の戦略がこのヒラリーの集票戦略を参考に編み出されたということは, アウトリーチをめぐる知識と技術の蓄積がもつ政治的価値を示している。 第四章では, ポスト=エスニックなアウトリーチの地平が見え隠れする現代に重要性を増す信仰と 「価値」 が, 具体的にどのような形でアウトリーチ活動に反映されてきたかを見る。 最後の第五章では, 時には既存の政治秩序を脅かしかねない予測不能な 「ポピュリズム」 の噴出に当惑しながらも, 新時代のアウトリーチ戦術を模索する二大政党の姿が描かれる。
 著者は現代アメリカの選挙におけるアウトリーチのあり方を紹介することをあくまで本書の付随的な目的として挙げているが, 全編に散りばめられた興味深いエピソードの数々は現代アメリカ政治とアイデンティティの関係を理解するための貴重な手掛かりと洞察に溢れている。 どの章も躍動感溢れるアメリカの選挙空間への魅力的な招待状である。 庄司 香 (学習院大学)

佐々木卓也 著
『アイゼンハワー政権の封じ込め政策──ソ連の脅威, ミサイル・ギャップ論争と東西交流』
(有斐閣, 2008 年, 3,100 円)

 本書は, 著者による 『封じ込めの形成と変容──ケナン, アチソン, ニッツェとトルーマン政権の冷戦戦略──』 (1993 年) の続編として位置づけられる研究である。 前著と同様, 数多くの既存の研究と一次史料を丹念に読み込み, きちんとした構成で議論を進めるという著者の力量は本書でも充分に発揮されている。 最近の研究成果も取り入れつつ, 研究史上の既存の解釈や論争を念頭に置いた議論がわかりやすい文章で展開されている。
 前著ではケナンら政府高官の見解と政権内の対ソ封じ込め政策をめぐる議論に焦点が当てられていた。 本書では, 大統領の政策形成への関与や政権の政策立案スタイルの違いもあり, アイゼンハワー自身, そしてダレス国務長官らの対ソ認識や対ソ封じ込め・安全保障政策に関する見解と政権内での論争に焦点が当てられている。 第 1 章では, アイゼンハワー政権の基本的安全保障政策の立案過程と大量報復戦略の採択が分析される。 第 2 章では, 50 年代のソ連の経済成長や 「冷戦」 環境の変化とともに, 対ソ封じ込め政策が多様化し, 軍事手段のみならず経済や東西交流も重視した政策へと変遷する過程が描かれる。 第 3 章以降では, ソ連の経済成長, 核戦力の増強やスプートニク打ち上げなどからミサイル・ギャップ論争が激しくなり, 政権の内外でソ連脅威論と対ソ強硬路線, 軍事面での対ソ優位を主張する勢力が勢いづいた過程が描かれる。 しかし, 同時に著者は, このような論争の中でアイゼンハワーやダレスが軍事に偏ったソ連脅威論やミサイル・ギャップ肯定論, 急激な軍備拡大路線に安易に与することなく, 抑制的で健全な抑止力の維持と軍事手段のみに依存しない封じ込め政策の堅持に努めたことを強調する。 著者によれば, アイゼンハワーらはソ連の脅威を多面的なものとして捉え, ソ連との 「全面的な冷戦」 は単なる軍事的争いではなく, 「二つの生活様式」 の争いとして理解していた。 従って, アメリカの対応は軍事的措置のみに偏ることなく, 対外援助, 文化交流といった手段をも活用する包括的なものであるべきで, アメリカ経済, 社会の健全さを維持することも重要だった。 アイゼンハワーらの努力がすべて実を結んだわけではなかったが, 彼の告別演説などにも表れているように, アイゼンハワーは過大な軍事費, 「兵営国家」 を拒否することで 「健全なアメリカ的生活様式と民主主義体制」 を堅持しようとしたと著者は述べている。
 本書では, アイゼンハワー, ダレス, 他の政府高官や議員などの多くの発言が生き生きと紹介され, 著者の議論を説得力あるものとしている。 本書で展開されるアイゼンハワー, ダレス論については異論もあるだろうが, 最後で著者自身もアイゼンハワー政権が多くの 「負の遺産」 を残したことに言及している。 本書は学部生や大学院生にも最適な本だが, 戦後のアメリカ外交を研究する者や, このような 「負の遺産」 を研究する者にとっても, 本書におけるアイゼンハワー政権の対ソ政策・安全保障政策の評価を素通りすることはできないだろう。
寺地功次 (共立女子大学)

森 仁志 著
『境界の民族誌──多民族社会ハワイにおけるジャパニーズのエスニシティ』
(明石書店, 2008 年, 5,250 円)

 ハワイ日系人については, 日本人研究者による様々な著作がある。 しかしこれまではハワイへ渡った移民一世や現地生まれの二世が経験したホスト社会における排斥と同化の歴史が関心をひいており, 第二次大戦中・戦後の彼らの経験や, 社会的・経済的・政治的・法的地位の変遷, アイデンティティの問題についての研究が蓄積されてきた。 最近は次第に現在の多民族社会ハワイに関心が向いてきているが, その中でも本書のように, ハワイのジャパニーズの若者つまり主に三世・四世が, 自らのエスニシティをどう考えているのかについて, 真正面から取り組んだ本はなかったのではないか。
 本書はまず序論第一節で 「民族誌」 について論じ, 本研究は, 著者が 5 年近く 「フィールドで現地の人々とかかわり合うなかで, 彼/女らが積み重ねる経験について, あくまでも解釈の内部にとどまりつつ, 限定的かつ部分的に学んだものとして提示され」 ていることを前置きする。 そして序論第二節では, この研究が実はジャパニーズのなかでも 「パートジャパニーズ」 つまり日系と他民族とのミックス (混血) の人々のアイデンティティを理解することに力点をおいていることを述べ, いわゆるミックスの人々を研究する際に利用しうる理論的枠組について説明する。 第一章では, 「ハワイ多民族社会の概要」 として, 歴史的背景とともに民族通婚率やミックス人口について統計から説明する。 第二章の 「若者が経験する民族的環境」 では, 2002 年に表面化したハワイ日系文化センターの財政危機問題にからめて, ジャパニーズの若者たちが日常的にどのようにエスニック・コミュニティを意識しているのかを論ずる。 特に日本製のアニメやゲームとジャパニーズの文化との関連を紹介しているところが本書の特徴といえる部分であろう。 第三章ではパートジャパニーズのライフヒストリーを紹介し, 続く第四章 「エスニシティをめぐる名乗りと名指し」 で, 個人, 特にパートジャパニーズが 「自己」 と 「他者」 の間に民族的な境界を引く際に, 何を参照点にするのかを明らかにしようとする。 ここではハワイ独特の 「ローカル・アイデンティティ」 についても言及される。 最後にハワイ住民のアイデンティティはエスニシティのみならず, 社会階層, 地域, ジェンダー, セクシャリティなどの他の社会的カテゴリーにも影響されており, いかに複雑で重層的であるかが論じられる。
 本書は, 著者の研究者としての 「目」 を通してみたハワイ社会の一部分を鮮やかに描いている。 今後ますます 「ミックス」 のジャパニーズが増えていく中で, ハワイにおいてジャパニーズと名乗り, 名指しされる人々が, ジャパニーズの文化をどのように捉え, 時がたつにつれてそれをどう変化させて, 次の世代にゆだねてゆくのか, 興味をひかれる。
 本書は, 著者が意図したように, 現在のハワイの多民族的状況についての 「資料記録」 の役割を果たすばかりでなく, 特にこれからフィールドワークに出ようとしている若い研究者には, 研究対象への接近方法の実践論としても参考になるのではないか。
高木 (北山) 眞理子 (愛知学院大学)

西山隆行 著
『アメリカ型福祉国家と都市政治──ニューヨーク市におけるアーバン・リベラリズムの展開』
(東京大学出版会, 2008 年, 6,825 円)

 アメリカ型福祉国家の評価については,近年,中央政府レベルでの単純な制度比較や GDP に対する福祉支出の比較において他の先進国に劣るという解釈から, 地方政府や民間が提供するサービスと給付を考察に加えれば決して 「遅れた福祉国家」 とはいえないという解釈へと変わりつつある。 本書はその流れを見据えつつ, 都市政治分析と政党政治の考察を踏まえて, アメリカ型の福祉国家 (都市) の射程と限界を浮かび上がらせた力作である。
 アメリカの内政問題を論じる際, 連邦制は必ず考慮すべき前提条件となる。 福祉についても例外ではない。 著者は州政府や地方政府が福祉政策の対象や給付額を決定するにあたって大きな役割を担っていることをあらためて確認し, 中でも全米福祉受給者数の 10 パーセントを占める 「小さな福祉国家」 ニューヨーク市のアーバン・リベラリズムの成立と後退のメカニズムを分析することで, アメリカの福祉国家の構造を探っていく。
 本書の特徴は福祉政策の展開を政党政治, 利用しうる資源, 政策の実施・運用の条件の三点に注目したところにある。 過去百年にわたるニューヨーク市の政治において, タマニー支配体制とその遺産は大きな影響を及ぼしてきた。 民主党支持層が多数派を占めるニューヨーク市では, 民主党系政治マシーンであるタマニーが擬似福祉政策的手段等によって既存の支持層を固める一方で, パトロネージと企業からの献金を通じて政治アクターの主要な部分を掌握してきた。 その結果, 新規流入民 (国内・海外を問わず) が増加する場合にはタマニーの掌握力は弱まり, そこに少数党である共和党系の市長が新たな住民の支持を得て福祉政策を拡大することが可能になった。
 とはいえ, 世界的産業都市ニューヨークといえども, その財政は無尽蔵ではない。 また, 文化的制約を担っている各政治アクターが全ての福祉政策に支持を与えるとは限らない。 著者は財源の寄与者である産業界とミドルクラス層, そして福祉受給を受ける側で有権者でもある層の動向を見据え, 成功した福祉政策と成立し得なかった,また短期で終わったプログラムを,実効性や浸透度合いを含めて, 理論的に説明していく。 これは福祉政策の拡大のみならず, ジュリアーニ以降の縮小局面においても援用可能な理論構築であることを著者は鮮やかに示す。
 著者も指摘する通り, ニューヨーク市は財政基盤が他市より充実しており, また 1930 年代以降連邦の福祉分野における進出とともに, これまで以上の自律性を獲得するに至った。 これは同市がある意味特殊で例外的な条件を備えていたともいえる。 本書で示された分析がどこまでアメリカ型福祉国家論として援用可能かは, 今後の多角的な検証を要するだろう。 連邦レベルでは様々な蓄積があるアメリカ型福祉国家論研究の今後の展開は, 都市福祉政治がどのように福祉国家の発展と結びついたのか, 他の都市や地域の経験がどのように共有され連関していったのかを緻密に分析していくものとなる。 その際, 本書は必ず越えなければならない通過点となるだろう。
平体由美 (札幌学院大学)

西村頼男 著
『草が生い茂り, 川が流れる限り──アメリカ先住民文学の先駆者たち』
(開文社出版, 2008 年, 3,360 円)

 アメリカ先住民文学というと, 私たちがまず思い浮かべるのは, N.スコット・ママディの 『夜明けの家』, レスリー・マーモン・シルコウの 『儀式』, ルイーズ・アードリックの 『ラブ・メディスン』, 最近では, シャーマン・アレクシーの 『リザーベーション・ブルース』 といったところかもしれない。 それぞれの作家が, 高い評価と注目を浴びているのは, 先住民という出自にあるばかりではない。 彼らの作品は, 「先住民性」 と決して無縁ではないが, 作品自体が, 高い文学的完成度を備えているからだ。
 先住民文学者第 2 世代とも呼べる彼らの活躍の陰で, 今日では本国でその存在を忘れられがちであり, 日本ではもとよりあまり知られていない第 1 世代の作家に光を当てたのが本書である。 著者は本書で彼らを 「先住民文学の先駆者たち」 と位置づけ, その紹介と評価に努めている。
 取り上げられた 「先駆者」 たちは, チャールズ・A・イーストマン, ダーシィ・マクニクル, ジョン・ロリン・リッジ, サラ・ウィネマッカ, モーニングドーヴ, ジョン・ジョセフ・マシューズの 6 人である。 本書は彼らにそれぞれ 1 章をあて, 作家の生涯を紹介した後, 彼らの主要な作品を取り上げ解説している。
著者は前編著 (『ネイティヴ・アメリカンの文学』 ミネルヴァ書房, 2002) でマクニクルの作品を深く論じているが, 本書では彼とともに, イーストマンにもっとも紙幅を割いている。 ここではイーストマンの人生の軌跡と作品の交差が読者に読み取れるよう論じられている (第 1 章) が, 『深い森から文明へ』 というタイトルに示されているように, インディアン世界からアメリカ社会に同化してゆき, 後年再びインディアン意識に目覚めていく過程において, イーストマンと白人同化主義者の妻との関係が示唆されているのは興味深い。
 ジョン・ジョセフ・マシューズを扱う第 6 章も関心を引く。 混血であるマシューズは, イーストマンとは対象的にインディアン意識を持たずに育ち, オックスフォード大学を卒業するほどの主流社会のエリートである。 その彼が, 自伝的作品 『夕映え』 で, 饒舌な白人社会との違和感から, 先住民文化に目覚めて行く主人公を描くのである。
 取り上げられた 6 人は, いずれも 19 世紀末から 20 世紀まで, 現実の同化政策を生きた作家である。 どの作家もインディアン社会とアメリカ社会, 2 つの世界の往還に戸惑い, 揺らぎ, 苦悩する。 「書く」 という行為は, 彼らにとって自己の立脚点を求める旅でもあったことを本書は教えてくれる。 そこに現代の先住民作家のような文学的修辞や洗練はないかもしれない。 しかし, すべての先住民作家が避けて通れない先住民アイデンティティとの格闘は, 彼らの作品の素朴さと力強さをもって, 彼らを真の先住民文学の<パイオニア>にしていることを本書は語りかけてくる。
阿部珠理 (立教大学)

山内 惠 著
『不自然な母親と呼ばれたフェミニスト──シャーロット・パーキンズ・ギルマンと新しい母性』
(東信堂, 2008 年, 3,200 円)

 本書の題名にある 「不自然な母親」 とは, アメリカの第一波フェミニストの思想家, シャーロット・パーキンズ・ギルマンに対し投げかけられた非難の言葉である。 19 世紀末のアメリカにおいて, これといって非のない夫に対し, 妻が離婚を申し立てた上, まだ幼い娘 (九歳) を, 夫とその再婚者 (実はギルマンの親友) のもとに送るという選択は, あってはならない, 「不自然」 で母親らしからぬ所行だった。 ギルマンのこの選択はハースト系の新聞に格好の 「醜聞」 を提供し, 「不自然な母親」 の 「烙印」 はその後も一生彼女につきまとった。
 本書は, この非難を受けながらも/受けたからこそ, ギルマンがいかに彼女の思想の中心に 「新しい母性」 の模索を 「女性の経済的自立」 の実現と共においたかを論じる。 同時代のフェミニストたちが婦人参政権獲得に焦点をおくなかで, ギルマンはひとり, 参政権を得た後も続く問題としてこの新しい母性という, 働く母の経済的/精神的/社会的自立を生涯訴え続けたのだと本書は説く。 今日でも仕事か結婚か, (子供ができたら) 子育てか仕事かの選択に悩む女性は多く存在することはいうまでもないわけだが, ギルマンの思想をこの 「新しい母性」 を中心に論じることで, 本書はその特異性と現代性を共に際立たせることに成功している。
 序章において, 日米におけるギルマンの先行研究史が繙かれた後, 第 1 章では, 19 世紀アメリカにおける, 母性を切り札に政治活動を正当化した 「母性主義」 の系譜がたどられ, それに対する否の鏡としてギルマンの 「新しい母性」 論の位置づけが示される。 第 2 章では, ギルマンの 『女と経済学』 に結晶された新しい母性論の 「折衷性」 が解剖され, 進化論, 社会主義をはじめとする同時代の革新的な思想潮流に棹さし, それぞれの理論戦略および限界を継承するものとして, ギルマンの思想が論証される。 第 3 章ではこのフェミニストが 「新しい母性」 の実践編としてどのようなニューマザーのユートピア小説を描いたかが分析される。 特に興味深いのは最後の第 4 章で, 明治後期から大正期にかけて, ギルマンが日本においてどのように誤解・受容されていたかが, 成瀬仁蔵, 平塚らいてう, 山川菊枝, 高群逸枝のギルマン論となぞられる。 (男女) 平等か (母性/女性) 保護か, この二分法で論じられてきた西欧近代フェミニズムは, 日本におけるギルマンの受容にも影を落とした。
 「新しい母親」 の模索は, 同時代の特にフェミニズム運動家たちにとっては, 家族のために己を捨ててつくす, 切り札の 「母性」 を解体するものであった分脅威でしかなく, ギルマンの孤立を余儀なくさせた最大の理由だったが, 今日から振り返るなら, 近代フェミニズムの二分法的限界を打破しうる可能性を秘めた重要な概念であると, 本書は結論づける。 この結論は魅力的だ。 扱われたギルマン作品は, 意図的なのか, かなりスタンダードなものばかりだが, 全編を通して議論によどみがなく, 新鮮かつ野心的な枠組みによるギルマン論として評価できる。 宇沢美子 (慶應義塾大学)

吉原真理 著
Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Music
(Temple University Press, 2007, $22.95)

 日本人アメリカ研究者のいとなみとは, アメリカという文化・国家を客体ととらえ, その中での様々な現象を分析することだ。 人種, 階級, ジェンダーといったレンズをあてて各時代に生きた“アメリカの人々”の現実の姿を浮き上がらせる。 本書が他の研究書と違うのは, 研究者自身が研究対象でもあることだ。 著者はアメリカの大学で教える日本人アメリカ研究者。 その著者自身が, 本書の研究対象である 「アジア系クラシック音楽家」 としての演奏活動経験を持っていて, 多くのアジア系音楽家の知人との交わりの中から本書は生まれたのである。
 ジュリアード音楽院をはじめとする音楽教育機関, ボストン交響楽団など演奏団体には, アメリカの人口比から言うと不自然な割合のアジア系音楽家たちの姿がある。 西洋音楽を学びクラシック音楽を職業として欧米で生活するとき, アジア人・アジア系であることは本人にとってどのような意味があるのか。 本書のもたらすこの問いかけに, 著者は様々な角度からせまっている。
 第一章ではアジア諸国へ西洋音楽が導入された歴史的経緯をたどることで国家の近代化政策や民主主義と音楽教育の関係が分析される。 世界を席捲したスズキメソッド (バイオリン教育法) が日本近代社会の個人主義イデオロギーといかに親和性があったかなど興味深い洞察もある。 第二章ではアジア系音楽家たちのアイデンティティのケーススタディが, 第三章では音楽家ことに女性演奏家たちにとってジェンダーの持つ意味が具体的事例とともに語られる。 第四章で, 階級という視点からアジア系音楽家を見る吉原は 「クラシック音楽という文化資産は, アメリカ社会の中で金銭として流通する他の資産に変換されることはほとんどない」 (165) ために, かれらは自分たちの階級について語る言語を持たないというその点でアイデンティティを共有すると言っている。
 西洋と全く異なる文化に属しながら西洋音楽の正真性をどのように自分自身の中に吸収して音楽活動をしていくのか。 アメリカで教育されアメリカで音楽家としてのキャリアを築こうとするアジア系音楽家たちに突きつけられるこの問題の複雑さについては第五章でとりあげられている。 「アジア系であるからといってクラシック音楽家としての本質が減るわけではないし, クラシック音楽家であるからといってアジア系であるという本質がそこなわれるわけではない」 (223) という言葉からは, 日本人としてアメリカ研究と向き合いアメリカで職を得た著者自身の声が重なってくる。
 冷戦期の 1958 年, レオニード・コーガンに見出された 9 歳の佐藤陽子がモスクワ音楽院へ留学するニュースが新聞のトップ記事となった。 クラシック音楽の本場へ招待される同年齢の少女の写真をまぶしい思いで見つめていた私にとって, 昨今のアジア系音楽家たちの活躍は常に関心事であった。 三浦たまきに始まり, 小澤征爾, 竹沢恭子, ケントナガノ, 内田光子, ユンディー・リー, チョーチャンリン等クラシック音楽好きには嬉しい名前が並んでいる。 学術書を読む刺激に加えて趣味の読書をする楽しみも味わえる研究書であった。
下河辺美知子 (成蹊大学)

油井大三郎 著
『好戦の共和国アメリカ──戦争の記憶をたどる』
(岩波新書, 2008 年, 780 円)

 デモクラシーの先駆者を自負するはずのアメリカは, にもかかわらずなぜ好戦的になるのか。 本書は 『日米・戦争観の相剋』 などを通じてアメリカの戦争との関わりを描いてきた著者が, この疑問をもとに, 戦争との関わりを軸にアメリカ史を跡付けた問題史の著作である。
 本書を読むと, ひとくちに戦争といっても, 植民地時代以来, アメリカの関与してきた戦争がいかに多様かを改めて認識させられる。 置かれた国際環境や戦いの相手, 手持ちの軍事技術や戦略によって戦い方は大きく異なってきた。 例えば, 同じ建国初期でも, 共和主義からくる 「戦争自制」 の態度が対先住民戦争では放棄され 「無限定戦争」 の様相を呈し, 南北戦争では火器が発達したにもかかわらず戦闘に際してナポレオン以来の 「決戦方式」 がとられたために多くの戦死者が出た, という指摘は興味深い。 また他方で, 第二次大戦時からの 「ミュンヘン症候群」 に代表されるように, 過去の戦争からの 「教訓」 がそれに続く戦争を枠づけるという連続性も見逃せない。 このように, 本書は戦争の遂行や兵器の発達といった軍事史面の記述の充実に一つの特徴がある。
 日本の大学のアメリカ史の授業では, こうした側面を踏み込んで扱う時間の余裕がない場合が多いであろうから, 初学者にも読める本書はそれを補う教材としても有用といえる。 しかし, 本書の眼目はあくまでも, 戦争を戦うなかでアメリカ社会の進む方向性や, 戦争への態度がいかに規定されていったのかを明らかにするところにある。 アメリカでは戦争を通じて国民の愛国心が喚起され, 利用されるだけでなく, その過程でナショナル・アイデンティティが確認され, しばしば再定義されてきた。 本書はそれが政府からだけでなく下からも, また戦争推進派だけでなく反戦派からも試みられ, そしてそれによって異なる人種, ジェンダー, 階層の間で国民の関係が変容を迫られていった過程を, 手際よくまとめている。
 本書の今ひとつの魅力は, 近年大きな成果を上げている歴史の記憶論の成果を取りこんでいる点にあり, それによってとくに後半の叙述が厚みを増している。 なかでも著者に本書執筆の動機を提供した 「対テロ戦争」 について論じた部分は, ブッシュ政権が 「テロとの戦い」 を過去の戦争と関連づけつつ 「戦争」 と規定したものの, アフガニスタンやイラクへの武力行使に際して政権が今度はベトナム戦争など過去の戦争の記憶に翻弄されるようになる姿を描いている。 これは, 対テロリズムという一見全く新しい形態の戦いもまた, それまでの戦争の経験と記憶に大きく左右されることをよく示している。 現状を理解するうえで, 歴史的過去を振り返ることの意義を通史という形ではっきりと提示している点で, 著者の歴史家としての面目躍如といえよう。
 著者ははしがきで, 本書の 「実験的」 な内容を新書という限られた紙幅の中で展開するのは 「無謀な気も」 すると述べている。 最終章では 2008 年選挙にも言及されるが, 本書に盛り込めなかった議論と併せて, オバマがブッシュから引き継いだ戦争について著者がどんな分析を披露してくれるのか, 今後を期待させる一冊である。
岡山 裕 (慶應義塾大学)

近藤 健 著
『反米主義』
(講談社現代新書, 2008 年, 777 円)

 冷戦崩壊後, アメリカが世界の超大国になってからいっそう顕著になった世界の反米感情は, 9.11 で被害者となったアメリカに対する同情から多少は緩和するかと思われたが, その後のアフガン, イラク, パレスチナでの問題処理でさらに悪化している。 しかし, 深刻な経済危機に見舞われたことも一因で, 国際協調主義を唱える黒人オバマ政権が誕生し, 反米感情は好転することが期待される。 とはいえ, あまりにも大きな世界の期待がアメリカ新政権にかけられているので, その期待が外れるとなると, これまた世界の信頼を大きく失い, 状況によっては反米感情が再燃するかもしれない。
 こうした反米感情は, 超大国で覇権をもつ国ゆえに避けられないものだ。 しかし, 反米主義となると, ことは重大である。 日本も大国で戦後処理が完全でないことから, 反日感情などは日常的な言葉となっているが, 幸いなるかな反日主義という表現は, 反日主義者がほとんどで, イズムとして論じられることはあまり多くないのではないか。
 本書は, この反米主義の成立から今日にいたるまで, じつに多くの文献を渉猟しながら解説をしてくれる。 新書という限られた体裁ではあるが, 本格的な研究書としての内容を備えている。 著者によれば, 反米主義は建国以来の現象だが, 意識されたのはアメリカの影響力が発揮された 19 世紀末から 1920 年代にかけてであるという。 第 1 章 「反米主義をつかまえる」 では, ブッシュの罪, アメリカの一極支配, 大量消費文化批判, 反グローバリズムなどが論じられる。 第 2 章 「アメリカニゼーションの恐怖」 では, アメリカ文化の世界支配, 具体的にはハリウッド映画, マス・メディアの力, 文化の押しつけを概説する。 とくに興味深いのは, 反米感情や反米主義をもちながらも, アメリカ人やアメリカ文化は好きだという, アンビバレントな感情についてだ。 反米と親米の相反する感情を合わせ持っている国の紹介は, 世論調査資料などを利用して大変に詳しく分析され, 学ぶところが多い。 最後の第 3 章 「屈折した心理──日本の場合」 では, 日米間の人種問題が主なテーマとなっている。 黄禍論, 排日移民法, 原爆投下と人種主義などに関する史実を概観し, 日本の東アジア共同体への関心とアジア主義との関連を論じている。 今日では, 脱亜入欧 (著者によれば, 福沢の主張とするのは間違い) から 120 余年, 脱米入亜, 親米入亜なども論じられているとう指摘には, 日本のアジアへの傾斜を感じさせる。
著者は反米ではなく, アメリカの矛盾を含めて公平にみようとしているという。 最後の結論は, 実に見事に反米主義の特殊な性質を示している。 「アメリカの理念を全面的に拒否するという本質的な反米主義を主張するのであるならば, それに代わる主義と運動を必要とする。 共産主義の失敗後, そのような主義や運動を生みだせないとき, 反米主義は資本主義システムのなかでの自分探しの域にとどまらざるをえないのである」。 まったく同感だ。
上坂 昇 (桜美林大学)

阿野文朗 著
『ナサニエル・ホーソーンを読む──歴史のモザイクに潜む 「詩」 と 「真実」』
(研究社, 2008 年, 3,675 円)

 「資料をしてすべてを語らしめる。」 これが著者の研究における一貫した姿勢である。 ここに集められた長年に渡る研究成果は, 「多義性」 を持つホーソーン作品について, 多くの資料を精査することにより可能となるスリリングな読みの可能性を提供してくれる。
 本書は, それぞれが三つあるいは四つの章から成る三部で構成される。 第一部では, 植民地時代から独立革命期までの歴史との関連からホーソーン作品が論じられ, 「総督官邸の伝説」 三篇と 「ダストン一家」, 『緋文字』 が, 第二部では 「コミュニティー」 をキーワードに, 『ブライズデイル・ロマンス』, 『七破風の家』, 「人面の大岩」 が取り上げられる。 第一部, 第二部共に, ホーソーンの読書対象など伝記的事実を丹念に追った上で, ロマンス作家として作品内での歴史的事実の変更も辞さないホーソーンの執筆姿勢が明らかにされ, また, 「中間地帯」 という概念をしばしば使用して作品が読み解かれるなど, 各章が有機的に関連づけられる構成となっている。 第三部では, ホーソーン作品あるいはホーソーン自身と日本との関係について論じられる。 第一章では, ホーソーンが無名時代に執筆し匿名で出版された 『パーレー万国史』 が, 第二章ではマシュー・ガルブレイス・ペリーによる記録 『日本遠征記』 の出版過程が, 第三章では日本における 『緋文字』 受容史が詳述される。
 本書が特に異彩を放つのが, 第三部で明らかにされる日本におけるホーソーン受容あるいはホーソーンと日本との関係であろう。 例えば, 『パーレー万国史』 は福沢諭吉が日本に持ち帰って以降, 幕末から明治にかけて作者不詳のまま開国後間もない日本の学生たちに大きな影響を与えた。 また, 浦賀来航から日米和親条約締結までの記録を綴る 『日本遠征期』 を出版するため, ペリー提督はその執筆を当時リヴァプール領事の任にあったホーソーンに直接依頼したが, ホーソーンは日本に関心を持ちながらも公務を理由に辞退した。 こうした事実はほとんど知られていないだけでなく, これらの事実が明らかになる過程では, 日本のキリスト教化というアメリカ人の意識も浮かび上がり, アンテベラム期アメリカ人の 「オリエント」 に対する関心を垣間見ることができる。 また 『緋文字』 をめぐっては, 明治三十六年に本邦初訳が出版されて以来現代に至るまでの日本における受容が丹念に追われる。 その結果, 各時代の翻訳では 「税関」 の扱いについて差異が認められるなど, 日本における 『緋文字』 受容とその評価の歴史が明らかにされる。
 本書は, 著者が国内外で行ってきた実証的研究の足跡であり, 多様なアプローチが可能なホーソーン作品の魅力, そして作家ホーソーンの魅力を存分に味あわせてくれる。 しかし本書の特徴はそれだけにとどまらない。 第三部には 「日本における外国文学研究の可能性」 と題された補章が収録されている。 ここでは, 日本人研究者であるからこそ可能となるホーソーン研究, 延いては外国文学研究の指針が提示される。 本書の最後に説得力を持って示されるこの指針は, 著者から後進へのメッセージとして心に残る。
稲垣伸一 (実践女子大学)

山本秀行 著
『アジア系アメリカ演劇──マスキュリニティの演劇表象』
(世界思想社, 2008 年, 2,400 円)

 近年, アジア人の国際移動が増えるにつれて, 英語圏におけるアジア系文学への関心はますます高まりつつある。 この傾向を反映して, アジア系文学の翻訳書や映画を通して作品に触れる機会が少なくない。 学界においても, アジア系アメリカ文学研究会が編纂した初の本格的研究書 『アジア系アメリカ文学―記憶と創造―』 の出版以降, アジア系アメリカ人研究への注目度が増すなかで, 文学研究はさらに発展すべき時機が到来している。
 こうしたアジア系文学研究の潮流において, アジア系演劇を対象にした本書は, 男性作家の作品からマスキュリニティの解明に挑んだ 「本邦初の研究書」 である。 アメリカでも, いまだ未開拓な研究領域であるだけに画期的な著作である。 この点において, 本書の出版は, アジア系アメリカ人研究の未来の発展にも貢献している。 アジア系演劇におけるマスキュリニティの表象というテーマに著者が取り組んだ最大の理由は, 主流の映像メディアや舞台芸術における非男性的なアジア系男性のステレオタイプの問題にほかならない。
 著者が 「はじめに」 で述べているように, 本書は, アメリカニズムとマスキュリニティの概念の密接な関係性に注目する。 「序章」 では, アジア系男性のステレオタイプ生成の過程を歴史的, 社会的視点から鋭く分析する。 アジア系アメリカ男性作家による戯曲が, アジア系演劇のパイオニアと呼ぶべきフランク・チンの作品当初からマスキュリニティの問題に対峙すべく運命づけられていたという著者の指摘には全章を貫く深い問題提起がある。
 全体の構成は, 第一部 「アジア系男性ステレオタイプに抗する演劇とマスキュリニティ」, 第二部 「デイヴィッド・ヘンリー・ホワンの演劇とマスキュリニティ」, 第三部 「アジア系アメリカ演劇の新潮流とマスキュリニティ」 である。 アジア系演劇の歴史を丁寧に解説し, フランク・チン, デイヴィッド・ヘンリー・ホワン, フィリップ・カン・ゴタンダ, ダン・クワン, チェイ・ユウなどの作品を丹念にマスキュリニティの視点から読み解いている。
 その成果は, 著者によれば, アジア系の人種, ジェンダー, セクシュアリティが交差する複雑な問題点を考察することに加えて, ポスト・コロニアリズム理論に立脚するオリエンタリズム批判, クィア理論に立脚するホモフォビア批判なども射程に収めて, マスキュリニティに依拠してきたアメリカニズムの問題点を浮き彫りにすることを目指している。
 本書は, 著者が言及するように, 女性の劇作家やパフォーマンス・アーティストを取り上げてはいないものの, 補論のアジア系演劇概観に加えて, 巻末にはアジア系演劇の年表や関係文献案内を掲載し, アジア系アメリカ演劇の特色や動向を紹介する初の書物として価値がある。 また, アジア系アメリカ人研究のスケールの大きさと深さを体感できるだけでなく, 地域研究や演劇研究, 文学研究, 表象文化研究, 人種・ジェンダー・セクシュアリティ研究の領域を横断的に深めることの重要性を明示した意義深い一冊である。
原 恵理子 (東京家政大学)

武藤脩二 著
『ヘミングウェイ 『われらの時代に』 読釈──断片と統一』
(世界思想社, 2008 年, 1,900 円)

 『われらの時代に』 は研究の対象として頻繁に論じられるばかりでなく, 相互に有機性をもつ短編集という形式ゆえに, 便利で使いやすい教科書でもある。 それゆえ, 研究と教育の両面において, 手ごろな手引書が望まれるところである。 本書はそのような期待を抱かせるタイトルをもつし, 実際, 手引書の性格はある。 しかし, その内実はかなり手ごわい研究書でもある。
 本書は 『われらの時代に』 を構成する短編小説および中間章と呼ばれるスケッチのそれぞれについて, 先行研究を紹介しながら著者独自の視点で解釈を展開する。 その視点を表すキーワードは 「越境」 である。 たとえば 「インディアン・キャンプ」 では, アメリカ先住民の生活の場としての 「キャンプ」 と白人のレジャーの場としての 「キャンプ」 の間にある人種上の境界が, 前者のキャンプにおいて発生する暴力 (帝王切開による出産と自殺という死) によって消滅する。 すなわち, 人間存在に普遍的な事柄によって越境される。 「あることの終わり」 では, ジェンダーが規定する男女間の境界を越える女性が描かれる。 著者によると, この短編集で描かれる境界線の観念はアメリカの文化的コンテキストにあり, 物語が描く越境は父祖たちが経験したフロンティアの消滅と連関している。 境界の曖昧化は人種, 男女, 信仰, 国家などにおいて生起し, 根本的な再定義が要求される。 その転換期の微妙な問題をヘミングウェイ文学は越境として描くのであり, 越境という観念は, これまでの批評による解釈では不十分であった 『われらの時代に』 の統一性を説明する, と結論される。
 全体的に著者の広範な読書と豊かな知識に支えられた議論が際立つ。 圧巻は 「二つの心臓の大川」 の解釈で披露される沼沢地 (swamp) 論であろう。 マス釣りをするニック・アダムズは, 川の流れの先にある沼沢地での釣りは 「悲劇的だろう」 と考える。 メタファーたる沼沢地を理解するために, 著者はアメリカの地理・歴史・文化の文脈から次のように考察する。 OED は“swamp”という語の初出をキャプテン・スミスの 『ヴァージニア誌』 (1624 年) とし, 歴史的言説は植民地時代から沼沢地をアメリカ先住民の砦や隠れ家として記録し, 先住民に付与されていた野獣性, 異教性, 悪魔性を沼沢地にも与える。 文学テクストでは, チャールズ・ブロックデン・ブラウンが沼沢地を陰鬱で不健康な風景として描いたのに始まり, ロングフェロー, ストウ, トウェインなどの作品は黒人逃亡奴隷の隠れ家として描き, ポーは感染性の瘴気が立ちのぼる場とした。 概して, 沼沢地は 「悪魔, インディアン, 病, 陰鬱, 原始, 野蛮, 不気味なもの, 黒人, 下層, 暗黒 (闇)」 などの要素が集積した場所として捉えられていて, ニック・アダムズの内面の悲劇性のメタファーである沼沢地は, アメリカの地理的, 歴史的, 神話的意義を背負っているのだ, と著者は指摘する。
 『われらの時代に』 を 20 世紀モダニズムの断片性と (再) 統一という観点から論じる 「序論」 を含めて, 本書は著者独特の文学観が明確に打ち出されており, 読み応えがあると同時に議論が触発される内容である。
前田一平 (鳴門教育大学)

2009年04月27日 | アメリカ学会会報