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会報168号(新刊紹介)
新刊紹介
倉科一希 著
『アイゼンハワー政権と西ドイツ──同盟政策としての東西軍備管理交渉』
(ミネルヴァ書房, 2008 年, 5,250 円)
冷戦の終結後, 旧東側諸国の外交史料の公開が進んだこともあり, 冷戦史研究が活況を呈している。 その多くはやはり米ソ関係に焦点をあてたものであるが, 同時に西側諸国の同盟外交に関する研究が着実に蓄積されている。 大きな話題を呼んだ M・トラクンテンバーグの 『構築された平和』 (1999) は記憶に新しいところである。 倉科一希氏による本書も同盟外交研究であり, 冷戦期アメリカの最も重要な同盟国であった西ドイツとの複雑な関係を再検討する刺激的な著作である。 取りあげる時期は 1950 年代, アイゼンハワー政権期である。
本書の優れた特徴として四点をあげたい。 まず, これまで対ソ関係の文脈で理解されることが一般的であった対ソ軍備管理外交に実は, 同盟国である西ドイツを管理, 抑制する側面があったこと, つまり軍備管理政策と同盟政策の密接な関係を明らかにしたことである。 アイゼンハワー政権は当初, 同盟関係を重視し, 西ドイツが主張する再統一問題の解決を優先することで, 対ソ軍備管理交渉には消極的であったが, 1950 年代後半までにその姿勢を修正し, 交渉に前向きの態度に転じる。 そこには西ドイツに対する拭いがたい不信感があり, アイゼンハワー政権はソ連との間で核実験禁止交渉を進展させることで, 米英ソ以外の国々への核の拡散, とりわけ西ドイツの核武装を防止する狙いがあった, と本書は主張する。 次に, 硬直した反共主義者として知られるダレス国務長官の意外な柔軟性である。 著者の理解では, ダレスは核実験に反対する国際世論の高まり, そして西ドイツとの微妙で困難な関係に配慮しながら, ソ連との間で核実験禁止交渉を始め, これを着実に進める巧みな外交手腕を発揮した。 本書によれば, ダレスは西ドイツを西側同盟に繋ぎとめる一方で, 対ソ関係の改善をめざした実際的でしたたかな外政家であった。 これは新たなダレス像の説得的な提示である。 三番目に著者は, ダレスとは異なり, 核実験禁止問題をめぐるアイゼンハワーの外交的指導力に疑問符をつけ, とくにダレス死去後の大統領の指導力の欠如を指摘する。 いわゆるアイゼンハワー修正主義に対する適切な批判である。 最後に, 本書はこれらの問題をめぐるスタッセン大統領補佐官, ダレス, そしてアイゼンハワーら主な政策決定者の動向を, 米独英の豊富な一次資料に基づいて綿密に跡づける。 議論の展開に無理はなく, 大変実証的で信頼が置ける。
倉科氏は, すでに本書の重要な部分を日米の学会で発表し, 高い評価を得ている。 氏が指摘するように, アメリカの西ドイツ政策が単に冷戦のみならず, 同盟の維持・管理という論理によっても規定されているとするならば, その意味合いは大きい。 それは, 冷戦期アメリカの同盟政策全般と 1920 年代以降のアメリカのヨーロッパ外交に関する理解・解釈に新たな一石を投ずる重要な示唆だからである。 氏の今後の研究が楽しみな所以である。
佐々木卓也 (立教大学)
川島正樹 著
『アメリカ市民権運動の歴史──連鎖する地域闘争と合衆国社会』
(名古屋大学出版会, 2008 年, 9,975 円)
本書は, 1950, 60 年代に南部各地で高揚し全米に拡大したアメリカ市民権運動を, 一連の地域闘争 (local struggle) という視点から捉え, 市民権運動時代の全体像の把握を試みる, 500 頁を超える大著である。 本書は, 著者の長年の諸論考を下敷きにする。 その間に収集された第一次史料と第二次文献は膨大で, 著者が 5 年間をかけ収集した 59 件の現地聞き取り調査も含まれる。 研究史の批判的吟味と根気強い史料考証に裏打ちされた本書は, 著者の多年に渡る研究の集大成といえる。
本書では, 「公民権運動」 ではなく 「市民権運動」 という語が, 「運動」 に加えて 「闘争」 という語が使用される。 この運動は 「公民権」 の訳語が想起させる政治的平等権に加え, 生存権や文化的権利の追求も含まれていたと著者は説明する。 また, 「闘争」 という語を使用する著者のねらいは二つある。 第一に, 各地で白人民衆や警察による暴力的弾圧に耐えつつ黒人民衆が手探りで突破口を模索した事実を, 「闘争」 という語は的確に言い当てる。 第二に, 「闘争」 という語は黒人側だけでなく多様な立場の人々─白人の穏健派やリベラル派, 連邦政府関係者など─の苦闘に視点を置くことも可能にする。
本書は三部から成る。 第一部では, 1950 年代から 60 年代に至る法廷から街頭への過渡期が扱われる。 第一章では, 連邦政府の 「上から」 と黒人民衆の 「下から」 の動きの始動としてモンゴメリー・バスボイコットが把握される。 第二章では, リトルロック学校危機事件における白人住民の危機意識と州知事の役割が考察される。 第三章では, ミシシッピでの SNCC 活動家の現地への影響と 64 年 「自由の夏」 前史が整理される。 第二部では, 1960 年代前半の南部地域闘争の高揚が扱われる。 第四章では, オールバニー運動の 「挫折」 論が再考される。 第五章では, バーミンガム闘争での複数 「合意文書」 から地元社会独自の解決努力と連邦政府の役割が吟味される。 第六章では, ミシシッピ自由民主党の活動が跡付けられる。 第三部では, 北部運動の展開と 「後史」 が扱われる。 第七章では, シカゴ自由運動の意義が検討される。 第八章では, ボストンの 「バス通学」 命令と黒人の親による公立学校再生努力が追及される。 第九章では, 市民権運動の 「後史」 および遺産として, 南部の 「北部化」 問題と黒人の自立化運動が論じられる。
著者は, 一連の地域闘争は地元黒人民衆に限定的勝利と多くの場合挫折感をもたらしたと評価する。 そこには, 64 年市民権法と 65 年投票権法の全国的勝利とは異なる歴史がある。 しかし, この評価は, 各地の闘争が今日も継続していることを逆に裏付ける。 著者が 「後史」 を重視する理由もここにある。 さらに著者は, この運動の画期性を求めるさいに, 第二次大戦後の世界史的文脈の変化とそれへのアメリカの適合努力への視点が欠かせないと主張する。
本書は, 日本のアメリカ市民権運動史研究の水準を高める労作であり, この分野の必読書となろう。
黒崎 真 (神田外語大学)
紀平英作 編著
『アメリカ民主主義の過去と現在──歴史からの問い』
(ミネルヴァ書房, 2008 年, 4,725 円)
「アメリカの民主主義」 は重要なテーマであるにもかかわらず, 日本のアメリカ研究では, その論じにくさゆえなのか, 正面から論じることが長く避けられてきた。 「アメリカの民主主義」 が論じにくい理由は, なによりも, それが単に政治制度であるだけではなく, 思潮, 文化, 行動様式, 経済活動, 人びとの考え方までをも含む現象であるために, 考察の対象を限定しにくいことにある。 しかも, 民主主義論は, 概して, あるべき民主主義とはなにかという規範的な問いに答えるという性質をもつ議論である。 それゆえ, 9・11 テロ以降の合衆国の対応に直面して, 「アメリカの民主主義」 の実態から規範や理念を引き出すことがむずかしくなったことも, それが論じられにくい一因となっている。
本書が, 書名に 「アメリカの民主主義」 を冠し, 日本のアメリカ研究でも十分に取り組まれてこなかったこのテーマについての議論を活性化したいという意図のもとに考察が重ねられていることに敬意を表したい。 共同研究の成果である本書は, 歴史学, 思想史, 政治学, 法学, 社会史, 文学, 文化研究, 経済学を専攻するそれぞれの論者たちが, 体制, 制度, および, 運動としての民主主義について, すなわち, 体制の創出, 体制への統合, 体制の輸出, 代表制, 議会制と政党制, 生活様式, 市民権, 公正さと民意の表出との関係, 多数の支配などという観点から 「アメリカの民主主義」 の特質を解明しようとしている。 そして, 本書は, 特定の時期に考察の対象を限定した論文から構成されているため, 「アメリカの民主主義」 の時代ごとの特徴を知る手がかりとともなっているといえる。 政治理論の民主主義論が, ともすれば 「メタ理論」 に陥りがちであり, その分, 民主主義の時代的制約, 歴史的変容が解明されず, その結果, その理論が適用された歴史像が歪んだものになりやすいのにたいし, 本書は, 民主主義がある時代においてどのように機能していたのか, 人びとが民主主義をどのように生きてきたのかという観点から考察した論文が多いため, 民主主義のもつ多様かつ複雑な性質が照らし出され, その実態がより明らかにされている。 たとえば, ホーソーンの筆を通して, ジャクソン期, 共和主義的世界が民主主義の時代へと変わっていく様子とともに, その変容にたいする人びとの複雑で微妙な心境を知ることができる。
制度としての民主主義を論じた章を除けば, 論者たちの 「アメリカの民主主義」 にたいする視線は厳しい。 9・11 テロ以降, 体制レベルだけではなく, 運動のレベルでの民主主義も機能しなくなっているのかもしれない。 その理由を歴史的に解明する必要はある。 その姿勢に半ば同意しつつも, R・ベラー, D・ベル, C・ラッシュ, J・クロッペンバーグなどが試みているように, 「アメリカの民主主義」 を批判する視点, 言い換えれば, 継受すべき民主主義の伝統を, 「アメリカの民主主義」 のなかに求めることはできないかとも考える。 もちろん, それは, 本書の論者たちだけに向けた問いではない。 評者も含め, アメリカ研究に従事するものすべてに突きつけられている問いであるように思われる。
中野勝郎 (法政大学)
杉田米行 編
『アメリカ外交の分析──歴史的展開と現状分析』
(大学教育出版会, 2008 年, 2,940 円)
本書は, 現在のアメリカ外交の特徴を描き出すという課題に, 歴史的, 思想史的な考察から迫ろうとする論文集である。 本書の問題意識は, 編者の杉田氏による 「序章:現代アメリカ外交の特徴」 で明瞭に語られている。 現在, アメリカは, 「経済力, 政治力, イデオロギー力」 の低下に直面する一方で, 「軍事偏重主義に陥って」 いる。 かかる状態は 「強さの象徴なのか, 弱さの表れなのか」 という問いに迫ることを目的に, アメリカ外交の再検討を試みている。 以下, 各章を簡単に紹介してみたい。
大賀哲氏による 「第 1 章 核戦略構想とリアリズム」 は, 冷戦が同時代の国際関係理論に与えた影響について, 1960 年代の核戦略論争でのモーゲンソーの冷戦批判と, 限定核戦争を評価するキッシンジャーの議論を対比させて論じている。 三牧聖子氏による 「第 2 章 アメリカ的 『多国間主義』 を超えて」 は, 冷戦初期のリアリストたちが東西陣営の境界を前提としつつも世界を 「複雑で多元的な」 ものと描いた点を重視し, そこにブッシュ政権の対外政策に対する 「痛烈なアンチテーゼ」 を見出す。
西川秀和氏による 「第 3 章 両大戦間期の孤立主義」 は, 外交思想における国際主義と孤立主義の相克を明らかにすることを目的に, 第一次世界大戦後の孤立主義の展開と, 1930 年代のフランクリン・ローズヴェルトの孤立主義克服の試みを描いている。 高光佳絵氏による 「第 4 章 1930 年代におけるアメリカの中国認識と対日政策」 は, 30 年代のアメリカ国務省極東部が, 日本の排他主義的中国政策を認めない一方で, 中国政府の統治能力にも疑問を持っており, アメリカの関与なしでの日中間の合意を望んでいたことを明らかにする。 佐々木豊氏による 「第 5 章 外交問題評議会 『戦争と平和の研究』 における対日戦後処理構想」 は, 外交問題評議会の研究プロジェクト 『戦争と平和における米国の諸利益の研究』 にみられる対日戦後処理問題に対する認識について, その安全保障観や経済秩序構想に着目して考察する。 藤原郁郎氏による 「第 6 章 大戦期アメリカの対イラン外交政策」 は, 大戦間期アメリカの中東原油政策の変化を, 1943 年のテヘラン会談, 44 年の英米石油協定等を素材に考察する。 マーク・E・カプリオ氏による 「第 7 章 『忘却された戦争』 をめぐる未解決な歴史的課題」 (島村直幸氏訳) は, 朝鮮戦争で北朝鮮が突然に攻撃したという歴史認識に疑義を呈し, 朝鮮戦争勃発に至る経緯をソ連や中国, アメリカといった大国の思惑を軸に再検討する。 吉次公介氏による 「第 8 章 池田政権の 『ビルマ重視路線』 と日米関係」 は, 池田政権期の東南アジア政策の特徴を, 戦略上の重要地域としてのビルマの位置づけや経済発展を重視した冷戦観から描き, そこに日米の冷戦の 「戦い方」 の違いを見出す。
本書は, 各章が取り上げる歴史的テーマを, アメリカ外交の現状との連関を念頭に置いて考察しており, 単なる外交史, 外交思想史論文集では収まらない射程の長さを持っている。 その意味で, 今後のアメリカ外交の行方を考える上で広く読まれるべきものであろう。
中島 醸 (千葉商科大学)
ウェルズ恵子 著
『黒人霊歌は生きている──歌詞で読むアメリカ』
(岩波書店, 2008 年, 3,360 円)
本書は, 奴隷制の時代に南部の黒人共同体の中で生まれ歌われた黒人霊歌の, 消滅して久しい始原の姿を求めると同時に, この口承文化が, 如何に様々な変化や変身を経ながら, その魂を今日に伝えているかを考察する。 副題が示唆しているように, 簡素で繰り返しの多いヴァナキュラーな霊歌の歌詞の解釈は, この無名の表現者たちの心の世界に通じる径を拓く作業となっている。
南北戦争を機にして霊歌は, 二つの変化を辿り始める。 この無文字無譜の文化が, 白人によって収集採録され, また生活の現場から引き離されて, 公演や鑑賞用の音楽に変えられながら世界に伝播されていくのがその一つ。 二つ目は, 奴隷の子孫であるアフリカ系アメリカ人, 霊歌を特徴づけている宗教的宇宙観や民族的感性を, 時代の流れを映して生まれるゴスペルやブルーズ (ソウルへの言及はない) などに引き継いでいるという形である。 第一の変化のプロセスは前半の三章で, 初期の収集者である T. W.ヒギンソン, フランシス・アレンそしてハワード・オーダムの業績と, フィスク・ジュビリー・シンガーズの成功を推進したジョージ・レオナード・ホワイトとシンガーたちの功績を中心として辿られる。 それと同時に, 生活の場で歌われた霊歌の本来の姿は, 著者の詩の解釈によって引き寄せられる。 解釈は, キリスト教の信仰を精神の支柱とする人々の受苦受難の現世からの解放と, 天国へ行くための死への希求という歌詞の第一義を強調する。 本書では, 多数のスレイヴ・ナラテイヴの語り手たち自身の, 「天国」 「自由」 「ホーム」 「ヨルダン川」 「カナン」 などが示唆する意味・対象が歌い手の置かれた状況によって異なっていたという証言は考慮されていない。 霊歌の豊かさがその言葉の多義性にあるのは, 本書が引用している 「吊し屋ジョニー」 の“hang”の意味が, 歌っている状況の中で 「団結する (hang together)」 に変わっていく柔軟さにも示されているのだが。
受苦に生きる民族のスポンテニィアスな即興性から生まれた霊歌の歌詞の深さや豊かさが実感されるのは, 神の福音と救済を歌うゴスペルソングの誕生と特質を解説する第四章と, 哀しみと喪失を吐露するブルーズの特質を語る第五章である。 一見正反対に思えそうなこの二つのジャンルには, 共に黒人霊歌の血脈が流れていることを, 著者は証明する。 トーマス・ドーシーのゴスペルの歌詞も, ブラインド・ジョンソンやロバート・ジョンソンのブルーズの歌詞も, 霊歌に響いている民族の魂を原基としているのだ。
ヴァナキュラーな口承文化の伝統を鼓動させているこれらの歌唱表現は, アフリカ系アメリカ文学の土壌でもあることを考えれば, 声, 言葉, 身体, 心身の全てを使って表現されていた霊歌を 「歌詞で読む」 試みは, 困難だが意味深い。 著者には, 本書の紙数では語り切れない思いや課題が, 多くあるに違いない。 附章に丁寧に紹介されている黒人霊歌の研究動向の分析と解読は啓蒙的だし, 参考文献と主な音源のリストは, 黒人霊歌ばかりでなく, 黒人音楽全体の歴史や音楽の背景でもあるフォークロア全般に関心を持つ読者の良き案内役を務めるだろう。
吉田廸子 (青山学院大学)
高野泰志 著
『引き裂かれた身体──ゆらぎの中のヘミングウェイ文学』
(松籟社, 2008 年, 2,400 円)
本書はヘミングウェイ作品を 「身体」 の観点から読み直すことによって, 彼の身体観のゆらぎを明らかにする試みである。 新たな時代の作家として 20 世紀的価値観を唱えようとする一方で, 両親から受け継いだ旧弊のヴィクトリア朝的価値観を拭いきれなかったヘミングウェイ。 この新旧の価値観の狭間で葛藤しながら描く兵士や闘牛士, 妊婦などの身体が 「常に引き裂かれている」 様を, 計五部に渡って論じている。
まず第一部 「ヘミングウェイ, その人生と身体」 で彼の身体観に影響を及ぼしたと思われる事柄を中心に人生を概観した後, 第二部 「『自然な身体』 の誕生」 では第一次大戦が生み出した 「自然な身体」 というイデオロギーに焦点を置いている。 大量殺戮兵器が用いられたこの大戦では, 一方で医療科学の目覚ましい発達もみられ, 負傷した身体はまるで機械を修理するかのように 「分解, 組み立て, 取り換え」 られた。 この医療テクノロジーによって 「矯正された身体」 は, 社会的に望ましいとされる規範を反映しており, その規範内にある限りその身体は 「自然」 と位置づけられた。 ヘミングウェイ自身, そうした身体の獲得を意識していたことを 『老人と海』 等の作品から読みとっている。 第三部 「痛みと麻酔のレトリック」 では, ヘミングウェイが麻酔に対してアンビヴァレントな思いを抱いていたこと, そして麻痺が精神的停滞を意味することを初期の作品分析を通じて指摘している。 特筆すべきは, 彼が 30 年代の文学的停滞期に執筆した 「キリマンジャロの雪」 で, 同じく文学的不毛に陥った主人公ハリーの描写に, 「麻痺」 した自身の姿を投影させたと論じている点である。 壊疽がもたらすハリーの 「感覚喪失」 「痛みのない死」 の描写は, 逆説的に作家ヘミングウェイが自らに課した 「痛みの伴う努力と内省」 であり, 「麻酔なき手術」 だと説いている。
第四部 「ヴィクトリア朝性道徳, 性の解放, 梅毒」 では, 梅毒をはじめとする性病の蔓延・恐怖と性の解放を謳う時代の中で, ヘミングウェイが性にまつわる新旧の価値観の間を揺れ動いていた様子を, 主に短編の考察から浮き彫りにしている。 第五部 「男らしさからの脱却」 では, 特に女性の短い髪に着目し, その描写から浮かび上がるヘミングウェイのジェンダー意識の変容を考察している。 興味深いのは, 30 年代以前の作品には 「女性の髪を短く切ることで女性を 『去勢』 しようとする傾向」 があったにもかかわらず, それ以降は 「男性の髪を長くすることで女性性を獲得しようとしていた」 と指摘している点である。 彼が女性のもつ 「子を産む」 生産性を 「作品を生む」 創造性に結びつけ, それを機に女性性の獲得を意識し始めたことを 『誰がために鐘は鳴る』 の緻密な分析によって明らかにしている。
本書は, 「身体」 の描写から浮かび上がるヘミングウェイの (無) 意識を鋭く指摘し, その身体描写を伝記的事実と照らしたり, 間テクスト性に着目して横断的に読むことで新たな 「ヘミングウェイ」 を提示している。 作家と作品にそって丁寧に積み重ねられた各論考から学ぶことは, ヘミングウェイ研究者ならずとも非常に多い。
杉本香織 (文京学院大学)
巽 孝之 編
『反知性の帝国──アメリカ・文学・精神史』
(南雲堂, 2008 年, 3,333 円)
ようやく終わりを迎えつつあるブッシュ政権の 8 年間を惜しむ声は, 合衆国の共和党陣営にすら聞かれない。 しかし皮肉にもこの不幸な時代が, 本書の後書きが指摘するように 「今日でなくてはありえないアメリカ文学精神史」 や 「北米では不可能なアメリカ像」 を照らし出す批判的アメリカ研究を, グローバルな規模において生んだことは, 記憶に留めるに値するかもしれない。 本書はその最も鮮やかな結実である。
2006 年 10 月に開催されたタイムリーなアメリカ文学会シンポジウムの熱気を生々しく伝える本書を, ヘラクレス的に支えるのが, 巽氏の基調論考 「アメリカ文学と反知性主義の伝統」 である。 ジョージ・W・ブッシュと反知性というやや自明な結びつきを, ホフスタッター 『アメリカの反知性主義』 に接合して理論化し, そこからユニークなアメリカ文学精神史を展開してみせる論は瞠目すべき力業であり, あとに続く多様な論考を招き入れしっかりと支えている。 このスケールの大きな 「アメリカ文学精神史」 の試みは, フェミニズムおよびクィア理論と反知性主義の伝統とのあいだの葛藤を, 超絶主義時代にまで遡りつつ論じる竹村和子氏の 「ジェンダー・レトリックと反知性主義」 に引き継がれる。
周到に準備された本書の最も素晴らしい成果は, 異なる世代のアメリカ研究者のあいだの対話を引き出した点にある。 最年少である出口菜摘氏の, T・S・エリオットに 「反知性を内包した知識人」 を見いだす論考は, 意外にもはるか年長の亀井俊介氏が提唱するところと響きかわす。 亀井氏は<主知>と<反知>の狭間で葛藤する文学者の営為にアメリカ文学の 「活力源」 を見いだすのである。 ホフスタッターの衝撃をリアルタイムで体験した志村正雄氏の 「知性・反知性・神秘主義」 という証言を召喚したことも, 本書のかけがえのない価値である。 志村論文は, ホフスタッターの論文を見事に歴史化するとともに, 主にビート期の日米にまたがる知的ネットワークを素描しており, この分野における新たな研究の可能性を予感させる。
ともすればナショナル・キャラクター論に帰着しかねない議論を, 南部社会のローカリティに焦点を合わせた二つの論考──田中久男氏の 「フォークナー文学と反知性主義」 と後藤和彦氏の 「危機下の知性」──で締めくくっている点は, 本書の企画の妙味である。 とくにアメリカと南部知識人の反知性主義との格闘の軌跡を辿りつつ, そこから日本の知識人の精神史にまで論を進め, 「私は危機下の知識人の知性について, 一定の共感を持って語りたい」 という結論を引き出す後藤論文は, 掉尾を飾るにふさわしいものである。
ハーヴァード・ロースクール出身のアフリカ系アメリカ人大統領が誕生すれば, 疑いなく私たちは本書とはまた異なる視点から 「アメリカ」 という問題系に取り組むことになるだろう。 しかしそれがどのようなものであれ, ブッシュ時代の異化作用を通じてわれわれ垣間見た 「アメリカ」 は消え去ることなく, むしろ新たなアメリカ研究の出発点となるに違いない。
宮本陽一郎 (筑波大学)
2009年02月17日 | アメリカ学会会報
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