« 公開シンポジウム「2008年アメリカ大統領選挙―「変化」するアメリカ」のご案内 | フロントページ | 会報167号(巻頭言) »
会報167号(新刊紹介)
新刊紹介
内田綾子 著
『アメリカ先住民の現代史──歴史的記憶と文化継承』
(名古屋大学出版会, 2008 年, 6,300 円)
本書は, 北米先住民, とりわけ平原民族 (部族) の政治的・経済的自立を支えるひとつの基盤としての民族アイデンティティに着目し, それが 「歴史的記憶」 に基づく文化継承というかたちをとりながら如何に形成あるいは再構築されてきたのかについて, 合衆国政府の諸政策への対応との関連も絡めながら考察したものである。
六章からなる本書における各章の展開であるが, 第 I 章 「同化から自治へ」 および第 II 章 「自決の模索」 では, 先住民が連邦政府の政策に対応しながら民族自決意識を育んでゆく過程が, 一九一〇年代・二〇年代のアメリカ・インディアン協会, 二次大戦後の全国アメリカ・インディアン議会の活動 (第 I 章), さらに一九六〇年代から七〇年代にかけてのレッド・パワー・ムーブメント (第 II 章) を画期として辿られる。
第 III 章以降では, 前二章で述べられた先住民の民族意識形成の拠り所となった 「歴史的記憶」 とそれに基づく文化継承を巡って, 様々な切り口からの考察が進められる。 第 III 章・第 IV 章では, 文化継承の軸となる伝統文化への先住民の対峙のあり方が検証される。 第 III 章 「文化的適応のかたち」 においては信仰儀式 (サンダンス, ペヨーテ信仰) の再編・強化あるいは創出が, 第Ⅳ章 「文化継承の現在」 では聖地, 墓地, 儀式, 民族語の維持と継承を巡る, 合衆国社会との相克が取り上げられる。 転じて第 V 章 「経済開発と文化」 では, 文化継承との関わりからみた保留地の経済的自立への取り組みが南北シャイアンとラコタ・スーの事例によって述べられ, さらに第 VI 章 「記憶の継承にむけて」 では, リトルビッグホーン戦跡, 聖地ブラックヒルズ, サンドクリークおよびウンデッドニー虐殺の地という歴史的跡地を先住民がどのように記憶として継承し, 合衆国の国民統合の手段としての公的記憶にそれを用いていかなる逆照射を試みてきたかについて検証がなされ, そのことによって先住民の 「歴史的記憶」 の意義が明らかにされる。
本書は, 多文化社会における民族アイデンティティのあり方というきわめて今日的な主題を考察する上で, 支配的・抑圧的主流社会の中で北米先住民が固有の権利と立場を確立する手段としての集合的 「歴史的記憶」 と文化継承という観点に着目し, それを政治面・文化面・経済面・思想面から分析した点が興味深い。 このような視角は, 従来の政策論や特定の時代と一定の主題についての事例検証にとどまらない, 先住民の過去と現在とをつなぎ合わせるものであるからこそ, わが国の北米先住民研究により広がりを加味する試みとして評価し得るのではなかろうか。 今後は, 他地域の様々な北米先住民族集団 (部族) をも射程に入れたトランストライバルな, さらには終章で展望されているトランスナショナルな次元に向けて, 内田氏の研究の更なる広がりと深化を期待したい。
岩﨑佳孝 (阪南大学非常勤講師)
スコット・スロヴィック, 伊藤詔子, 吉田美津, 横田由理 編著
『エコトピアと環境正義の文学―日米より展望する広島からユッカマウンテンへ』
(晃洋書房, 2008 年, 4,500 円)
環境問題とは, ローカルな事象に端を発しながらも, その解決にはグローバルかつエコロジカルな文脈が必要とされる問題系だ。 だが, 部分から全体へと一足飛びに展開される想像力は時として危険であり, 環境文学の主題に限っても, 全体主義化するエコトピアや環境アクティヴィズムの暴走, さらには環境整備の裏側で進むマイノリティー居住区の局地的な環境汚染など, 公明正大な志がはらむ負の想像力の例には事欠かない。
日本の被爆地からアメリカの核処理施設予定地までを展望する本書は, アメリカ文学における負の環境論的想像力の読解を通じ, ユートピアという旧来の文学的主題が, 実は環境問題の深層部を形成してきた歴史を詳らかにする。 第 I 部 「アメリカ文学とユートピア言説の構築」 では, ソロー, クーパー, ホーソーン, メルヴィル, トウェインといった 19 世紀アメリカ文学の 「主流」 から汲み上げられた環境思想が, ネイティヴ・アメリカン作家リンダ・ホーガンの語る歴史や, 電脳空間が日常となった現在を描くウィリアム・ギブスンの廃墟空間に息づいていることが確認される。
第 II 部 「環境正義と新しい西部の風景」 では, ジョン・ミューアとスタインベックの仕事が参照され, 人間社会の侵犯によりエコディストピアと化していくカリフォルニアの姿が語られる。 その一方で, 『怒りの葡萄』 が提示する潜在的な環境格差の問題は, ルース・L・オゼキの文学世界を通過し, 癌と核処理施設をめぐる 2 人の論者のパーソナルな語りへと引き継がれる。
ふたたびホイットマンという 「主流」 文学から語り起こされる第 III 部 「都市と幻想のエコトピア」 では, シカゴ万博の環境設計上の矛盾や, アーネスト・カレンバックの描く環境至上主義社会の悪夢が詳細に分析され, グリーンな人工空間におけるディストピアの姿が立ち上がる。 このとき, 続くル・グイン論とのあいだに挟み込まれた現役の環境アクティヴィストによるモノローグは, 環境批評と環境運動がシンクロする地点へと読者を誘ってくれるだろう。
前部のまとめとなるシルコー論を受けて, 第 IV 部 「あらたな場所の出現」 では, トニ・モリスン, ジェラルド・ヴィゼナー, そしてチカーノ作家ルドルフォ・アナーヤといった, マイノリティーの視点により多層化する環境文学の現在が描かれるが, その果てに環境論的トポスとして出現する現代アメリカは, J・G・バラードの 「島」 とカレン・テイ・ヤマシタの 「ヘテロポリス」 という 2 つの姿として再定義される。
かくして, 巻末に豊富な基本文献解題を併せもつ本書の環境批評的アメリカ文学史再読を, 共編者スコット・スロヴィックは〈アクティヴィズム〉と呼ぶに至るが, 書くことのアクティヴィズムとはすなわち, 政治的寓話としてのユートピアを生み出してきた文学の行動原理を, 現在的な必要性に駆られた 22 人の論者たちが反復してみせた批評的営みの別名に他ならない。
波戸岡景太 (明治大学)
村川庸子 著
『境界線上の市民権──日米戦争と日系アメリカ人』
(御茶の水書房, 2007 年, 7,200 円)
第二次世界大戦時の日本人・日系アメリカ人に対する強制立退・収容をめぐっては, これまでも多くの研究が積み重ねられ, 立案から実施, その帰結に至るまで様々な事実が明らかになってきた。 しかし, 著者は, そのような一連の研究史における盲点として, 日系アメリカ市民の市民権の 「放棄」 と 「本国送還」 を可能にした司法省の役割が過小評価されてきたことを指摘する。 本書は, 第二次世界大戦時に, 一部の二世から市民権を剥奪し, 敵性外国人として逮捕・拘留したり国外退去を求めたりした司法省の敵性市民政策に焦点をあて, リドレス運動を経てもなお不可視なままであった強制収容政策の 「負の遺産」 を明らかにするものである。
本書第 1 章では, これまでの強制立退・収容政策史をたどりながら, 陸軍省主導とされた政策の背後で暗躍した司法省関係者の動きを, その証言や史料をもとに再検討している。 そして, 第 2 章で一世に対する 「敵性外国人」 政策の目的と課題を明らかにしたうえで, 第 3 章にて, 司法省の主導で二世に対する市民権 「放棄」 が制度化され, 敵性市民政策として確立される過程を描き出す。 この章の後半では, 実際に収容所で二世が市民権 「放棄」 を申請するに至った背景についても詳細に議論されている。 第 4 章では, 市民権 「放棄」 者を含む 「敵性外国人」 の 「本国送還」 政策の立案から実施までを議論し, 第 5 章では, 「放棄」 者による市民権 「回復」 訴訟とその帰結を検討している。 そして, 最終章では, 第二次世界大戦中に制度化された敵性市民をめぐる諸政策が, 戦後も恒久的にアメリカの法制度のなかに組み込まれたことが指摘され, その現代的意義も明らかにされる。
本書は, 強制収容政策をめぐる多数の先行研究や資料に加えて, 司法省や移民帰化局の未公開文書を探し当てて丹念に検証し, さらに著者自身による市民権 「放棄」 者への面接調査の成果も交えた, まさに労作と呼ぶにふさわしい研究である。 とりわけ, 市民権 「放棄」 者や 「本国送還」 者の存在は, 「日系アメリカ人史」 では長く軽視されてきただけに, その政策過程や実態の解明は貴重な貢献である。 以上の詳細な分析を通して, 司法省が表面的には強制立退政策を実行する陸軍に譲歩した 「善意の敗者」 (64 頁) を演じながらも, 実際には 「潜在的危険性を持つ市民を管理・排除するシステム」 (335 頁) としての敵性市民政策を首尾よく成立させたことが浮き彫りになる。 そして, 既存の日系アメリカ人研究, 強制収容政策研究も, このような司法省の描いた物語を踏襲してしまい, 強制収容の背後で進行していた現代アメリカにおける市民権概念の重大な転換点を見落としてきたという。 この指摘が有する意味は, 対テロ戦争という非常時が常態化しつつある現代アメリカ社会を考えれば, たいへん重い。 本書の出版が, 強制収容をめぐる歴史的経験を, 現代アメリカにおいて 「市民であること」 の意味を問う広範な議論へと結びつける契機の一つとなることを期待したい。
南川文里 (神戸市外国語大学)
馬場美奈子 著
『現代ネイティヴ・アメリカン小説
──描きなおされる 「インディアン」』
(英宝社, 2008 年, 3,600 円)
本書は, アメリカ社会に浸透しているインディアン幻想やステレオタイプに挑む現代ネイティヴ・アメリカン小説を考察したもので, 特にネイティヴ・アメリカン作家ジェラルド・ヴィズナーの造語である 「サバイバンス」 という概念に着目し, 新しい 「インディアン」 像を論じている。 この 「サバイバンス」 とは 「survival」 と 「resistance」 を混合した言葉であり, 「立脚点, 世界観, 存在」 に関わり, 「支配に抵抗する意思」 を意味し, 積極的に自らの存在を作り出していく在り方を暗示する。
第一部は 「息子の帰郷と再生」 というテーマで, 故郷の自然への自らの再認識が転機となっていると論じる。 第 1 章では N.スコット・ママディの 『夜明けの家』 と同様に主人公の故郷回帰と伝統行事への参加と自然の風景との一体化が論じられている。 第 2 章はレスリー・マーモン・シルコウの有名な作品 『儀式』 について, 現代の環境問題に複数の神話を埋め込み, 現代の病と癒しの物語となっていると考察している。 第 3 章では先のママディの 『いにしえの子供』 について, 主人公が自然界との繋がりを再構築する 「熊少年」 の役割に目覚めるという変身神話が紹介されている。 第 4 章のルイーズ・アードリックの 『ビンゴ・パレス』 という作品についてもメディシンマンの系譜を持つ主人公の帰郷と複合的な自己探求が論じられている。
第二部では馬場氏は 「母娘年代記とアイデンティティ探求」 というテーマでネイティヴの女性の自己探求について論じ, その第 5 章はベティ・ルイーズ・ベルの 『月の中の顔』 を取り挙げ, 母たちの物語と娘の自己探求について考察している。 第 6 章と第 7 章はリンダ・ホーガンの 『陽光の嵐』 と 『パワー』 についてであり, 前者の作品は少女の自己探求と再生の旅が土地と水をめぐる社会問題を背景にして描かれており, 著者はそこには過去の歴史, 神話を挿入し自然との関わりを写実的にまた神秘的に描いていると考察する。 第 8 章は先のルイーズ・アードリックの 『アンテロープ・ワイフ』 についてであり, 女性の想像力と創作力を指摘している。
第三部では 「歴史の再構築とサバイバンス」 というテーマで能動的なサバイバルを目指す 「ポスト・インディアン」 (ヴィズナーの造語) の姿があると著者は指摘している。 第 9 章と第 11 章ではシルコウの 『死者の暦』 と 『砂丘の庭』 について多くの歴史や神話が盛り込まれているとしている。 また同書の第 10 章のヴィズナーの 『コロンブスの跡継ぎ』 では 「サバイバンス」 という概念を中心に 『コロンブスの航海日誌』 が書き直されているとし, それによりコロンブスの脱神話化がされていると論じる。 最後の第 12 章, トーマス・キングの 『ツルースとブライトウォーター』 では 「サバイバンス」 と 「ポスト・インディアン」 という概念から西部史を背景に主人公について論じている。
本書は著者が広く現代インディアン文学作家を網羅している, 先駆的なネイティヴ・アメリカン文学研究である。 アメリカ西部史や西部文学に興味のある研究者には是非, 読んでほしい本である。
鶴谷千寿 (富士常葉大学)
松本 昇, 君塚淳一, 鵜殿えりか 編著
『ハーストン, ウォーカー, モリスン──アフリカ系アメリカ人女性作家をつなぐ点と線』
(南雲堂フェニックス, 2007 年, 3,000 円)
本書は, ゾラ・ニール・ハーストン以降, アリス・ウォーカー, トニ・モリスンへと引き継がれるアフリカ系女性作家が抱える問題の点と線を結び, そこに顕在化する文学的伝統ともいえるものを, 様々な観点から照射する試みである。 各章はテーマの歴史的・理論的概説を含む導入的論考に始まり, 後続の論文が, そのテーマを各々の作家において追求するという構成になっている。 どの論考も真摯に取り組まれており, アフリカ系アメリカ文学を研究する者にとって有益なものばかりである。 以下, 紙幅の関係で 20 編の論文すべてに言及できないため, 導入的論文を中心に, 全体的な流れを紹介したい。
第一章 「フェミニズム・ジェンダー」 では, 19 世紀の代表的アフリカン・アメリカン女性アクティヴィストの足跡が辿られ (森あおい論文), それに続くハーストン, ウォーカー, モリスンにおける闘う女性の系譜が考察される。 第二章 「抑圧する宗教」 においては, アフリカ系アメリカ人にとって, キリスト教会が自己表現と自己確認の場として, また解放運動の拠点として機能してきた歴史が確認され, さらにはイスラムやクレオール宗教の影響を文学世界に検証する必要性が示される (風呂本惇子論文)。 それを受けて, ハーストンの 「神」 概念, ウォーカーのウーマニスト神学, モリスンにおける黒人女性と宗教の関係が考察される。 第三章 「抵抗の音楽」 では, ブルースとジャズの歴史的発展が概観された後, それぞれの文学世界における音や音楽の機能が分析されるが, 霊歌やフォークロアのポリフォニックな表現に拘ったハーストンの戦略 (平尾吉直論文) は読み応えがあった。 「語りの空間」 に焦点をあてた第四章は, 黒人文化と空間概念をめぐる理論的考察に始まるが, 松本昇論文は, 『彼等の目は神をみていた』 における地理的・歴史的空間を端正に浮かび上がらせる。 先行論文の盲点をついた鵜殿えりか論文は, 『ジャズ』 における語りの空間をスリリングに分析し, さらに深瀬有希子論文は 『ビラヴド』 における白人少女エイミーの混声を, モリスンの文学的混成として照射する。 第五章 「人種・身体」 では, アフリカ系アメリカ人女性文学における身体と記憶の問題とその歴史的輪郭を, ブラック・フェミニズムの観点から浮かび上がらせる中地幸論文が示唆に富む。 それはハーストンのパフォーマティブな身体論 (岩瀬由佳論文) と, ウォーカー, モリスンの社会的・文化的に構築され, 抑圧された身体からの解放のテーマへとつながっていく。
「あとがき」 によると, 本書は日本における黒人研究の第一人者であった斉藤忠利氏を偲ぶ論集でもあるという。 1970 年代にハーストンらを再発見した黒人女性批評家の一人であり, すぐれた教育者でもあったネリー・Y・マッケイが 2006 年に急逝し, PMLA や African American Review で追悼特集が組まれたことは記憶に新しい。 本書は, それらを読んだときに覚えた感動を思い起こさせた。 ハーストンの娘 (子供) 達は, 日本にも確実に育っているのである。
宮本敬子 (西南学院大学)
野口啓子 著
『後ろから読むエドガー・アラン・ポー
──反動とカラクリの文学』
(彩流社, 2007 年, 2,500 円)
本書は, 2001 年の共編著書 『ポーと雑誌文学』 によって 「マガジニスト」 としてのエドガー・アラン・ポーをみごとに炙りだした著者による新たなポー研究である。
本書について以下の二つの点にもっとも興味をもった。 「後ろからでも詩を書ける」 というポーの有名な言葉がある。 作品には美的整合性があるべきだという主張であるが, ポーはこのことに生涯取り憑かれていたのだと, 本書を読んで改めて気付かされた。 繰り返し行われる改訂, 後から付け加えられる解説, すべての短編は一冊の本を想定して書いたという手紙, こうした作家の追加行為に著者はポー文学解明の糸口を見いだす。 ポーは, 最後の作品 『ユリイカ』 を 「それまでの全作品に対する 『改訂』」 とし, 自分の全作品の意味をラディカルに変更しようとしたのだと, 著者は言う。 ポーは 『ユリイカ』 を書き, 雑然としてまとまりのないようにみえる過去の作品群に, ユニティを与えようとした。 こうして 『ユリイカ』 から見ることによって初めて, ポーの多様なジャンルの小説群はすべて無秩序から秩序への変容という構造をもっていることがわかる。 いやむしろそうなるように, 『ユリイカ』 を使って書き換えたのである。
もう一つの興味深い点は, 著者がポーの文学を 「反動の文学」 と名付け, 「先行する世界の意味, 秩序を無効化」 する反動/反転のテーマが, ポーのすべてのジャンルに見いだされるとする点である。 しかも, その反動はさらなる反動を誘発する。 著者によれば, ポーの作品で美女の遺体が蘇生するのも, 数ある作家の中でポーだけが推理小説というジャンルを創始することができたのも, 同じ理由によるのだ。 つまり, 破壊から始まり, 秩序ある原初へと向かうという推理小説のプロセスは, ポーの他のジャンルにも通底する構造なのである。
本書は作品論であると同時に作家論である。 本書によってポーという作家が生き生きと浮かび上がってくる。 いやこの言い方は正確ではない。 本書は作家としてのポーだけでなく, 優れた雑誌編集者としてのポーを強く意識している。 本書が当時の北部文壇との関係というコンテクストを扱う第 II 部に移行するのも, ポーの雑誌編集者としての半面を説明するためである。 著者が 『ユリイカ』 は 「彼の理想の雑誌の具現」 であったと言うように, 『ユリイカ』 は作家ポーのみならず, 雑誌編集者ポーとも重要な関係をもつ。 編集者ポーは, 神のように全体を見回して, 雑誌全体の構成を定める。 編集者の最後の改訂はその雑誌のすべてに影響を与えるだろう。 まさしく, 著者が言うとおり, 『ユリイカ』 を書いたポーは, 彼のすべての文業に対して最後の一筆を置こうとしていたのである。 彼の作品の反動/反転の特質も, 彼の編集者としての一面から来ている。
本書はポー文学の新しい読み方を提示する専門書ではあるが, 挿絵も豊富で一般読者にとっても読み易い本となっている。 日本ポー学会の設立とともにポー研究はますますの充実を見せている。
鵜殿えりか (愛知県立大学)
畠山圭一, 加藤普章 編著
『世界政治叢書 1 アメリカ・カナダ』
(ミネルヴァ書房, 2008 年, 2,800 円)
本書はともにイギリス帝国から独立した北米大陸の国家であるアメリカ合衆国とカナダの政治外交を多角的に分析した概説書である。 とはいえ, 従来多くの場合別個に扱われてきたアメリカとカナダの政治外交をあえて比較し, その類似性と異質性をより包括的かつ鮮明に理解するという野心的な目的が序章で掲げられている。
第 1 部はアメリカについての各論からなる。 まず第 1 章 (畠山圭一氏) で多民族国家アメリカの多様性と国民統合のための思想的背景が論じられ, アメリカの政治文化の基礎が紹介される。 第 2 章 (川上高司氏) で連邦制の発展の歴史が紹介されたのち, 第 3 章 (畠山氏) では二大政党制の歴史的展開が政党再編を中心に詳述されている。 第 4 章 (飯山雅史氏) では, 権力との協力と対峙を繰り返してきたアメリカのマス・メディアの発達と世論形成との関連を論じながら, 民主主義の発展における促進要因と阻害要因について興味深い分析をしている。 第 5 章 (上村直樹氏) では革命・建国期以来第二次世界大戦までの外交の歴史とその特徴を, 第 6 章 (村田晃嗣氏) は冷戦の開始・変容と終結を, 時系列的にまとめている。 第 7 章 (西脇文昭氏) ではポスト冷戦期のアメリカの戦略論の動向について専門的な分析がなされている。
一方, カナダを扱う第 2 部はやや短い。 第 8 章 (加藤普章氏) でまずカナダ政治の多元性の要因が民族的多様性と地域主義の両面から解説され, 第 9 章 (木暮健太郎氏) でカナダの政党政治の展開が保守と改革の対立軸の視点から分析され, 第 10 章 (竹中豊氏) はカナダ政治の顕著な特質ともいえるケベック政治の異質性を論じている。 さらに第 11 章 (吉田健正氏) ではカナダ外交の歴史的経緯を, 対英依存から対米依存へのシフト, 対米依存からの脱却の模索, そしてカナダのミドルパワー意識といった点から分析している。
第 8 章と第 11 章以外には米加の比較の視点が不在であるという評者の印象は, 見事に全体を統合する役割を果たしている終章 (畠山氏) によって覆された。 終章ではヨーロッパ思想と世界資本主義の発展のプロセスのなかに米加両国の発展を位置づけ, 歴史・政治・経済・思想面での共通点を見いだすと同時に, 社会的主流派による価値基準を全体に適用し民族的文化的相違を包摂することを理想とするアメリカに対して, 異なるアイデンティティを持つ集団の独自性を憲法で保障するカナダのプラグマティズムの特徴が浮き彫りにされている。 国力の相違や文化的共通点といった単純な比較にとどまらず編者の歴史観が伺える終章である。
本書の各章では合衆国独立, あるいはカナダ連邦結成以降の政治外交が時系列的に説明されてわかり易いうえ, 情報量も多く充実し読み応え十分である。 また, 巻末には年表や地図, 機構図や各種統計が掲載されており, 活用価値の高い大変親切なテキストである。
伊藤裕子 (亜細亜大学)
大井浩二 著
『南北戦争を語る現代作家たち
──アメリカの終わりなき《戦後》』
(英宝社ブックレット, 2007 年, 1,995 円)
分裂したアメリカの融和を説くオバマの演説は, その分裂に疲れたアメリカ国民の肺腑を衝き, 彼を 2008 年大統領選の民主党最有力候補の座にまで押し上げた。
本書は 「アメリカ合衆国が分裂の危機にさらされた」 南北戦争を題材とする最近のベストセラー小説 14 冊を, 丁寧なあらすじ, そしてベテラン研究者ならではの詳細な南北戦争史解説を添えて紹介している。 序章でのウィリアムズの 『遠い炎』 (2004) への論及にもあるように, 現代アメリカは南北戦争という過去の戦火が今なお様々な社会問題として燻り続けている〈戦後〉状態にある。 本書全体から読みとれるのは, その燻りがもたらす分裂は作家たちの想像力を刺激すると同時に, アメリカの読者が 「アメリカン・アイデンティティを確かめるため」 に南北戦争という物語を必要とする現象を生んでいるということである。 南北戦争を少年の 「目覚め」 の場, もしくは女性の 「解放」 の契機として描く作品は, 著者も指摘しているように 「お定まり」 の 「おとぎ話的」 な印象を受けるが, 注目すべきはこれらの作品が多くの読者を獲得したという事実であろう。 アメリカ大衆の意識が社会的成熟の場を南北戦争という物語の中に要請しているのである。 この要請はダイジャの作品では空間化される。 『王国を賭けたプレー』 (1998) に関して著者は, 戦争のフェアな決着のために出現する夢想的な球場を 「奴隷制度をめぐって分裂したアメリカ人たち」 が 「みんながアメリカ人であることを再確認するプロセス」 を提供する空間であると読む。 しかしこれはファンタジー空間の創出を必要とするほど現状が深刻であるということでもあり, 著者は本書後半でその深刻さに触れる。 ブルックスの 『マーチ』 (2005) は, オルコットの 『若草物語』 では戦場に赴いていた父親マーチと家庭に残った彼の妻の 「分裂」 を通して, 戦争がもたらした社会的傷痕の深刻さを描き, エイドリアンの 『ゴブの悲しみ』 (2001) は, ホイットマンの文学的想像力をもってしても果たせない双子の再会が, 癒しがたい南北戦争の傷痕を象徴しつつ, その傷跡が登場人物たちの 「断ちがたい絆」 となって, 彼らを双子再会というプロジェクトの周りに集わせていると主張する。
最後に著者はアメリカ研究者ウォレンの論を引く。 今やアメリカ人の多くは南北戦争後に移住してきた者たちであり, 彼らのルーツに南北戦争の記憶はない。 しかし彼らにとっては南北戦争の 「想像力を惹きつける力」 を経験することが 「アメリカ人になるための儀式そのもの」 であると。 なるほどオバマの黒人ルーツにも南北戦争の記憶はないはずだが, その彼が 「分裂したアメリカの融和」 の物語を語ってアメリカ国民の支持を集め, 新たな分裂も生みつつ, 今まさにアメリカの顔になろうとしている。 「旬」 なリーディングリストを提供してくれる本書は, ぜひとも 「今」 読みたい一冊である。
下條恵子 (宮崎大学)
渡辺 靖 著
『アメリカン・コミュニティ
──国家と個人が交差する場所』
(新潮社, 2007 年, 1,600 円)
著者は, 「アメリカ」 を求めて, 多くのコミュニティーを訪ね歩いた。 厳しいグローバル化の挑戦を受け, 「アメリカ」 に異議申し立てしながら, あるいは自分たちこそが 「アメリカ人だ」 と自己主張しながら, それぞれのコミュニティーでしたたかに生きている多様なアメリカ人の姿が描かれている。 著者は, 個人への分断圧力の凄まじさ, 踏みつけられ立ち上がる勇気さえ失いそうなアメリカ人の姿を見ていないわけではない。 小さな子どもの肩を抱きながら夕陽の落ちる刑務所を黙って見つめるアフリカ系女性の描写など心を打たれる。 しかし, 著者は, 全編を通じてコミュニティーの解体に立ち向かう人々の人間関係の維持, 生成, 再生の努力に力点をおいている。 アメリカの 「復元力」 を疑いつつ, それに期待しているのだ。
文学者の旅行記を思わせる巧みな文章に引きずり込まれ読み進んでいくうちに, 著者がこの 9 つのコミュニティーを周到な熟慮の上に配置していることに気づく。 最新の経営戦略を駆使して世界的な木工市場に進出し, 宗教共同体を維持発展させているブルダホフ。 住民参加の原則を貫いて荒廃しきった南ボストンのゲットー再生に取り組んだダドリー・ストリート。 「恐怖の文化」 を象徴する特権的有産者の排他的ゲイテッド・コミュニティーの寒々とした相互不干渉社会。 あのリンド夫妻の 「典型的」 アメリカ 『ミドルタウン』 の今日の空洞化と社会的分断。 大企業に圧迫されますます経営が困難になっている大農業地域でのエコ・ツーリズム, 協同組合運動を通じての 「助け合い」 関係生成の試み。 希薄化する人間関係と 「道徳的最小限主義」 の裏返しとして, 既存の教会組織が応えてくれないものを与えてくれる巨大教会組織 (原理主義的宗教右翼と見なされている)。 ディズニーが設計した歩行者と生活者の目線に立った 「古き良きアメリカ」 団地。 アメリカ領サモアのしたたかな 「自治的植民地」 社会。 そしてもう一つの 「ゲイテッド・コミュニティー」 テキサスの監獄町。 そこには, 監獄建設が過疎地域にもたらしてくれるはずだったブームは必ずしも来なかった。
著者が訪れた町のほとんどは 「保守的」 アメリカである。 しかし, グローバル化の荒波に対する対応はきわめて多様で, 著者は, 政治の 「市場化」 による信念なきポピュリズムの優勢を憂えながらも, そこに格差の拡大や人的結合関係の分断に対する 「カウンター・ディスコース」 を読み取ろうとする。
著者の恩師の言葉 「どんな場所であれ, 最初のうちは語るのが容易い」 を心に刻み込み, それぞれのフィールドに身を置き, 頭はフィールドから距離を置きながら, 現実を決して単色で塗りつぶさず多面的に読み取り, じっくりと描き上げていく。 陰影あるその描写には立体感があり, 読者を思索と疑問の中に引きずり込んでいく。 本書から 「アメリカとは何か」 を知ることは期待できない。 しかし, 本書は多くの読者に 「アメリカとは何か」 を考えるきっかけを与えてくれる。
上杉 忍 (横浜市立大学)
2008年11月01日 | アメリカ学会会報
Copyright © 2004 The Japanese Association for American Studies. All rights reserved.