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会報166号(新刊紹介)

新刊紹介

古矢 旬・山田史郎 編著
『シリーズ・アメリカ研究の越境 第 2 巻 権力と暴力』
(ミネルヴァ書房, 2007 年, 3,675 円)

 本書は, アメリカ合衆国で 「自由」 と対峙する 「権力と暴力」 を三部構成で俯瞰する。 共編者の古矢旬氏 (序章) は, 生活の諸レベルに存する社会秩序に抗して発動されてきたアメリカの 「暴力」 は 「分散的」 で一貫性がないと説き, 本書では先住民に対する 「暴力」 や奴隷制で培われた 「南部の暴力」 には触れないと断っている。 そのうえで第一部 「国民国家建設と暴力」 は秩序形成のプロセスを解明する。 まず, 滝野哲郎氏 (第 1 章) は農場主 (バード二世) が種々の 「暴力」 に直面した 18 世紀ヴァージニアを描く。 肥後本芳男氏 (第 2 章) は独立戦争期のフィラデルフィアで生活に困窮した民兵たちが商人や王党派を襲った暴動を, 中野勝郎氏 (第 3 章) はウィスキー税に不満を唱えた民兵たちの 「暴力」 (1794 年) を手がかりに, 社会的政治的秩序形成の実態を明解に分析している。 横山良氏 (第 4 章) は, 19 世紀半ばのフロンティアにおけるヴィジランティズムの神話化に注目し, 自警団には秩序回復の論理で行動する 「公的」 権利が認められていたと論じる。 落合明子氏 (第 5 章) は, 再建期サウスカロライナ州の 「南部白人」 が戦後の混乱から 「秩序」 を取り戻す過程を, 白人武装集団や KKK の横行を射程に入れて描いている。
 第二部 「産業社会の発展と暴力」 では資本主義社会における制度化が念頭に置かれ, まず貴堂嘉之氏 (第 6 章) が, 社会構成員としての不適者が炙り出される 19 世紀の社会秩序形成メカニズムを検証し優生学の影響を展望する。 労使関係の 「暴力」 に注目した竹田有氏 (第 7 章) と河村哲二氏 (第 8 章) はそれぞれ, 19 世紀から 20 世紀初頭に公権力が資本家側の 「生命と財産の保護」 のために動員された歴史や, 1930 年代半ばに激化した労使関係が 1940 年代に連邦政府の介入によって安定し 「制度化」 されていくプロセスを検証する。 西山隆行氏 (第 9 章) は, 都市の犯罪減少の視点から近年注目されている 「割れ窓戦略」 を考察する。
 第三部 「グローバル化社会と暴力」 では, 藤森かよこ氏 (第 10 章) が武装権を保障する憲法修正第二条の存在に注目しフェニミズムの可能性を提起し, 舌津智之氏 (第 11 章) が自動車を 「暴力」 の表象としてとりあげ, 佐々木卓也氏 (第 12 章) は 「国際共同体」 のリベラルな主導権を握ろうとした第一次世界大戦から軍事巨大国家となった現在までの戦争と対外政策の変遷をわかりやすく検証している。 そして最後に編者の一人として山田史郎氏 (終章) は, 1619 年から 2007 年までのアメリカにおける 「暴力」 の年表を掲げ, 対人暴力や 「戦争と暴力」 についてはさらなる研究が必要だと指摘する。 総じて社会史に関心のある評者には第一部に興味深い論考が多かった。 第二部・第三部では社会学・ジェンダー研究・表象論など意表を突く論考が加わり, 「権力」 「暴力」 の多様性と共に学際的に多様な捉え方が一望できる。
樋口映美 (専修大学)

荒このみ・生井英考 編著
『シリーズ・アメリカ研究の越境 第 6 巻 文化の受容と変貌』
(ミネルヴァ書房, 2007 年, 4,410 円)

 日米のあいだで複雑に越境し, 転移する文化のネットワークを, 本書は縦横に解きほぐし, あるいは切り結んでみせる。 収録された論文は, 日米の不均衡な関係を前提にしつつも, 両者の接触 (領域) で文化がいかに変貌してきたか, その諸相にこそ力点をおいているように感じた。 表題が 「アメリカ文化の受容と変貌」 となっていないのは, この論集の性格を何よりも物語っているといえるだろう。
 本書は四部構成からなる。 第一部 「思想としてのアメリカ」 では, 強制収容所での藤井寮一による民主主義講座とその抵抗の可能性を指摘する第一章, 森有礼・新井奥邃が持ち帰ったトマス・レイク・ハリスの共同体思想をたどる第二章, 米国教育使節団報告書を対話として読み解く第三章が収められている。 第二部 「アメリカ受容の軌跡」 では, 日本のアメリカ文学研究者の 「文学主義」 をめぐる古くて新しい論争を活写した第四章, フェノロサが発見した 「日本美術」 を論じる第五章, 戦前日本のジャズ受容を俯瞰する第六章のあと, 第三部 「表象と変容のアメリカ」 では, 吉田ルイ子と桐島洋子のアメリカ体験記を対比した第七章, 村上春樹が日米文学の意外な交通のなかで生まれたことを明らかにする第八章, マドンナの受容を比較して日米社会の差異を指摘する第九章が続く。 第四部 「多国間関係時代の日本と世界」 では, 第十章が韓国を視野に入れた三国間関係を, 第十一章が日本の自動車生産システムの世界化した過程を, 第十二章がアニメのアメリカでの受容を, 第十三章が日米のインターネット文化の差異を, それぞれ論じている。
 日米関係史を簡潔にまとめつつ, 十三の論文を要約した序章と, 文化変容の歴史と理論の限界を鮮やかに整理した終章のせいもあるのだろう, 多彩な議論が各論の細部と響きあい, 啓発されることこのうえない。 一例をあげれば, 第六章 「スウィング・ニッポン」 で黒人派と白人派のジャズ批評のあと, 白人のジャズの方に興味があるという村上春樹の言葉を読み, 文字通り, 日本の 「スウィング」 振りに納得させられた。
 巻末の座談会も必見である。 各巻の編者が一堂に会し, 「アメリカ研究の越境」 全六巻すべての論文を, 文学から環境まで八つの分野に分類しなおし, 報告とコメントを寄せている (全巻の目次を掲載しなかったのは出版社の叡智といっていいだろう, 自ずと各巻をとりよせることになるのだ)。 十二人だからというわけではないだろうが, あたかも陪審員のごとく, アメリカ研究の歴史性なり政治性なりをめぐって, さまざまな対立をはらみつつ, 心地よい緊張感をもって討議が繰り広げられている。 むろん, アメリカ研究を断罪するわけでも免罪するわけでもなく, その多様性を確認して座談会はお開きとなる。 アメリカ研究の越境について, ここまで真剣な議論と内省が成立しうること自体 (これもまた文化の受容と変貌の一つかもしれない) に, そして理論が追いついていない文化変容の現状を指摘する終章に, むしろ今後の研究の可能性を確信する読者は少なくないだろう。
橋本順光 (横浜国立大学)

松本悠子 著
『創られるアメリカ国民と 「他者」──「アメリカ化」 時代のシティズンシップ』
(東京大学出版会, 2007 年, 5,880 円)

 アメリカは自由や平等など普遍的な理念に立脚した国であると称揚される一方で, 深刻な人種差別を抱えた国として批判も浴びてきた。 この 2 つの側面を歴史的に検討するために, アメリカの完全なメンバーとして 「敬意・保護・権利」 を得る資格という広い意味でのシティズンシップ概念 (10 ページ) を切り口に, 20 世紀前半のカリフォルニア州に焦点を当てたのが本書である。
 本書の特質は, ナショナリズム史を検討する際に, 公式イデオロギーから抽出した理念型よりも, 「草の根」 の運動や日常的実践を通じたネイションの意味の構築, すなわち社会史的な側面に着目している点にある。 第一次大戦期に高揚した 「アメリカ化」 運動を手がかりに, 著者は, アメリカ人=「私たち」 としてふさわしい人間像が, 「近代的」 家庭・住宅・ 「アメリカ的」 生活様式や生活水準などの要件によって確定されていき (第 1 章), それは移民たちを 「アメリカ化」 するだけでなく, 「私たち」 自身が 「アメリカ人とは何者か」 を確認していく運動=「アメリカのアメリカ化」 であったのだと説く (第 2 章)。 そして, このような 「私たち」 像の定義がジェンダーに依拠していたことを鋭く指摘している。
 次いで著者は, 排外運動が移民集団を 「人種集団」 化し, 「血」 の問題故にアジア系移民などがシティズンシップの要件を満たせないことを強調することで, 市民的な理念と 「人種」 の論理を結合し, 「私たち」 の境界線とその内側の秩序を防衛したのだと論じる (第 3 章)。 そして, 日常生活や住宅地や労働などの現場においてこそ, 「人種」 による境界線が引かれていったのだという (第 4 章)。 ここには, 市民的理念と人種主義が補完してアメリカの境界を構成していく具体的な歴史的過程が鮮やかに描かれている。
 このようにして形成されたカリフォルニア社会を, 著者は 「多人種社会」 と呼ぶ。 日本人・中国人・メキシコ人移民やアフリカ系アメリカ人, そして白人が混在するカリフォルニアは, 「私たち」 と 「他者」 の境界において, 一枚岩の 「他者」 ではなく多数の 「人種集団」 間に複雑な緊張・交渉・摩擦・協力が繰り広げられる 「重層的な力関係の網の目」 (221 ページ) が創出されたと論じる (第 5 章)。 その力学の具体的諸相を, 本書では主に日本人・中国人移民 (第 6~7 章) とアフリカ系アメリカ人 (第 7 章) の 「越境」 戦略に光を当てて詳述している。
 本書は, 「白人/黒人」 のような二元的な枠組を超えた複雑な 「人種」 の力学を歴史的に詳述しながら, 「私たち」 と 「他者」 の境界線が引かれる具体的現場に肉薄してアメリカのシティズンシップの特質を解き明かした野心的な総合の試みであり, アメリカ史における 「人種」 の意味を再考することを読者に促してくれる極めて刺激的で啓発的な一冊であると言える。
兼子 歩 (札幌学院大学・非)

村田勝幸 著
『<アメリカ人>の境界とラティーノ・エスニシティ── 「非合法移民問題」 の社会文化史』
(東京大学出版会, 2007 年, 6,090 円)

 著者の博士論文をもとにした本書は, 全米最大のマイノリティ集団となったラティーノに関する日本初の本格的なモノグラフである。 アメリカの人種・エスニック編成を規定してきた 「白か黒かの二分法」 を乗り越えるべく, これまでにも白人性研究や階級・ジェンダー変数を強調した研究など新しい取組みが数多くなされてきたが, 現代アメリカの社会編成や人種主義を読み解く上で長く待ち望まれていたラティーノ研究という研究領域が, ここに著者の先鋭な問題意識とともに一気に切り拓かれたことを, まずは喜びたい。
 本書を, ラティーノの人々についての歴史書と勘違いしてはいけない。 「非合法移民問題の社会文化史」 と副題にある通り, ラティーノの人々に向けられた人種化されたネイティヴィズムとそれへの対抗戦略を分析し, 「アメリカ人と非アメリカ人」, 「われわれ」 と 「かれら」 の間に境界線が引き直されるダイナミズムを描くことに主眼が置かれている。 序と第一章, 第二章で, まずは本書の分析枠組みが紹介され, 20 世紀転換期のネイティヴィズムとの比較史的考察から, 1970 年代以降のそれの歴史的性格を浮かび上がらせ, 20 世紀後半の人種・エスニシティ論の問題系を最新の研究書を取り上げながら解説し, シビック・ナショナリズム論と対になる著者自身の造語である 「シビック・ネイティヴィズム」 という概念が提示される。
 第三章で, 1986 年移民法制定に至る論議の中で非合法移民が 「社会問題」 として規定されていく過程を描いた後, 続く三つの章では, 性格も社会的位置づけもまったく違う以下の三つのラティーノ組織が, 非合法移民を 「かれら」 から 「われわれ」 の側に取り込むかたちで引き直した境界線のポリティクスを扱う。 一つは全米最大の伝統あるラティーノ組織, LULAC, 二つは非合法移民の権利擁護を目的に設立されながら短命に終わった CASA, 三つは広範な大衆的支持を集めたチカーノ主導の労働組合 UFW である。 これら組織の具体的な, 矛盾と緊張に満ちた活動の検証が本書最大の魅力であり, そこにラティーノ・エスニシティの多声性理解の鍵がある。 多様性を強調すれば政治的力が分散し, ラティーノの一枚岩性に訴えればネイティヴィストに足元をすくわれるというディレンマと共に, 今に至る苦悩が描かれる。
 本書は, このようにラティーノ研究を超え, 現代アメリカ社会における包摂と排除の政治やその歴史性を検証し, 人種主義やマイノリティの政治のあり方に関する理論をも射程に入れた広がりを持つ。 非<アメリカ人>的なる存在が創造/想像される歴史的・社会的文脈を丹念に描き, ネイティヴィズムの標的とされるそれの具体性とは対照的に, つねに<アメリカ的>なるものが指す中身は曖昧であったとの指摘は, 他のマイノリティ研究, 政治研究においても共有できる卓見であろう。 本書が, 新しいラティーノ研究の出発点となり豊かな研究が生み出されることを期待するとともに, 広くアメリカ研究者に読まれることを望みたい。 貴堂嘉之 (一橋大学)

増永俊一 編著
『アメリカン・ルネサンスの現在形』

(松柏社, 2007 年. 3,675 円)

 本書は, アメリカの文学的独立を宣言した F・O マシーセン著 『アメリカン・ルネサンス』 (1941) に対する修正主義者の批判を認識しつつも, 文学批評界におけるその存在感を認め, 19 世紀半ばの 「アメリカン・ルネサンス」 を 「ランドマーク」 として据え, その再考を試みるものである。 特に, 従来の議論でおろそかにされてきた 「表現」 に注目し, マシーセンが取り上げるキャノン作家を中心に互いに共鳴する 「表現」 と時代との関係を考察する。
 第一章 「F・O マシーセンの 『ルネサンス』」 で前川玲子氏は, マシーセンのルネサンスの重要性がヨーロッパの精神文化の 「継承と離脱」, 「再生」 の希望の投射にあるという立場から, マシーセンの 「言語の再生」 「民主主義の再生」 「固体の再生」 等を探求する。 第二章 「エマソンの 『マスター・ワード』」 で小田敦子氏は, ホーソーンが 「旧牧師館」 で述べた 「マスター・ワード」 とは賛美と嫉妬が混在したエマソン評であると論ずる。 第三章 「『成熟』 から回顧する 『熱狂』」 で丹羽隆昭氏は, マシーセンがパリントンへの対抗上 『アメリカン・ルネサンス』 で 1840 年代を取り上げなかったが, 『ウォールデン』 は 50 年代に 「成熟」 したソローが 「再生」 を賭して自伝的に 40 年代の 「若さ」 と 「熱狂」 にあった自らを回顧する語りの構造を持つと評価する。 第四章 「『ディセンサス』 を生きる」 で増永俊一氏は, 社会改良運動の展開された 19 世紀を 「ディセンサス」 の時代と捉え, ホーソーンが 『デモクラティック・レビュー』 等に掲載の 「鋭利で辛らつな社会時評」 を語る短編 (マシーセンによれば 「未熟なテーマの覚え書き」) のアレゴリーを進化させ, 「税関」 の 「中間地帯」 で作家としての 「新たなスタンス」 を発見したと論ずる。 第五章 「メルヴィルの小説における死と感傷」 で西谷拓哉氏は, マシーセンが触れなかったメルヴィルの短編における, 死に対するセンチメンタリズムへの二重性に注目し, センチメンタリズムに抗う反時代性に 「作家的矜持」 を見出している。 第六章 「都市の欲望」 で西山けい子氏は, ポーの 「群集の人」 を取り上げ, 19 世紀の発展する大都市における人間の 「欲望」 と群集の 「不気味さ」 の根源をベンヤミン, ジラール等の論を基に検討している。 第 7 章 「共感する 『わたし・たち』」 で難波江仁美氏は, マシーセンが語らなかった 20 世紀のジェイムズに焦点を当て, プライベートな私信中の 「わたし・たち」 の語りに注目し, ホイットマンの書評と 『自伝』 に認められるジェイムズの 「政治性」 が最晩年のパブリックな 「わたし・たち」 の語りに 「継承」 されていくことを辿る。
 序章で増永氏により語られた本書の目的である, マシーセンが 「再生」 の希望を託した 19 世紀半ばの作家と, 社会との関係性を作品の 「表現」 を通して 「再考」 することは達成され, まさしく 「アメリカン・ルネサンス」 が現代において 「再生」 された。
倉橋洋子 (東海学園大学)

福岡和子 著
『「他者」 で読むアメリカン・ルネサンス──メルヴィル・ホーソーン・ポウ・ストウ』
(世界思想社, 2007 年, 3,150 円)

 本書はルネサンス期アメリカ小説を 「他者」 という観点から再読しようとしたものである。 近年, 支配的文化から抑圧されたマイノリティに光をあてることで, テキストに組み込まれた人種/性差別などを明るみにだす研究が盛んに行われているが, 福岡氏の批評的アプローチは白人と非白人, 支配者と被支配者といった二項対立的なパラダイムに回収されず, 登場人物に内在化された他者像と現実の他者とのズレや, 伝統的な小説ジャンルが要請する他者像と作家が示したい他者像とのズレがいかに作品 (テキスト) 化されているかという, 高度に複雑な問題を提示する。 すでに前著 『変貌するテキスト―メルヴィルの小説』 において, 伝統的な文学ジャンルとそこに介入する批判的言説を 「変貌するテキスト」 として見事に分析してみせた著者は, 本書では, それを階級/国家/家族なども含めた 「他者」 の問題へと発展させ, 分析の対象もホーソーン, ポー, ストーへと広げている。
 上記のように複雑な問題を提示する本書が, 難解な印象を与えないとすれば, それは深い読みに裏打ちされた明快な分析と, 各作品を網羅的に解説するというよりは, 象徴的な場面を取り上げ, その背景となる歴史的事実や支配的言説を照射することで, その場面の意味を重層的に浮かび上がらせる手法によるといえよう。 たとえば 『白鯨』 を扱った第一部第二章では, イシュメールの語りに有色人種 (他者) の声を操作する力を認めつつも, 捕鯨という 「卓抜な技能」 や 「頑健な肉体」 を要する労働を描写した場面に, 作家メルヴィルの人種を超えた 「捕鯨のプロの偉業に対するオマージュ」 を読み解いている。 あるいはまた, ホーソーンの 「ロジャー・マルヴィンの埋葬」 を取り上げた第二部第一章では, 二つの象徴的な場面, 妻ドーカスが荒野のただ中に誂えた食卓シーンと夫ルーベンが夢想する荒野の情景をクローズアップさせ, その奥に潜むイデオロギーを炙り出す。 その上で, 前者にウォーナーの 『広い, 広い世界』 とつながるドメスティック・イデオロギーを, 後者に 「家父長的イデオロギーに支えられた建国の思想」 を読み取り, この物語を 「他者認識」 を欠いたルーベンの自己中心性 (独善的国家観) がもたらす家族崩壊 (国家的破綻) の物語と結論づける。 ポーを扱った第三部, ストーを扱った第四部では, やや総論的になり, 固有名詞の表記が若干気になるものの, 「権威の格下げ」 を論ずるブロドヘッドを援用して, ポー文学における 「神の存在の希薄化」 とウォーナーの 「信仰の世俗化」 を結び付けている点や, 『ドレッド』 の湿地帯に介入する 「家庭」 が自らの家庭をいかにして守るかという問題を 「黒人たち自身に突きつけている」 という指摘は, 注目に値する。
 本書のもう一つの特徴は, 「他者」 という問題を提示する理論家を論じた第五部である。 トドロフを中心とするこれら理論家たちの分析は, 本書全体が深い哲学的考察に支えられていることの証左となっている。 読者はこの第五部から読み始めてもよい。 「他者」 という問題を様々な局面から深く掘り下げた本書は, 一読に値する。
野口啓子 (津田塾大学)

小林史子 著
『非対立を抱くアメリカ作家たち──バース, デリーロ, ミルハウザー, ホーソーン』
(彩流社, 2007 年, 2,625 円)

 ポストモダン文学と聞けば即座に敬遠してきた人も多いに違いない。 ストーリーは追いにくく, 登場人物は入り組んでいて, メタフィクションなどの仕掛けも盛りだくさんである。 そしてポストモダン文学研究と言えばそれに輪をかけて難解なのが通り相場だ。 だが本書は違う。 極端なまでにわかりやすいのである。 これはどうしたことか。 ジョン・バース 『レターズ』 の共訳者でもある小林のアイディアは二つである。 いくら複雑に見えても, ポストモダン文学がやっていることは結局, 二項対立をどう乗り越えるかという試みであるというのが一つめ, いくら新しがっていても実は古典の書き直しであるというのが二つめである。 彼女の論をたどれば, それが意外とあたっていることがわかる。
 中心となっているのはジョン・バースの 『酔いどれ草の仲買人』 や 『やぎ少年ジャイルズ』 についての詳細な読みで, 十八世紀小説や聖書など, あらゆる古典がバース流の世界へ書き直される。 「僕としては, 伝統に沿って反逆することを選ぶ気質があるから, あまり多くの人ができないような芸術を好む傾向がある」 (『金曜日の本』 65) という本人の言葉どおり, 自作をも含めた先行作品を材料にしながらバースは長大な作品を編んでいく。 そのとき導きの糸となるのが, 彼自身男女の双子の一人として生まれたという事実である。 善と悪, 合格と落第, 東側と西側などの二項対立が双子として登場しては入り交じる。 こうしたディコンストラクション的な小説の動きを, 小林は 「非対立を抱く」 という表現で呼ぶ。 理性でがんじがらめになった西洋近代の行き詰まりをどうにか打開しようという試みがこれらの小説であるという小林の指摘は説得力がある。 その過程で東洋的なメタファーも導入されるわけだが, これが答えだと思ってしまえば, またもや東洋は善で西洋は悪という二項対立に落ちてしまうことも彼女の言うとおりだろう。 二項対立を超えようという努力こそ, ポストモダン文学の専売特許ではなく実はポーやホーソーンも含めた広い意味での近代小説そのものの定義であるという論の広げ方も興味深い。 まさに 「作家の仕事とは先行作品をなぞり, その可能性を使い尽くし, 間隙を現代的想像力で埋めること」 (89) というわけだ。
 だからこそ小林の論述は親切だ。 トウェインなど誰もが知っている古典的な作家とポストモダン文学の共通点を指摘してくれるし, バースやデリーロなどの作品を詳細にたどってくれる。 読んでいると, 物語の細部まで小林がいかに楽しんでいるかがよく伝わってくる。 ポストモダン文学だって小説なのだから, まずは読む喜びを伝えて何が悪いのか。 言われてみればそのとおりである。 長大な作品や未訳の作品をきちんと読んで, 研究もふまえながら本の魅力を語ること。 こうした当たり前の姿勢こそが, ポストモダニズム文学を研究者のゲットーから救いだす道なのかもしれない。
都甲幸治 (早稲田大学)

阿野文朗 著
Miscellaneous Encounters: Collected Essays on Nathaniel Hawthorne
(Shohakusha, 2007, ¥1700)

 数年前に上梓され著者自身も寄稿者のひとりである 『ホーソーンの軌跡―生誕 200 年記念論集―』 の広汎な章立てが伝えてくれるように, 文学サークルにとどまらずニューイングランド北東部の地縁社会やアンテベラム期の政治文化人脈において, ホーソーンが描きだした生の軌跡は驚くほどに 「多面的な」 出会いに満ちている。 それは本書のカバーを飾る C.オズグッドの肖像画が醸し出す内向的な面影とはうらはらに, このロマンス作家が生の局面での様々な出会い―同時代人は言うに及ばず, 故事, 同時代風俗から自然の事物や擬似科学にいたる多種多様な対象との出会いを, そのしなやかな想像力の発動へと転じていったからに他ならない。 そして, 太平洋に遠く隔てられたこの国に生きる者たちもまた, この作家の想像力に誘われる形で, 時代を超えてホーソーンとの鮮やかな出会いを果たしていくこととなる。 本書は, 日本ナサニエル・ホーソーン協会創立以来, わが国におけるホーソーン研究に深く関与してきた著者の手になる, 「多様なる出会い」 をめぐる覚えである。
 本書の五編の英文エッセイは, いずれもこの二十数年に及ぶ著者とホーソーンの出会いを標しづける。 「ミスチアンザ舞踏宴とホーソーンの 『ハウの仮面舞踏会』」 は, 七〇年代半ば, デューク, イェール両大学における ACLS 研究員時代の成果であるが, 独立戦争下植民地を後にするハウ卿送別宴の風狂ぶりが作家の想像力を駆った痕跡を短編に見取る。 八〇年代末に書かれた 「ホーソーンとペリー提督」 は, リバプール赴任時に遠征記執筆を依頼されるも謝絶したホーソーンと提督の出会いに, 書かれたかもしれぬいまひとつのテキストを仮想する。 文科省研究員として滞米中に書かれた 「ホーソーン最初の論考とウイリアム・H・フォスターの覚書」 と, 85 年に 『英語青年』 に寄稿された論文を英文化した 「ホーソーンと毒薬」 はともに, 自然の密やかな営みを凝視する眼差しが想像力を発動させていく様をこの作家に見取るところで通底しあうが, 後者は毒薬と誘惑のモチーフをヨーロッパ文学への影響・比較考察へと展開していくことで, 本書最後の長い論考に方法面では連接されていく。 紙幅の半分を占める 「隆盛に備える長い揺籃期―明治期日本におけるホーソーン受容」 は, 『エセックス・インスティテュート・ヒストリカル・コレクション』 の 「アメリカ作家作品の日本受容」 特集号 (93 年) に掲載された論考にもとづいている。 掲載誌の性格上アメリカの読者を想定したものであるが, 福澤諭吉が移入した 『ピーター・パーレイの世界史』 が創成期の義塾で英語教本として導入された挿話から説き起こし, 漱石作品に感知しうるホーソーンのほのかな, しかし確かな陰影に至る受容の軌跡を辿る阿野氏の手さばきは, ホーソーンの織り成すテキストの織り地に似た緻密さを感じさせる。 なによりもこの長い論考から伝わってくるのは, ピューリタン的感性とロマンス的想像力への違和と共振をない交ぜる形で太平洋の彼岸の作家を受容していった新生国家の, 生真面目でかつ鮮やかな出会いが発する息吹なのだ。
 書名に誘われ, 気の向くままにどの章から読んでも上質のエッセイに出会えよう。
林以知郎 (同志社大学)

2008年04月13日 | アメリカ学会会報