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会報165号

巻頭言を以下に掲載いたします。

「新大陸」 へのまなざし
西 崎 文 子 

 英国議会で奴隷貿易禁止法が成立して 200 周年にあたる今年, 私が滞在していた英国では奴隷貿易のみならず幅広く 「帝国」 の時代を考える催しや出版物が目立った。 ヨーロッパの 「新大陸」 発見は, その後の人類史にいかなる影響を与えたのか。 富への欲求と航海技術の飛躍的な発展とに後押しされたヨーロッパの人々と, アフリカ, アメリカ, アジア・太平洋地域の人々との出会いはいかなる形をとったのか。 中でも話題となったのが, 大英博物館で催された 「A New World: England's First View of America」 という特別展である。 これは, 1580 年代に 5 回にわたって 「ヴァージニア」 を訪れたロンドンの画家ジョン・ホワイトが, 「新大陸」 の植生や動物, アルゴンキアン人の姿を丹念に描いた有名なスケッチを中心に, 北米大陸とヨーロッパとの遭遇という歴史的な事件を扱った野心的な展示であった。
 ホワイトのスケッチについての解釈は多様である。 後に流布した定式的なイメージとは異なり, 先住民の姿が生き生きと描かれていることを指摘する人もいれば, イギリス人の植民や投資を促すためのプロパガンダである点を強調する人もある。 また先住民から見た 「白人」 の姿が欠落している点を問題視する声もあった。 しかし, いずれにせよ, 「コロニアル/ポストコロニアル」 批評を経て, 観衆が過去と現在との関係性や眼差しの多様性を常に意識していたことは間違いない。 その点で, 議論を触発するという博物館の目的は, 見事果たされたといってよい。
 そのような議論は別として, 私の印象に強く残ったのは, スケッチの中に会話や音, 言葉が豊かに存在していることであった。 ヨーロッパ風の人形を持った少女が母親に小走りでついていく姿や, 大きな皿をはさんで食事をとっている男女といった日常の描写にも, 集落の人々の踊りや, 焚き火を囲んでの音楽といった集団生活の風景にも, 言葉と音が満ち溢れているのがわかる。 ホワイトの絵の特徴であろうが, うっすら開けられた口からは, さまざまな声が漏れている。
 しかし, その言葉や音は, 観衆の耳にはざわめきのようにしか届いてこない。 どのような会話が交わされていたかは伝わってこないのである。 その最大の理由が, 絵画は音を再現しえないという単純な事実にあるのはもちろんである。 また, ホワイトがアルゴンキアン語を理解しなかったことも指摘できよう。 その結果, 人々は薄いヴェールの向こうで, 外部からの眼差しをそっと拒否しながら, 和やかに生きているように見えるのである。 空気と時間を共有しながらも存在する, ヨーロッパ人と現地の人々とを隔てる微妙な, しかし敵対的ではない帳 (とばり)──不思議なことに, この帳こそが, 人々の生活の美しさを際立たせ, その外に立つ私に強い印象を与えたのであった。
 ホワイトの最後の航海から 20 年余り後, シェイクスピアは, バミューダ諸島に漂着したヨーロッパ人の体験記を土台にした戯曲 『テンペスト』 を著わした。 その中で, 漂流先の島の耳慣れない音に怯える 「白人」 に, 土着の怪物カリバンは 「怖がるなって─この島は美しい音で一杯, いろんな物音, きれいな音楽, 楽しいだけで, 何もしやしねえ (木下順二訳)」 と語る。 野卑で醜い奴隷として描かれ, しかも 「白人」 の言葉を教えこまれるカリバンについても, 多くの批評が書かれてきた。 しかし, 解釈の多様さを敢えて度外視して言うならば, 私にはカリバンが怪物らしからぬ美しさで表現する 「物音」 や 「音楽」 が, ホワイトのスケッチからかすかに聞こえる声やざわめきと重なるように感じられたのである。 この人たちは何を考え何を喋りながら生きているのだろうか, 焚き火のまわりではどのような音楽が奏されていたのであろうか, 小屋や耕地が整然と並ぶ集落にはどのような匂いが漂っていたのだろうか。 帳があるからこそ, 五感をもちいた想像力は逆に掻き立てられるのかもしれない。 この後の 「新大陸」 に繰り広げられた暴力的な歴史とは異なり, 「最初の出会い」 にはさまざまな歴史の可能性が秘められていた──ホワイトのスケッチが人々を魅了したのは, それらがさまざまな 「出会い」 がともすれば激しい暴力性を伴っている現在の世界に対するアンチテーゼとして見えたからかもしれない。
(成蹊大学)

2008年04月02日 | アメリカ学会会報