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会報165号

新刊紹介を以下に掲載いたします。

秋元英一・小塩和人 編著
『シリーズ・アメリカ研究の越境 第 3 巻 豊かさと環境』
(ミネルヴァ書房, 2006 年, 3,675 円)

 本書は, アメリカの経済活動と環境との関連を通時的に解説すると同時に, 共時的には, 各分野の専門家の先端的研究を学際的に取り上げて立体的に提示してくれる。 環境経済学という分野はあるが, それとは異なり, このように 2 つの領域を並置させ, その不可分の関連性を明らかにする試みは画期的である。 アメリカという地域限定という点でも類書がないため, 大変貴重である。 自由競争を第一原則として大量消費を促すアメリカ型価値観が経済のグローバル化によって加速し, 特に人種的マイノリティ, 移民, 女性, 低賃金労働者など弱者に重い負荷を課し, 人種・地域別に所得格差を生み, 自然・労働環境の悪化を招いているという現実を, 詳細な事実と分析を通じて改めて再認識させてくれる。
 本書は 12 編の精緻な研究論文から成り立つ 4 部構成で, 第 I 部は歴史的考察, 第 II 部は現代の環境政策・環境運動の最前線, 第 III 部はアメリカ経済の動向, 第 IV 部は労働環境を扱っている。 第 I 部では, 大量消費の価値観が根付いていった歴史的過程が示されると同時に, ソローのウォールデンを源流とする環境保護運動と環境思想の系譜が辿られる。 第 II 部では, 現代のアメリカの後退する環境政策と体制内化し保守化する環境運動, NAFTA によるメキシコの環境面への影響が分析されている。 また環境人種差別の例として, 先住民居留地に高レベル放射性廃棄物施設を設置する問題と, 先住民による環境正義運動も紹介されている。 第 III 部では, 共和党優位期の予算編成の詳細な分析が試みられ, 90 年代のニュー・エコノミーの登場による低賃金職種の増加と中産階級の生活の不安定化が示されている。 さらに, 金融グローバリゼーションによって, 大銀行が地方銀行を脅かし独占的に巨大化している状況と, 公共の交通政策が所得格差解消に貢献できるかが検証されている。 第 IV 部では, 労働環境問題としてアスベスト被害と福祉関連産業の 2 つの事例が挙げられている。 前者では, 労働者を守る仕組みの不備が指摘され, 後者では, 民営化による労働者の低賃金化が, 移民女性のエスニシティとジェンダーという観点から論じられている。 終章は, 一見多様に分散しているかに見える論集を, 豊かさと環境の関係から統括している。 社会が豊かになるほどに, 消費は増大し資源を枯渇させ, グリーン・テクノロジーの発達によってもこの環境悪化を食い止めることはできない, むしろ先進国が日常的に享受している消費という価値観そのものを再考しない限り, 環境悪化を防ぐことができないという予測が極めて重く投げかけられている。
 学問領域を越境し豊かさと環境との関係性を追究する試みは極めて今日的で, 今後もますます研究の緊急性が高まるだろう。 アメリカ主導のグローバル化とその歪みが国内だけでなく世界で進行している最中に, 未来に向けて価値観の転換を読者に突きつけている。
小澤奈美恵 (立正大学)

久保文明・有賀夏紀 編著
『シリーズ・アメリカ研究の越境 第 4 巻 個人と国家のあいだ〈家族・団体・運動〉』
(ミネルヴァ書房, 2006 年, 3,675 円)

 本書では個人と国家のあいだに介在する家族やコミュニティ, 団体など, アメリカ社会を構成するさまざまな組織を通してアメリカが多角的に検証されている。 まず序論では, アメリカ的精神の本質と認識される個人主義や民主主義は, 個人が相互に連携し形成する 「アソシエーション」 によってこそ保持されるという, 19 世紀のトクヴィルの指摘以降, 社会のネットワークを構成する組織を, 経済や民主主義, 国民の幸福を左右する 「ソーシャルキャピタル」 として位置づけた今世紀のパットナムに至る, 組織の概念の展開が概観され, 組織からみるという本書の視座の根拠と意義が歴史的に解説される。
 こうした視座から, 本論第 I 部 「アメリカ社会をつくる」 ではまず, 同性婚と異性愛主義家族観が政治文化的視点から批判的に再考される (第一章)。 「人種カラーに・無関係ブラインド」 「品格のあるリスペクタブルな」 といったレトリックを擁しつつ, その実白人中産階級の利益推進を図る南部の近隣組織活動の事例が示すのは, 共和党保守派と新保守主義が強化された過程であり (第二章), 選挙戦略や利益団体台頭のメカニズムを解き明かす二大政党の考察 (第四章) とも響き合って興味深い。 企業組織の変遷に呼応するミドルクラスの変容 (第三章), 権力を監視するシステムとしてのジャーナリズムの自己統治 (第五章) などは民間組織の事例として, さらにバスケットボール協会組織の発展史とアメリカンスポーツの組織体系化 (第七章) や, アメリカを内部告発者保護の先進国たらしめる法制度 (第六章) の報告では, 「アメリカらしさ」 のイメージの実態を, 組織がもたらす制度の構築という観点から明快に解説する。 第 II 部 「アメリカ人をつくる」 では, 新しい家族・母親像の表象 (第八章), ホームスクールの実情 (第九章), 宗教右派団体 (第十章) など, アメリカ社会の問題を打開するためのオルタナティヴな取り組みとしての運動が分析され, 第 III 部 「アメリカ社会を変える」 では, 現在に至るフェミニズム (第十一章) および公民権運動 (第十二章) の展開が語られる。
 論考の対象は多岐にわたるが, いずれも公と個人とのあいだに生起し, 公共圏と親密圏を繋ぐ運動体としての組織である。 それらが政策や法制定を左右し, 社会制度や価値観を構築してゆく過程を検証し, そこに顕在化または隠蔽される人種やジェンダー, 階級といったアメリカ社会の複雑な問題を丹念に検討する点で各論の姿勢は一貫している。 膨大な情報を精緻に分析・提示する切り口や学際的な方法論は執筆者たちの力量を反映し, ときにドラマティックな筆致で語られる組織の歴史的描写は, 民主主義や個人主義といったアメリカ的精神の立ち上がる場を鮮やかに伝えており, 初学者や一般読者にも読み応えのあるアメリカ研究の書となっている。
戸谷陽子 (お茶の水女子大学)

水野由美子 著
『<インディアン>と<市民>のはざまで──合衆国南西部における先住社会の再編過程』
(名古屋大学出版会, 2007 年, 5,985 円)

 筆者は本書の課題を次のようにまとめている。 本書は, 「インディアン」 かつ 「市民」 という両義的な法的地位に置かれていたプエブロとナヴァホの事例に即して, 「インディアン」 と同定すること─されることの通時的・共時的な意義を検討し, さらに 「インディアン」 と対置されていた 「市民」 概念の歴史性・政治性を [逆照射] することを目的としている, と。 つまり, 「市民」 概念と 「インディアン」 の歴史的経験を実証的に分析することによって, アメリカにおける先住民の生きた意味を位置づけようとしているといえよう。 わが国においては, 少なからぬ先住民研究が蓄積されてきたが, 本書は 「先住民」 を中心に, アメリカという国民国家と 「市民」 概念を問い直そうとする意味で, アメリカ研究に新地平を切り開かんとする意欲的試みである。
 まず, 第 I 部では, 法的な意味での 「インディアン」 概念の生成過程とそれに付随する権利・義務について, 当時の事実関係の中で具体的に把握し, 次に学校の統合機能と先住社会における役割について再検討している。 著者によれば, 「先住社会における学校とは, 憧憬と拒絶, 実利的関心と心理的葛藤が交錯する両義的で曖昧な存在であり続けた」 という。 第 II 部では, 「インディアン」 への市民権の付与は, 1920 年代当初の先住民政策の文脈では, 便宜的・象徴的な措置であったことを検討し, 次いで, 一九世紀末以降の同化政策への代替案が形成される経緯を再検討している。 1920 年代の先住民政策改革運動の最大の成果は, 保留地では行政官が実質的な立法権・司法権を有していることを問題化したことだと筆者は述べている。 「インディアン」 固有の権利・義務との整合性という難問は残されたものの, 「インディアン」 の市民的権利への関心の高まりは, 1930 年代以降の政策改革を促進する一因と捉え, いわゆる 「インディアン・ニューディール」 の基本的推進力を明確化しようとしている。 第 III 部では, 「インディアン・ニューディール」 と称したインディアン局主導の一連の先住民政策改革の展開について, とくに保留地内の部族評議会と学校の機能と役割という観点から, 諸改革の具体的内容と意義を明らかにしている。 プエブロとナヴァホをモデルケースとした検討は, 対照的な結果を示した。 インディアン局長として 「インディアン・ニューディール」 を推進したジョン・コリアとの関係は, プエブロとナヴァホのあいだでは, 大きな違いがあった。 その理由を本書は説得的に明らかにしている。
 本書は, 合衆国という国民国家と 「市民」 概念を問い直す試みであり, 従来のわが国における先住民概念を根底的に捉え直す画期的な研究であるといえる。 本書は, わが国始めての本格的な実証主義的先住民史研究であり, 理論的にも多様な側面から検討を提起している。 合衆国の研究者たちとの率直な議論を大いに期待したい。
鵜月裕典 (立教大学)

丹羽隆昭 著
『クルマが語る人間模様──二十世紀アメリカ古典小説再訪』
(開文社, 2007 年, 3,570 円)

 本書は, 20 世紀アメリカ文学のよく知られた小説の中から数編を選び出し, 自動車という文化を手がかりに読み直したものである。 作品はセオドア・ドライサーの 『アメリカの悲劇』 (1925), F. スコット・フィッツジェラルドの 『グレート・ギャツビー』 (1925), アーネスト・ヘミングウェイの 『日はまた昇る』 (1926), ジョン・スタインベックの 『怒りの葡萄』 (1939), ロバート・ペン・ウォレンの 『すべての王の臣』 (1946), J. D. サリンジャーの 「笑い男」 (1949), ウィリアム・フォークナーの 『自動車泥棒』 (1962) の 7 作である。 このように紹介すると, 先行研究や今後に残された課題に論を進めるのが書評としての常道かもしれないが, このテーマの研究書では空前絶後の好著と言っても言い過ぎではない。
 アメリカ合衆国, 特に 20 世紀前半のアメリカ社会の変容の中で自動車は, 現代社会における IT 技術に匹敵するような根源的な意味を持つ。 それにもかかわらず, 著者も 「あとがき」 で述べるように, そもそもアメリカ文学を正面からその観点で論じる本格的な取組みは, 意外なことに殆ど無い。 本書の登場は, この重要なしかし等閑視されてきた研究テーマでの 「本格的な取組み」 の水準を, 追随を許さないまでに一挙に引き上げてしまった。
 本書の構成は, 最初に 1 章を割いてアメリカ合衆国を中心に自動車の技術・産業・文化を歴史的に説明し, 第二章からは各作品一章づつの論考を展開するというものである。 まず驚かされるのは, 「車あれこれ」 と題された第一章の自動車に関する解説部分だ。 細かな技術革新が自動車産業とアメリカ社会をどのように変容させてきたのかということが解き明かされる。 情報がきわめて詳細であるだけではなくて, 自動車という文化をひとつの物語として読めるほどに, それらを周到にまとめあげている。
 第一章で著者の該博に驚いた読者は本書を啓蒙書と切り捨ててしまう危険性もある。 しかし第二章以下の作品論を丁寧に読むと, その印象は裏切られる。 第二章以下の各章の構成は, 前半でこれまでほぼ妥当とされてきた読みを展開した後, 後半では同じテキストを自動車を巡る知識のフィルターに通して読み直す形になっている。 具体的には紙幅の関係で紹介できないが, 本書の真骨頂はまさにこのテキストの読み直しの鮮やかさにこそある。 自動車が, きわめて微細な事象に至るまで, 物語にとって欠かすことのできない意味を持ち, 新しい物語の展開につながる。
 著者が 19 世紀アメリカ文学, 特にアメリカン・ルネッサンス研究の第一人者であることを知る読者は本書の刊行に驚くだろうが, 彼が名うてのカー・マニアであることを知ってこの刊行に納得する読者も, 趣味を越えたこれだけの博識を持ち, しかもそれをテキストの解読にこれだけ縦横に駆使するのに接して, やはり驚くのではないか。
上西哲雄 (東京工業大学)

南川文里 著
『「日系アメリカ人」 の歴史社会学──エスニシティ, 人種, ナショナリズム』
(彩流社, 2007 年, 3,675 円)

 本書は, 1900 年代から 1960 年代までのロサンゼルス日系社会のエスニック化と人種化を 「人種エスニック編成」 とナショナリズムの関連性から明らかにした, 歴史社会学の研究である。 著者によれば, 歴史社会学とは 「『歴史性』 を社会理論の重要な要素として取り込み, 時間および空間という視点から, 社会理論の再構築を試みる視角」 (15 頁) であり, 「具体的な時間・空間との相互作用のなかで成立する社会現象として, エスニシティを考えるための方法論」 (15 頁) である。
 時代区分からみた構成は, 序章と第 1 章の理論的考察に続いて, 一世のエスニック化を主に扱った第 2~4 章が移住初期から 1920 年代, 移民ナショナリズムを 「人種エスニック編成」 から論じた第 5 章は 1924 年移民法成立以降 1941 年まで, 二世と 「市民ナショナリズム」 について描いた第 6 章が主に戦時中と再定住期, エスニック多元主義と連動した 「日系アメリカ人研究プロジェクト」 を検証した第 7 章が主に 1960 年代となっている。 なかでも第 1 章では, 本書の中心枠組み 「人種エスニック編成」, エスニック化, 人種化の理論的考察がなされ, その日系人研究への援用に関連して, 従来の 「日本人移民から日系アメリカ人」 へと描く世代論への批判的検討など, 先行研究の問題点と課題が示されている。 第 2 章から第 5 章の 「トランスローカル」 な移民社会と 「日系であること」 の歴史的変遷の検証では, エスニック化や 「差別化された人種化」 が絡んだ複雑な様相が綿密に実証されており, 筆者が行ってきた学際的研究活動, とりわけアメリカ史研究 (者) との対話と膨大な史料分析の成果が随所に現れている。
 本書の主要な論点の一つは, 第 7 章冒頭の 「『日系アメリカ人』 とは, 歴史を超えて存在する主体ではなく, 戦時強制収容を経験した日系アメリカ市民協会 (JACL) の二世が, 独自の関心に応じてつくりだした自己イメージである」 (199 頁), との分析にある。 そして 「そのような当事者の言葉を社会的現実と同一視して理解すること」 よりも, 「これらの語り口が依拠している社会的条件を明らかにする」 (235 頁) との目的を, 本書は十分に達成している。 他方, 筆者のいう 「日系アメリカ人」 とは別の 「日系であること」 の一類型, 「日系米人」 との違いを踏み込んで説明してもよかったかもしれない。 また, 歴史社会学の邦文文献も英文文献と同様に多数示されていれば, 日本の当該分野で本書がどこに位置づけられるのかが, よりいっそう鮮明になったのではないだろうか。 いずれにせよ, 本書を通じて, 社会史の関心や方法論に多くを依拠する移民史研究にも, 社会学的方法論や新たな人種・エスニシティ理論について積極的に学び取る姿勢が求められていると痛感した。
 このように本書は 「日系であること」 の変遷を丁寧に炙り出し, エスニシティや人種の 「関係性」 と 「歴史性」 の理論的枠組みを提示した示唆に富む必読書である。 本書の刊行を契機として, 移民, 人種, エスニシティを対象とするアメリカ研究者の異分野交流の高まりが期待されることは喜ばしい限りである。
菅 (七戸) 美弥 (東京学芸大学)

杉山直子 著
『アメリカ・マイノリティ女性文学と母性──キングストン, モリスン, シルコウ』
(彩流社, 2007 年, 2,940 円)

 母とは, 娘や息子の視点から語られる対象であり, 語る主体になることは稀であった。 しかし 1980 年代以降, 第二波フェミニズムの世代が自らの母親体験に学び, 創作でも批評でも母親の声で語る例が増えてきた。 本書はその 「母親の声」 がもたらす新しい可能性を探求する。
 当然, 「母親」 や 「母性」 という概念の洗いなおしから探求が始まる。 第一章 「母が語ること」 は, 「母親」 の概念が階級や人種を要因として社会的文化的に構築され, 変化してゆくだけでなく, 従来は出産する一人の女性に収斂していた心身の機能すら分裂し細分化されうる現状などを論じ, 既成概念にとらわれずに多様な母親の声を聞き取ることの重要性を強調する。 著者は 「母親の言説」 を 「母が語る母の物語」 にとどめず, 「母の権威をもった声」 のことでもあるとする。 むしろこちらが主眼点であろう。 多様で新しい母親の言説が, とりわけマイノリティ女性作家の作品の魅力であると感じる著者は, 以下の三つの章で, タイトルにあげた三人の作品を各々一つずつとりあげ, それらに差異と同時に, ある種の共通項を読み取る。 本書の意図は, その共通項の意味するものをあぶりだすことにあると思われる。
 第二章は, 『トリップマスター・モンキー』 において, キングストンが中国古典 『三国志』 『水滸伝』 『西遊記』 の断片性, 柔軟性に着目し, 戦闘的な男のロマンという読みから離れ, ジェンダー越境のエピソードや平和を訴えるエピソードを選びだす 「文化的資源」 として活用していることを説き明かす。 この手法が小説の舞台となる 1960 年代サンフランシスコのポストモダン的カオスの表現に効果をあげているという著者の主張は, 具体的で豊富な例証を通して十分な説得力を持つし, そうした脱中心的な語りに統一を与えるのが 「全能の語り手」 たる観音菩薩の設定だという論調も納得がゆく。
 第三章の 『パラダイス』 の分析でも, 混沌としたプロットに統一感を与え, 硬直した家父長的黒人コミュニティ 「ルビー」 を再生に導く可能性を示唆するとして, 女神ピエダージが前面化される。 著者によれば, モリスンは多様性を許容する権威ある女性の声を求めて, 初期キリスト教グノーシス派の女神や, 西アフリカ起源のブラジル宗教カンドンブレの女神などのイメージを多層的に含む黒い肌のピエダージを創造したという。 第四章の 『死者の暦』 の解釈でも, 先住民の信仰に基づきシルコウが呼び起こす神 「母なる大地」 に, やはり脱中心的な語りに方向性を与える機能が指摘されるが, この女神はヨーロッパ的なものの廃絶と土地の回復を先住民に命ずる戦闘的な側面ももつ。 「母親の権威を持つ声」 はまさに多様なのである。
 家父長制的資本主義に支配されてきた世界の行く末に対する危機感と既存の宇宙観や価値観に代わるものへの模索が, 女神希求という形で特にマイノリティ女性作家の作品に反映しているという著者の観点には, 他にも例が思い当たる評者には共感できるものがある。 女神という概念は様々な誤解を生むリスクが高い。 そのリスクに敢えて真正面から向き合った著者の勇気を評価したい。
風呂本惇子 (城西国際大学)

久保文明 編著
『超大国アメリカの素顔』
(ウェッジ選書, 2007 年, 1,470 円)

 本書は, ウェッジ主催のフォーラム 「地球学の世紀」 で行われた報告をベースにした 4 本の論考からなる第一部と, 第一部では扱いきれなかった問題を取り上げた座談会から成り立っている。 編者によれば, 本書を貫くテーマは, 普段つきあっているアメリカから見えてくるアメリカとは違うアメリカを見ていこうとする問題意識である。 本書は, 一般読者向けにアメリカの特質を平易に解説したもので, 日本との対比という視点が常に意識されている。
 「日本からは見えにくいアメリカ」 を際立たせるためには, しばしば 「多民族社会」 としてのアメリカの特質が強調される。 しかし, 本書では, 政治, 軍事, 宗教, そして医療問題に焦点が当てられている。
 政治を扱った一章 (久保論文) では, 政治制度の背後にある理念, とりわけ政治任用制度や日米両国における行政権をめぐる考え方の違いなど, 日米の政治制度が必ずしも対応していないことが強調される。 二章 (江畑論文) では, 地政学的な安全性を持つアメリカが, いかに 「対外 (遠征) 的」 な軍事政策に傾斜していったのか (日本のそれは 「対内的」 とされる), さらにアメリカ社会における軍人の地位の高さ, 「開かれた社会」 でありながら国家安全保障問題に関しては 「秘密」 を許容するカルチャーの存在, またテクノロジー優先の軍事政策など, 日米同盟の緊密さとは裏腹に, その基本理念が大きく異なっていることを明らかにしている。 三章 (森論文) では, 「共通の過去」 を持たないアメリカは, 「神」 を媒介としてナショナル・アイデンティティを共有しているとされ, そのようなアメリカにおける政教分離は, フランス型の公的領域から宗教を排除する世俗主義的な政教分離とは根本的に異なるという。 アメリカのそれは, あくまで国家がある特定の宗教を特別扱いすることを禁止するという意であって, このような政教分離理解は日本には浸透しにくいと論じている。 四章 (天野論文) は, アメリカの医療問題が, イデオロギー論争と政策論争が複雑に絡み合いながら展開している様を丁寧に論じている。 とりわけ, 増大する無保険者の数, 医療費の高騰をめぐる複合的な構造, さらにヒト胚・胚性幹細胞研究問題, クローン問題などが日本とは異なったかたちで展開していることがわかりやすく論じられている。
 第二部は, 座談会形式で主として経済・文化の問題が論じられるが, ここでも市場経済それ自体が守られるべき価値として法や自由と同列に捉えられている点, また公立学校, 公共交通, 公立住宅など, 「公」 が貧困の象徴となっている点など, 鋭い指摘がある。
 本書では, 軍事問題や医療問題という全く異なったテーマが並列され論じられているが, 不思議と違和感はない。 安易な文化論に陥らず, 制度・政策・イデオロギーという視点から 「アメリカの素顔」 に迫った好著といえよう。
中山俊宏 (津田塾大学)

平体由美 著
『連邦制と社会改革──20 世紀初頭アメリカ合衆国の児童労働規制』
(世界思想社, 2007 年, 3,675 円)

 アメリカ合衆国は, 連邦政府が合衆国憲法に明記された権限を, そして州政府ないし人民がそれ以外に留保された権限を有する二元的連邦制国家である。 しかし, 連邦と州の間の権限分割の現状や変更点など形としての連邦制を分析した研究は数々あるが, 連邦制が具体的にどのような影響を政治的社会的変動に与えたのかを説明した日本語の研究は少ない。 そこで本書は, 20 世紀初頭のアメリカ合衆国における児童労働規制に焦点を絞って, 二元的連邦主義が連邦児童労働規制法の成立と実施に及ぼした影響を論じるものであり, 以下の課題に取り組んでいる。 第一に, 児童労働規制を始めとして, 20 世紀初頭に全国的改革となり得たのは何か。 第二に, 児童労働を規制する権限は州にあったが, なぜ連邦規制が主張されたのか。 第三に, 全国的改革はどのように困難なのか。 最後に, なぜ連邦児童労働法の議論が, 児童労働そのものではなく国家の体制の問題になったのか。
 これらを踏まえ, 以下の構成で議論が進められている。 第 1 章では, 児童労働の地域的多様性について概観している。 第 2 章では, 二元的連邦制の下, 全国統一的規制を実現することがどのように困難だったのかを論じている。 第 3 章では, 児童保護のための様々な立法を実現させた最大の圧力団体である全国児童労働委員会 (NCLC) の初期の活動に注目し, 組織内部での州規制派と連邦規制派の対立を通して, 児童労働規制の様々な問題を浮かび上がらせている。 第 4 章では, NCLC の内部で連邦規制派が州規制派を抑えて組織の活動方向を決することになった事情と, 連邦児童労働規制法成立までの NCLC の活動, 及び連邦議会の動向を追っている。 第 5 章は, 連邦児童局の活動と連邦最高裁判所による司法審査を通して, 二元的連邦制が児童保護に与えた影響と限界を議論している。
 これらの議論を通じて, 20 世紀初頭のアメリカ合衆国において, 連邦政府による児童労働規制を議論する際に最大の問題となったのは, 産業化する社会に連邦制をどのように対応させるべきかという, 児童労働とは一見無関係な問題であったことを, 本書は明らかにしている。 20 世紀初頭は改革の時代と呼ばれ, 連邦権限が拡大した時代と理解されているが, 児童労働規制の議論から見えるのは, 第一次世界大戦後の保守化=州への回帰と連邦権限の拡大の否定である。 その後, 1930 年代のニューディール政策, 1950 年代から 60 年代にかけての人種隔離撤廃政策と, 連邦権力は拡張の一途を辿るように思われたが, 1970 年代以降の保守化は連邦権限拡大を阻止する逆コースを見せ始める。 本書は, 20 世紀初頭に連邦制がどのように社会改革をめぐる議論の前提条件になっていたのかを理解するのにきわめて有益であると同時に, 近年の銃規制, 皆保険制, 放射性廃棄物などの社会問題において, 連邦と州の間の権力均衡をめぐる議論を検討する上で重要な示唆を与えてくれるものである。
小野直子 (富山大学)

内田市五郎 著
『ポウ研究──肖像と風景』
(日本古書通信社, 2007 年, 2,940 円)

 文学と図像の境界を自在に横断して読者をエドガー・アラン・ポウの世界に誘い込む, ポウのミステリーばりの本書の魔力には抗えない。 しかも形式に縛られない自由さは<マージナリア>を彷彿とさせる。 ポウは<マージナリア> (書き込み) というジャンルを, 「文学的饒舌による<話のための話>である批評」 より高く評価する。 「読者が, ある思想を表出しようと念入りに書いたもの」 ゆえに, 「新鮮に, 大胆に, 独創的に, 興に駆られて, そして気取らず」, 例えばトマス・ブラウンや 「あの解剖的なバートン」 のように, 「豊富に余白的な趣をもった, 典型的な」 「素晴らしい言い方」 だと。 バートンのいう, 古典的<メランコリー>の典型的な文体の表現だが, これが本書の文体でもある。
 本書を構成する各論文には 「章」 がなく, タイトルのみ。 各論文に付された註, 文献・図版目録の多様な様式も興味をそそられる。 詳細な批評史を試みながらも難しい批評用語は殆ど用いない。 資料と想像力を駆使した緻密なテクストの読みによる実証的論証を進めながら, 不明な点には結論を急がず, 衒いのない潔さを身上とする。
 三部構成の第一部 「肖像画及び肖像写真の研究」 は, ポウの 「盗まれた手紙」 ならぬ 「ポウの盗まれたポートレイト」 の謎解き。 書物で見るポウの 「様々な写真や肖像画」 のうちの 「本当のポウを知る」 ために, 氏は 「直接ポウをスケッチした肖像画」 や 「原版に近い写真」 を求めて旅に出る。 「ポウの自画像」 や, インマン, ピール (息子), オズグッドなど著名な画家たちの描く油絵, 水彩画, 銅版画, クレヨン画, 鉛筆スケッチ, 細密肖像さいみつしょうぞう画が, 肖像画, それにダゲレオタイプなど足で収集した 40 枚近くが本書におさめられ, <ポウのポートレイト・ギャラリー>の観を呈している。 これらの図像と, ポウ作品や伝記, 評論, ポウと親交のあった人々の手紙などを縦横に織り込み, 一枚の布に仕上げる。 見事である。
 第二部 「作品研究」 と 「研究ノート」 の大半は, ポウ生涯のテーマ 「天上美」 の考察に捧げられる。 理想的風景美を描く 「アルンハイムの地所」 を含む 6 篇の散文作品とその霊感源である絵画<妖精の島>を取り上げ, 空想力と想像力を巡るポウの想像力説との関係を論じる。 ただ,“Supernal Beauty”の背景に, ロマン派好みの観念, 即ち氏がポウから引用しながらも問題として取り上げない, “the ideal,” “the ‘Idea of Beauty'” という語が示すネオ・プラトニズムの<イデア>論や, 氏が注目するミルトンも魅せられた, 古典的<メランコリー>論を用いてもよかったのではないか。 だがこれは書評子の勝手な独り言。 そのようなことで本書の価値がいささかも揺らぐわけではない。 ともすれば批評理論や形式に流されがちな私たちに, 批評とは本来何なのかを改めて考えさせる本書は, 一読に値する。 入子文子 (関西大学)

アメリカ文学の古典を読む会 編著
『語り明かすアメリカ古典文学 〈12〉』
(南雲堂, 2007 年, 3,990 円)

 本書は, 2001 年に出版された 『亀井俊介と読む古典アメリカ小説 12』 の第二弾で, いずれも, 亀井氏のもとに集まった二十人前後の気鋭の研究者が, アメリカ文学の 「埋もれた古典」 の中から十二編を選び, その魅力を読書会形式で余すところなく伝えている。 それぞれの作品について, 簡単な著者紹介, あらすじ紹介のあと, 二人ないし三人がまったく違う観点から研究発表を行い, それをもとにして, 参加者全員が自由に討論を繰り広げる。 今回は前回より, この討論の再録に力を入れている。
本書が一般の批評書と一線を画するのは, 先行研究を踏まえて, 何らかの批評理論を援用しながら分析するといったお決まりの手続きをあえて省いていることだ。 その上で, 研究発表は, 斬新な切り口で作品の本質的なテーマを浮かび上がらせ, 討論は, 読んで面白かったか否かという読書の原点に立ち戻って展開している。 亀井氏の狙いどおり 「まず, 第一に作品を味わう」 ことの大切さを読者に実感させてくれる一冊である。
 討論の中で, 圧倒的な存在感のある亀井氏の発言は, 時にマイナスに働き, 時にプラスに働く。 氏の発言によって, それまで出されていた多様な評価が単一なものに集約されてしまう危険性はある。 たとえば, ホーソーンの 『ブライズデイル・ロマンス』 に関して, 一人称の語り手を使った実験的作品として, あるいは書くことに対する作者自身のジレンマを投影したメタフィクションとして, 肯定的に評価する意見が出る。 そこで亀井氏が, 作者自身の目的の欠如ゆえに, この作品は結局 「失敗作」 になってしまうが, その時代の社会の困難さが反映されている点から 「見事な失敗作」 だと結論づける。 この 「失敗作」 という烙印は読者にかなり強烈な印象を残してしまうのである。 ドス・パソスの 『マンハッタン乗換駅』 をめぐる議論の時も似たような展開になっている。 しかしながら一方で, ファニー・ファーンの 『ルース・ホール』 では, 前半かなりお行儀のよい好意的な解釈が並ぶが, 亀井氏が 「この作品はつまらない」 と言い出した途端, 「私も面白くなかった」 と本音を吐露する発言が相次いで出てきて興味深い。 また亀井氏は, スタインの 『三人の女』 に対して辛口の批評をした後, あえて司会に逆の立場から作品を弁護するよう求め, アンダーソンの 『貧乏白人』 では作品への批判が集中したところで, 今度は自分からそれを弁護するというように, 全体的な評価にバランスを取らせている。 本書は, やはり亀井氏という稀代の学者の存在抜きには成り立たないであろう。
 しかし本書全体を通して見ると, 読書会の回数を重ねるにつれて, 特に後半の作品において, 参加者全員で多様な読みの可能性を追求し, 豊かな作品像を浮き彫りにすることに成功している。 討論の再録には膨大な作業を要したと思われるが, こうした多面的アプローチは, おそらく教室でアメリカ文学を学生と読む際にも, 原点に立ち返る深い示唆を与えてくれるであろうという点を特記しておきたい。  
辻 祥子 (松山大学)

高野フミ 編
『「アンクル・トムの小屋」 を読む──反奴隷制小説の多様性と文化的衝撃』
(彩流社, 2007 年, 2,940 円)
常山菜穂子 著
『アンクル・トムとメロドラマ──19 世紀アメリカにおける演劇・人種・社会──』
(慶應義塾大学教養研究センター, 2007 年, 735 円)

 1852 年に単行本化されたストー夫人の 『アンクル・トムの小屋』 は, 「十九世紀最大のベストセラー」 だと言われていた。 だが, 二十世紀になるとこの本の評価は地に墜ち, 主人公 「アンクル・トム」 の呼称も 「アメリカ黒人」 の蔑称へと転化する時期もあった。
 ところが, 1980 年以降になって米国での評価がまた変転する。 たとえばエリザベス・アモンズやジェーン・トムキンズら 「フェミニズム」 の観点に立つ研究者が, ストー夫人などの 「十九世紀家庭小説」 などに対し, これまでにない方向からの読み直しを行なう。 さらに, 「政治・文化史における大衆文学, 黒人, 女性の位置の再定義」 をはかろうとする文学理論などが澎湃として起こり, 「スレイヴ・ナラティヴ」 や 「メロドラマ」 といった 「マイナーな文学的要素」 が新たな視野から取り上げられる。 その結果, 今や 「『アンクル・トム』 はメルヴィルの 『白鯨』 と並ぶ初期アメリカの二大小説のひとつ」 (アン・ダグラス) とまで明言する研究者が現れている。
 日本でもほぼ時を同じくして, 先見性のある研究者たち (佐藤宏子, 荒このみ, 小林富久子など) が新たな角度からストー夫人を論じ始め, 1998 年には 『新訳 アンクル・トムの小屋』 も上梓される。 それに伴って学会誌などでも, 初期の黒人文学や 「スレイヴ・ナラティヴ」 に関する議論がある程度はなされるようになった。 とはいえ, 日本における英米文学研究者の体質もあって, 「アメリカ (文学) 研究の変容・越境」 ぶりが本格的に論議されるにはまだまだ時間がかかると評者は見做していたが, 今年になってその見解を改めるべきだと感じ始めている。 きっかけは, 『アンクル・トム』 に関する斬新な研究書がほぼ同時期に二冊も著わされたことや, 「変容・越境」 そのものが学界などで研究テーマ化されるようになってきたことにある。
 ここでは 『アンクル・トム』 研究が主題なのでそこに的を絞るが, 一方の高野フミ氏を編者とする論文集の方は, 「近年のストー再評価」 (板橋好枝) の上に立って十人の論者が真っ向から取り組んだ力技の研究書で, まことに読み応えがあったと言うべきだろう。 構成は二部仕立てで, 小説 『アンクル・トム』 が提起する五つのテーマ (文学性, 政治的感化力とキリスト教, 北部と南部, 奴隷主たち, ユーモア) を個別に取り上げて論じた第一部と, 十九世紀の文化的社会的状況を視野に入れながら様々な角度から比較考証していく第二部とに分かれている。
 第一部で最も刺激的だったのは, 「奴隷主たち」 を論じた梅垣論文だろう。 コンラッドの 『闇の奥』 と重ねて, 奴隷だけでなく奴隷主たちも 「内なる闇」 を見つめながら 「地獄だ, 地獄だ」 と叫んでいたとする分析は, 作品に対する用意周到な読みがあって初めて説得力をもつ。 そうした読みの裏づけは, セント・クレアとオフィーリアの論争にふれつつ, 父親世代の兄弟関係をまで含めて, 南北のアメリカ白人が共通に内面化している 「階級意識」 の指摘の中に見出せる。 また, 実在の南部農園主の妻メアリー・チェスナットの 『日記』 に依拠して, 南部女性の 「中間的立場」 を注視する読みも手応えの確かさを感じさせる。 だが, ヘンリックやジョージ・シェルビーなど 「次世代の奴隷主たち」 への根拠に乏しい 「希望」 や 「未来」 の表明には, 論者の再考を促したい。
 第二部には, 総じて啓発的なものが多かったが, 中でも 「スレイヴ・ナラティヴ」 と関連づけて 『アンクル・トム』 を位置づけ直し, 「黒人の物語を白人に譲り渡さない」 武器として機能する 「詳細描写」 の重要性を指摘した論考 (野口啓子), またストー夫人の造型になる 「悲劇的な奴隷女性」 キャシー像との対応で, 奴隷制擁護の小説 『アーント・フィリスの小屋』 を取り上げつつ, 南部家族関係の 「乳母 (マミー) 像」 がいかに欺瞞的だったかを明らかにした論考 (山口ヨシ子) など, 論者たちの研鑚ぶりを証する論文からは色々と教えられた。 特に論文集の掉尾を飾る十九世紀の 「ジャーナリズム」 論には, 『アンクル・トム』 研究の新局面を垣間見た気にさせられた。
 ところで 『アンクル・トムの小屋』 には, 単行本の出版とほぼ時を同じくして舞台上演用のヴァージョンが幾つも勝手に作られ, 二十世紀に入ってからも大衆的な人気を博したことはよく知られている。 それらの総称が 「トム・ショー」 だが, その最も代表的な二つのヴァージョン, エイキン版 (1852 年 9 月初演) とコンウェイ版 (1852 年 11 月初演) を取り上げて, アメリカにおける 「演劇と社会」 の結びつきを的確に考察しているのが常山菜穂子著 『アンクル・トムとメロドラマ』 である。 こうした研究書が, アメリカを映しだす 「鏡」 になり始めたアメリカ研究の 「変容」 ぶりは是とすべきだろう。
 なぜならば, ここで展開されているような議論は, 「キャノン (正典)」 を盲信する従来型の作家・作品研究から決して生まれてくることがないからである。 たとえば, 十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて 「アンクル・トム」 が 「トム・ショー」 へと吸収・合併されていくアメリカ文化の様変わりは, 同時期の政治・社会動向と重ね合わせながら次のように分析・裁断される。 「トム・ショーの舞台に登場するアンクル・トムは, 白人がこうあってほしいと願って都合よく作り上げたマイナス方向の理想にほかならない。」 ここには, ジム・クロウ体制に依拠しながら海外進出を謀る帝国主義的な 「国民の創生」 が, 文化史の方向からしっかりと見据えられていると思う。
小林憲二 (立教大学)

2008年04月02日 | アメリカ学会会報