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ICU Teaching Position in Foreign Policy and American Politics[募集終了]
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会報163号

新刊紹介を以下に掲載いたします。

櫻田大造 著
『カナダ・アメリカ関係史
  ──加米首脳会談, 1948~2005』
(明石書店, 2006 年, 4,000 円)

 物語は 1965 年春, ジョンソン米大統領が経験した 「最大の友好国からの 『裏切り』」 (著者) で幕を開ける。 訪米中のカナダ首相ピアソンがジョンソンとの首脳会談前夜, アメリカのベトナム戦争政策批判と見られかねない演説を行ったのである。 両国関係がその結果陥った危機的状況の詳細は本書に譲る。 だがそれは, 長い国境を接する両国が繰り返し厳しい対立を味わい, またそれを克服してきた長い歴史の典型的なひとコマだった。
 いま評者は本書を物語, と呼んだ。 それは著者が, 両国指導者の伝記や無数の歴史的エピソードの集大成として加米関係を描こうとしているからである。 実際, 国家間の関係と指導者間の個人的関係が, DNA のらせん構造のように複雑に絡み合ってきたことがよくわかる。
 本書に登場する加首相・米大統領は 11 人ずつ。 うちカナダ側からは 8 人が第 2~9 各章の主役として登場する。 ただ, 評者にカナダの政治家や歴史へのなじみがないせいで, 各章の対象時期がやや把握しづらかった。 冒頭に両国の関係年表, 少なくとも首相と大統領の対応表が欲しいところである。 不定期な政権交代を避けられない議院内閣制の国 (たとえば日本) の対米関係を論じるうえでは, そうした読者への気配りも必要だろう。
 だが, それを逆手にとってみよう。 本書の脇に A4 版の白紙を 1 枚, そこに 8 つの時期に区切った表を用意する。 サンローラン (1948 年 11 月~) からマーティン (2006 年 2 月~) まで 8 人のカナダ首相と, 対応する米大統領の名を記入する。 本文を読み進めながら, 時期のキイワードや重要な事件を加筆していく。 両国関係の特徴を一望できる鳥瞰図がこうして手に入るわけである。
 著者は, 国力, 世界で演じる役割, 相互の関心などさまざまな 「非対称性」 が, 加米関係を規定するキイワードだとする。 カナダ側はときにそうした非対称性を利用し, 両国間の, そして多国間の紛争解決を図ってきた。 彼らがこれまで絞り続けてきた知恵について知ることは, 超大国と否応なしにつき合わざるをえない東アジアのどこかの国にも, 何らかの教訓を与えてくれるだろう。
 とくに目を引くのは, 全 9 章のうち 4 つのタイトルに付された 「?」 である。 たとえば最も最近の時期を扱う第 8 章は 「成熟した関係を目指して?」 である。 マーティン首相は成熟した対米関係の樹立を目指し, 多くの問題で隣国と共同歩調をとったが, けっして 「親米」 一辺倒ではなく, カナダ独自の立場維持に腐心した。 この時期, 指導者間の関係も両国間の関係も非常に良好だったが, イラク戦争やミサイル防衛問題, 貿易問題などをめぐって軋轢も表面化していた。 「?」 が示すこうした両面性もまた, 加米関係を彩る大きな特徴なのである。
 なお, 同じ著者によるより平易な著書 『誰も知らなかった賢い国カナダ』 (講談社, 2003) も, カナダに興味を持ち始めた, ないし始めつつある方にお勧めである。
松岡 完 (筑波大学)

砂田一郎 著
『現代アメリカのリベラリズム』
(有斐閣, 2006 年, 4,000 円)

 アメリカ社会の根本は自由と平等である。 本書は, アメリカのリベラリズムを一貫して研究してきた著者が, 戦後のリベラリズムの中心をなしてきた団体である America for Democratic Action (ADA) の活動を追いながらまとめた戦後のアメリカ政治史でもあり, また 1970 年代末から右傾化するアメリカの軸足に対する問いかけでもある。
 リベラリズムはアメリカ政治の文脈でどのように変化してきたのか。 著者は現代リベラリズムの原型を, 伝統的自由主義概念とは正反対にあるニューディール・リベラリズムとみなす。 そして, ADA がその中心となる戦後の反共リベラリズムは, 保守主義と共産主義の間の死活的な部分 (ヴァイタルセンター) に政治的空間を確保しようとしたもので, 理想主義と人間への悲観という元来矛盾を抱えたものであったと分析される。 また, 政策提言団体としての ADA という存在自身が, 理念に忠実であるだけでなく, 現実の政策とのバランスを保たざるを得ない難しさも抱えていたと指摘される。
 以下第 6 章まで, 著者は ADA が重要な案件だと判断した議会票決へ立場表明と, 票決だけでは語れない背景を機関紙の内容で補足しながら, ADA の推進するリベラルな議題がアメリカ政治においてどう展開したかを丹念に紹介する。 アメリカ政治史の史料として読み応えのある部分であるが, 時系列で次々と湧き出る情報の波の中で, 読者は個々のデータの意味づけには戸惑ってしまうかもしれない。
 もっとも, それらを少し距離を置いて眺めるならば, リベラリズムが経済成長・反共軍事重視からベトナム反戦を経て再配分重視と非軍事化に転じ, さらに社会的な側面も加わって, リベラルの理念に最も忠実なニューポリティックスへと変化した過程。 そして 1970 年代末以降の保守化と戦う中で, 現実政治として民主党中道への理解を示しながらも, 反対党の核としてリベラルな理念が提示し続けられた過程が実証されていることがわかる。
 その流れを踏まえた第 7 章では, リベラリズム研究者としての著者の深い知見をもとに, 21 世紀アメリカにおけるリベラルの意義が論じられている。 リベラリズムとは与件としての政策体系ではなく, 新たな状況や争点に対応する中から生まれるパターンであるという理解に立ち, ブッシュが 「公共的なものを破壊し, 政府を私的利益に奉仕させた」 行き過ぎを是正しようとする世論を好機に, 今こそリベラリズムが新しい時代にあった新しい政策課題を見出し, 公共善を提示できるのではないかという期待が示されている。
 アメリカは自由の国である。 しかし同時に, 経済的・社会的正義としての平等を重視する国であり, それを実現する上で連邦政府が果たすべき役割は消えていない。 そうした著者の揺るがぬ見解に共感を覚えるのは, 評者だけではあるまい。
大津留 (北川) 智恵子 (関西大学)

藤本茂生 著
『子どもたちのフロンティア
  ──独立建国期のアメリカ文化史』
(ミネルヴァ書房, 2006 年, 3,500 円)

 本書は, 18 世紀末から 19 世紀初頭にかけて, ニューヨーク州オトシーゴ群サスケハナ川上流地域 (クーパーの 『開拓者たち』 の舞台) で子ども時代を過ごした人物の自伝や日記を通して, フロンティアの子ども時代を社会・文化的文脈において歴史的に構築する。 子どもの視点を提供するテクストとして, 主に, リーヴァイ・ビアズリーやヘンリー・ライト─典型的な開拓民の少年時代─の自伝, サラ・フェアマン─上流階層の少女時代─の日記が使われる。
 まず, 本書は, フロンティアの深い森とそこに住む先住民を, 恵みと脅威をもたらす自然, 凶暴ながら魅力的な異文化の人間性をもつ先住民といった両義性な子どもの視点から捉える。 さらに本書によると, この地域の子どもたちは, 独立革命後の多量の開拓民の流入に伴い, エスニシティ, ジェンダー, 社会階層の問題に巻き込まれていた, というのである。 また, フロンティアの子どもが徒弟奉公などの貴重な労働源となっていた事実が取りあげられ, 開拓民は市場経済と深く関わり, 市場価値のある物を生産していた, と論じられている。 つまり, フロンティアでの労働を市場世界の最先端と捉え, 子どもも一翼を担ったとする。 この社会が市場経済に参入できる若者の産出という目標をもっていたことの論拠として, 本書は, プロテスタント倫理的なイデオロギーの盛りこまれた当時の教科書や, ある少年の使った精密な算術用ノートなどを用いて, 説得力のある例証をする。
 さらに, この時期ピューリタン的子ども観がロマン主義的子ども観へと変化しはじめた事例として, ある幼女虐待殺人事件を取りあげ, 過度の鞭打ちの懲罰で子どもを死なせてしまった親の子ども観が議論の的となったことを指摘する。 その一方で, 十代半ばの若者は, 選挙や民兵に通過儀礼的に参加することで, 自他ともに今日とは異なる早熟な年齢意識をもっていたとする。 この意味でフロンティアでは, フィリップ・アリエス風の 「子ども時代」 への囲い込みが確たるものではなかった, と推察できる。 興味深いことに, リバイバル運動で回心した辺境の若者であっても, その結果整備された大学 (神学部) の教育制度を通じて, より上級の牧師, 宗教家の市場に参入していったという, プロテスタント倫理と経済のもう一つの結びつきが指摘されている。
 フロンティアの子ども像は, ワイルダーの 『大草原の小さな家』, トウェインの 『トム・ソーヤーの冒険』 などの文学作品により喚起されることが多い。 これに対して, 本書は, 流動的な時代の流れのなかで, フロンティアの子どもの生活を歴史化し社会・文化的文脈で捉え, これを読者に重層的・総合的に描出することに成功している。 しかし, 難を言えば, 黒人, 先住民の子ども自身にとってのフロンティア社会はどうだったのか, との評者の好奇心は, 結局, 本書のなかでは満たされずじまいだったのは残念である。 思い返せば, ワイルダーやトウェインも, 「他者」 への畏敬の念, 恐怖, 憧れなどの複雑な感情を描いたものの, 結局, コロニアリズムの視点の限界を超えられなかった。 この点については, 今後の研究に期待したい。 吉田純子  (神戸女学院大学)

白井洋子 著
『ベトナム戦争のアメリカ
  ──もう一つのアメリカ史』
(刀水書房, 2006 年, 2,500 円)

 ベトナム戦争に関しては多くの著作や訳書が刊行されてきた。 ただ, 大部分は同時代を対象とするもので, 本書の執筆動機にもなっている, 合衆国史全体の文脈中にベトナム戦争を位置づけることを目的として書かれた著作は, 日本においては従来なかったと言ってよい。 この意味で, ベトナム戦争を通して 「アメリカ」 とは何か, 「アメリカ史をアメリカ史たらしめてきたもの」 は何かを考えさせてくれる本書が刊行されたことを, まずは喜びたい。
 植民地時代・建国期における合衆国先住民の研究も手がけてきた著者の持ち味が発揮されているのが第三章 「アメリカ史のなかのベトナム戦争」 である。 ここでは, 植民地建設から独立戦争・建国期を経て, 19 世紀の西漸運動までの先住民征服の歴史的経験を辿りながら, 「インディアン」 に表象される 「野蛮人」 を 「フロンティア」 に創出し, 「文明」 伝播の使者としてのアメリカ (白) 人の選民意識のもとに膨張主義が正当化されてきたことに 「アメリカ」 的特徴があること。 インディアン戦争で見られた無差別殺戮や焦土作戦が 19 世紀末の朝鮮とフィリピンで繰り返され, そして 20 世紀半ばの 「ベトナム戦争は, まさに現代のインディアン戦争そのものだった」 ことを, 著者は強調している。 ベトナムに関して言えば, ベトナムで農民隔離政策として展開された戦略村が 300 年前のニューイングランドのピューリタン植民地にその原型があること, 戦略村の柵の外は 「インディアン・カントリー」 と呼ばれて 「自由爆撃地域」 となったこと, さらには米兵たちが戦闘の相手を 「インディアン」 と呼んでいたことなどを紹介し, ベトナム戦争はインディアン戦争の歴史的経験が 「国民的記憶」 として生き続けてきたことの証であると述べている点が, 示唆的である。
 ベトナム帰還米兵を扱った第四章, アメリカ各地の戦没者記念碑を中心に 「戦争の記憶」 を対象にした第五, 六章では, ベトナム戦争とアメリカ社会の関わりを論じている。 とくに第五, 六章では, 合衆国において加害的側面が抜け落ち戦争の記憶の置き換えが行われてきたことに言及する一方で, 300 万人のベトナム人死者を刻印した 「もう一つのベトナム記念碑」 制作など, 愛国的ナショナリズムを超えて他者への視点が生み出されている事例も紹介しており, 小さくともベトナム戦争を通してアメリカ社会が変わった点を洞察することが大切だとする, 著者の強い想いが伝わってくる。
 現在, イラクの現状をふまえ, 合衆国のあり方が問われ, 「ベトナムの教訓」 が改めて想起されている。 そこで, 戦争を知らない若い世代が今一度 「アメリカ」 を考える機会を持つためにも, ベトナム戦争に関して合衆国の巨視的な歴史的文脈から論じた本書が広く活用されることを, 評者としても望みたい。
藤本 博 (南山大学)

今村楯夫 編著
『アーネスト・ヘミングウェイの文学』
(ミネルヴァ書房, 2006 年, 3,500 円)

 豪華な執筆陣を揃えて, 質量共に充実している本書は, 「ヘミングウェイの世界」 「ヘミングウェイとアメリカ作家」 「ヘミングウェイと FBI ファイル―ファイルの空白に見る隠された素顔」 「ヘミングウェイと日本作家」 という 4 部を構成するタイトルが示唆するように, 最新の研究成果を取り込んで, ヘミングウェイ文学の, 従来の相貌を超えた全体像を提示することに成功している。
 「読み直されるヘミングウェイ」 (前田一平) という優れた導入論文によって, 伝統的な 「マッチョ」 像を解体した重要なヘミングウェイ批評の流れを概観した読者は, ヘミングウェイ批評の基本的なテーマである 「アフリカ」 (比嘉美代子), 「戦争」 (島村法夫), 「フォト・ジャーナリズム」 (長谷川裕一) についての手堅い論考によって, まずヘミングウェイ文学のアイデンディティをしっかり確認できる。 第 1 部で出色の出来映えは, 『持つと持たぬと』 (1937) を 「キー・ウェスト小説」 として読み, 作家とキー・ウェストとの関係を分析した宮本陽一郎論文と, クイア文学という先端的な可能性をヘミングウェイ文学に拓いてみせた谷本千雅子論文だろう。 異色で刺激的なのは, 『日はまた昇る』 のコーンとジェイクの身体の傷痕を国家という身体に結び付けた新関芳生論文で, 啓発的な労作は, ヘミングウェイとセザンヌとの関係を, 従来よりも大きく踏み込んで解き明かした小笠原亜衣論文である。
 第 II 部は, ヘミングウェイを同時代の位相で, フォークナー (平石貴樹) とフィッツジェラルド (上西哲雄) との関係から考察した論文と, アメリカ文学史の系譜の中で, トウェイン (後藤和彦), ソローと T.T.ウィリアムス (伊藤詔子), カーヴァーを中心とした現代作家 (柴田元幸) との間テクスト的な強度を究明した論文で構成されている。 ヘミングウェイを環境文学の視野におさめた伊藤論文も, 本書の成果の一つである。 各論考は, 執筆者の個性豊かな洞察と博識が時に過剰なほどにじみ出ていて, ヘミングウェイ文学を相対化する眼差しを提供し, 本書の多面的な価値を高めている。
 第 III 部は, ヘミングウェイ協会の若手 20 名の FBI ファイル解読プロジェクト・チームが, 127 頁に及ぶ公開資料を読み解き, その結果をまとめた報告論文 (高野泰志) で, 「被害妄想」 という通説を超えて, 作者晩年の精神的落ち込みには, 実は FBI の追尾が大きく作用していた可能性を開示した貴重な実証的研究である。 もし, ヘミングウェイの近くで急進的な姿勢を強めたドス・パソスとの交友関係に関するファイルが使えるのであれば, さらに闇の部分が見えてくるのではないかという期待を持たせる大きな成果である。
 第 IV 部は, 小川国夫の肉声を引き出したインタヴューと, 詩人・飯島耕一を 「戦後の<原風景>」 という視角から解説した優れた資料で, 比較研究の豊かな可能性を探求しようとする編者の意欲がみなぎっている。 巻末の千葉義也編の丁寧な 「ヘミングウェイ基本文献」 や索引も, 本書の誠実なつくりに貢献している。
田中久男 (広島大学)

小林富久子 著
『ジェンダーとエスニシティで読むアメリカ女性作家──周縁から境界へ』
(學藝書林, 2006 年, 2,940 円)

 アメリカ女性作家に関する広範な研究にとどまらず, 特にアジア系文学研究で先駆的役割を果たしてきた著者が, フェミニズム批評に対するバッシングがある中, その意義を今一度読者に問いかける試みが本書である。 多民族国家アメリカでは人種・性・階級において無数の境界が存在する。 そこに複雑で多様な主体意識が生まれ, 独自の豊かな文学が産み出されてきたことを, フェミニズム批評の立場から再検証した意欲作である。
 三部八章からなる本書が取り上げる作品は, 時代は 19 世紀半ばから 20 世紀末, 人種は白人・アフリカ系・アジア系を含み, 階級も中産階級・労働者階級双方を扱うという具合に多岐にわたる。 第一部では, 19 世紀の 「家庭崇拝」 のイデオロギーに対して, フラー, ストウ, レベッカ・ハーディング・デイヴィスらがいかに立ち向かったかについて 「労働文学」 も含めて考察される。 第二部第四章では, ケイト・ショパンとゾラ・ニール・ハーストンを比較して論ずることで, ショパンのヒロインが最後に自滅へ向かうのに対し, ハーストンは多様な 「境界」 に立って生き延びる能力を持つ複雑な主体を産み出したと高く評価している。 エリカ・ジョングを論じた第五章も興味深い。 アジア系女性作家を論じた第三部では, ヒサエ・ヤマモト, カレン・テイ・ヤマシタら日系作家, および 「新移民」 のトリン・ミンハとテレサ・ハッキョン・チャの分析を中心に, 多文化を越境する複雑な自己形成の問題が論じられる。 いずれの場合も, 理論の枠組みを超え, 著者は作品に寄り添いながら精緻な読みを展開し, 作品内部からフェミニズム批評を実践していく。
 この幅広い射程を一つに纏め上げているのが 「境界」 の概念である。 著者は女性作家を, 男性優位文化の周縁に置かれて様々な対立概念の 「境界」 上に立ち, 双方の世界を行き来することにより, 各領域の 「境界」 の区分を曖昧化する存在として位置づける。 この 「境界」 上に在る女性作家の作品を考察し, テクストに内在する政治性や権力作用の奥深くに踏み込むことによって, 各々の文学形式にも肉薄しうると著者は述べている。
 ポストモダンと呼ばれる今日, 著者は 「自身の内と外にある多様性と流動性にもオープンであり続け, さらに共同体との結びつきをも重視しうるといった, 新しい種類の主体意識をどのように思い描きうるかを考えること」 が重要だと考える。 主にこの観点から著者は各小説を考察・評価しており, 特に第三部のアジア系女性作家ではこの主体形成の問題が詳細に論じられる。
 日本におけるフェミニズム文学批評の先達である著者の力強い論考を読むことは, その批評の歴史を辿ることにもなる。 本書は, 作品の出版年順からなる章立てに沿って読むのみならず, 基になる論文の初出年順に読んでいくと, フェミニズム批評の推移が窺えて興味深い。 また筆者の興味の在りようの変遷は, そのまま日本におけるアメリカ女性作家の受容の歴史を垣間見る醍醐味に繋がる。 本書は 「二重の読み」 が可能な豊かな重層性を包含している。 そこに一貫して響く著者の声に励まされる読者も多いことだろう。 本書から学ぶことは非常に多い。
作間和子 (東京女子大学・非)

山下昇・渡辺克昭 編
『二〇世紀アメリカ文学を学ぶ人のために』
(世界思想社, 2006 年, 2,300 円)

 E. Elliot 編コロンビア版 『アメリカ文学史』 (1988) の精神を継承しつつ, 日本の学生の実情を配慮したとする本書は, 総勢 20 名の気鋭の研究者による新たな文学史読み直しの作業である。 「時代性」 (第 1 部), 「多文化主義」 (第 2 部), 「ジャンルの多様性」 (第 3 部), そして文学の 「越境」 (第 4 部) をテーマに, 大きな時代の枠組みと個々の作品の面白さを充分に伝えつつ, 編者の山下昇 (以下敬称略) が著すように, 「二〇世紀アメリカ文学の見取り図」 を描くことが本書の目的である。
 その第 1 部では, まず大井浩二が 「二〇世紀文学の幕開け」 をトウェイン, ドライサーらを例に, 長谷川裕一が 「モダニズム」 をヘミングウェイとフィッツジェラルドを例に論じる。 また, 花岡秀は 「ニューディール期」 の文学をフォークナーとコールドウェルから, 竹本憲昭は 「戦争」 と文学の関係をオブライエンの描くベトナムを例に論ずる。 そして, 渡辺克昭はエリクソンの作品から 「ポストモダニズム」 を分析する。 いずれも社会的文脈のなかで, 多くの作品紹介とともに, 個々の作家・作品の魅力を捉える好論である。
 第 2 部では, 「女性文学」 を辻本庸子が, 「アフリカ系」 を戸田由紀子が, 「ユダヤ系」, 「先住民」, 「アジア系」 をそれぞれ杉澤伶維子, 室淳子, 桧原美恵が論じる。 これらの論考では第 1 部同様, 先ずジャンルの特質と主要作品が社会・文化的背景とともに概観される。 そして, オコーナー, モリソン, ロス, シルコウ, オカダらを取り上げた精力的な読解がそれに続く。 伝統的な文学史と異なり, 個々の作品の魅力を余すところ無く読者に伝えるのが本書の大きな特徴だ。
 「批評理論」, 「現代詩」, 「現代演劇」, 「映像文学」, そして 「環境文学」 と近年注目を集めるジャンルを扱うのが第 3 部。 順に里内克巳, 長畑明利, 貴志雅之, 西谷拓哉, 伊藤詔子が筆を執る。 先行する二部に比べ, ジャンルの説明に多くの紙面が割かれ, より広範な作品紹介を通じ, 各ジャンルの特性を明確にするスタイルが印象に残る。 多様な価値観とそれを含有する新ジャンルの妙を存分に味わうことのできる論考が続く。
 そして, 三杉圭子が 「クィア文学」 を, 山本伸が 「カリブの文学」 を, 野間正二が 「村上春樹とアメリカ文学」 を論じ, 柴田元幸が翻訳論を展開するのが第 4 部。 ここまで来るとこれがアメリカ文学史なのかと疑わしいほど, アメリカ文学の変貌は著しい。 対象がセクシュアリティーやポストコロニアルな空間であろうと, 翻訳文学や日本の現代作家であろうと, アメリカ文学はそこここに姿を変え遍在している。 英語に訳されたムラカミを, アメリカ文学と呼ぶ時代もすぐそこまで来ているのだろうか。
 このように多様な視点から 20 世紀アメリカ文学を再構築する本書は, 姉妹編 『冷戦とアメリカ文学』 (2001) と併読するといいだろう。 巻末に付された文献案内の解説もわかりやすく, 多くの読者層に配慮した内容である。
麻生享志 (早稲田大学)

矢口祐人・吉原真里 編著
『現代アメリカのキーワード』
(中公新書, 2006 年, 1,100 円)

 本書の帯には, 「21 世紀の世界を考えるための小事典」 とある。 アメリカ合衆国が世界に及ぼす影響力の大きさを暗示することばである。 しかし, 「アメリカのことが好きだろうが嫌いだろうが, アメリカと無関係でいることは, 世界のどこの人間にももはや不可能」 な時代に生きているにもかかわらず, 日本に住む我々に日常的に入ってくるアメリカ情報が, 実に断片的で偏っていることは, この国の政治, 経済, 社会, 歴史, 文化等の研究に携わる者ならば誰でも意識せざるを得ないだろう。
 本書は, その断片的な情報ピースの隙間を補い, 「日本におけるアメリカ理解をより深く, また, 幅の広いもの」 にしようとする試みである。 本書で取り扱われる 81 のキーワードの中には, 日本ではあまり馴染みないものも多いが, いずれも全体を通じて現代アメリカの姿を浮かび上がらせるために, 注意深く選ばれている。
 例えば, 「21 世紀の政治家」 という項目では, ヒラリー・クリントン, コンドリーザ・ライス, アーノルド・シュワルツェネッガーと共にバラック・オバマが取り上げられている。 他の 3 人と比べれば, 日本国内での知名度は数段劣るが (本書が出版された 2006 年 8 月の時点では, なおのことそうだったはずだ), 2008 年大統領選挙における民主党候補の有力な一角として浮上してきた彼が, 同じく民主党有力候補で, 日本での知名度も抜群のクリントンと並べられているところに, 本書のスタンスが良く表れている。 日本国内に住む我々は, 意識しないまま一種のフィルターを通してアメリカに関する情報を享受しているのだが, 本書はそのフィルターに風穴を開けてくれるのではないか。
 各キーワードは, 16 のカテゴリー (経済, 政治, 著名人, 社会問題, セックス&ジェンダー, メディア, スポーツ, 芸術, マイノリティ&人種, 教育, 戦争と平和, 生活, 国際関係, 労働, 宗教, 環境) の下に分類されているが, それぞれが複数のカテゴリー下に置かれている。 「スポーツ・ユーティリティ・ヴィークル」 (日本では RV 車) というキーワードは, 「経済」, 「社会問題」, 「生活」, 「環境」 のカテゴリー下にあるが, エッセイでは車体の特徴に始まり, SUV と中東問題の関係, 軍事用ジープにルーツを持ち, 政界と産業界の根深い癒着のもとで発展してきた SUV の歴史が論じられ, 9.11 後, 愛国心の象徴となった SUV の政治的位置づけがなされる。 わずか 5 ページ弱の中で, SUV を通してアメリカの経済, 環境保護, 外交政策までが複眼的に論じられている。 このように, キーワードの表面的な解説に留まらない, 重層的な分析・考察が本書の特徴である。
 新書というコンパクトな作りながら, 各項目がクロスリファレンスされ, キーワード同士の関連性もつかみやすい。 各項目の最後には参考資料や関係の URL も掲載され, 索引も充実しており事典としての有用性は高い。 一方で, 次々と新しい情報が飛び込んでくる点で, 本書は 「事典」 であると同時に, 純粋に読む楽しみも味わえる。 通読すれば, 各キーワードやその論考が結びつき, 知らなかった/見えていなかったアメリカの姿が浮かび上がってくる。 アメリカ合衆国に興味を抱く者にとって価値ある一冊である。 高橋美知子 (長崎外国語大学)

2007年05月15日 | アメリカ学会会報