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会報162号

新刊紹介を以下に掲載いたします。

新刊紹介

北米エスニシティ研究会 編
『北米の小さな博物館──「知」 の世界遺産』
(彩流社, 2006 年, 2,000 円)

 本書は, 北米に関するさまざまな分野の研究者たちが, 各自の研究とかかわりの深い博物館を取り上げたもので, 全米各地の約三十の施設が五つのテーマに分類されている。
 第一章 「障壁を乗り越えて:性, 人種, エスニシティ」 では, 公民権運動の重要な舞台となったセントラル高校国定史跡や性解放の象徴というべきセックス博物館などが紹介されている。 続く第二章 「連帯する女性たち:社会改革ネットワーク」 では, セネカ・フォールズの女性の殿堂をはじめとして女性の足跡を印した施設が取り上げられ, 第三章 「社会や文化の語り部として:生命の響きの記憶から」 では, 文化史・社会史と接点を持つ博物館の事例として, 国際外科学博物館やヴェトナム戦争時代教育センターなどが言及されている。 第四章 「東の扉から:自由の女神と移民」 では, エリス島移民博物館やウクライナ・ヴィレッジなど, ヨーロッパからの移民にまつわる博物館が, また, 第五章 「西の扉から:金門橋と移民」 では, 全米中国人歴史協会やジェローム強制収容所跡など, 主として東アジアからの移民とかかわりの深い博物館が取り上げられている。
 多くの事例が, 多文化主義, マイノリティ研究やジェンダー研究など, 昨今のアメリカ研究の重要な関心に沿う形で幅広く選ばれており, 従来の白人男性中心的な視点とは一線を画す視点から過去と現在との対話を活性化しようとする試みが, アメリカでどのような広がりを見せているのかを把握するにはとても便利である。 各施設のホームページや推奨関連文献が記載されているのも, 読者にはありがたいことだろう。
 純然たる専門的記述に終始することなく, その一方で, 旅行案内的な内容にとどまることもなく, 「小さな博物館」 という媒体を通じて, 専門的なアメリカ研究と世間一般のアメリカに対する見方との間の橋渡しをしようとする本書の姿勢には共感する。 もっとも, 紹介されている施設の中には, アメリカにかなり詳しい人でも知らないであろう博物館や, 一般の旅行者にとっては行きにくい所も少なくないが, 個々の博物館に対するそれぞれの書き手の思い入れが十分伝わってくるので, アメリカに関心のある人なら, 必ずや興味をそそられることだろう。
 博物館という公共財をどのように活用すべきか, また, 過去をどう語り継ぐべきかといった課題は, 現在の日本社会にとっても重要である。 博物館展示がパブリック・メモリーの研究において重要な研究対象として浮上し, 日本でも歴史認識の問題が社会的争点となってきている今日, このような本が出版されたのは喜ばしいことである。
鈴木 透 (慶應義塾大学)

大西直樹・千葉 眞 編
『歴史のなかの政教分離
  ──英米におけるその起源と展開』
(彩流社, 2006 年, 2,900 円)

 政教分離とそれに関連する諸主題をめぐる共同研究の成果として刊行された本書は, 本論に 12 篇の論考を収録した多彩な論集である。 歴史研究という点では, 本書は当該の主題を初期アメリカと同時代の西欧とをともに視野に入れつつ把握しようとする一方で (特に I 章岩井淳論文, III 章小倉いずみ論文), 現代の問題としての政教分離にも論及している。 加えて, ロック, トクヴィルの議論を振り返る章も含んでいる点で (V 章山岡龍一論文, Ⅷ章原千砂子論文), 思想史的な関心も踏まえた構成になっている (がこの 2 篇について, ここでは残念ながら言及する余裕がない)。
 以下, 紹介者が理解できた範囲での本書の論点をいくつか指摘する。 初期アメリカ史との関連では, 政教分離の前史としての公定教会制の諸例とその例外や変容, また憲法修正第一条における連邦レベルでの公定宗教の禁止 (すなわち公定宗教をも含みうる諸々の宗教政策の実施は各州の判断となる) についての検討がいくつかの章でなされている (IV 章佐々木弘通論文, VI 章齋藤眞論文, VII 章大西直樹論文, XII 章千葉眞論文)。 一方, 名誉革命後のイングランド教会の公定教会としての存在が, 齋藤論文と岩井論文において指摘され, 岩井論文は公定教会体制化における 「信教の自由」 の実現過程についても言及している。 公定宗教の問題はそれが廃絶される米国の文脈では注目されることはなくなるだろうが, 国教会という公定教会の英国その他のヨーロッパ諸国における存続は政教分離を考える上ではやはり無視しえず, 象徴天皇制をめぐる議論においても参照されるべきだろう。
 一方, 独立革命やリヴァイヴァルとの関連において, 政治から排除された女性が宗教的に大きな役割を担っていき, さらに 19 世紀には教会を通じて社会活動を展開し, 独自の政治文化を構築していった (がその後, 教会の体制内に回収された) ことを指摘する小檜山ルイ論文 (IX 章) をはさんで, 巻末には特に現代的な関心にかかわる議論が続く。 すなわち, 20 世紀初頭以降のファンダメンタリズムの展開をたどる増井志津代論文 (X 章), ワシントン州が大学進学のための奨学金プログラムの設置に際して (1999 年), 神学専攻志望者を対象外としたことをめぐる訴訟 (最高裁判決は州の制度は違憲ではないと判断) を論じた安部圭介論文 (XI 章), 多くの論点を概観し現今の宗教右派による政治権力へのイデオロギー的支援を問題視した千葉眞論文 (XII 章) である。 千葉論文は, 支配権力を批判する公共的神学者の不在を指摘しつつ, 公共神学のみならず公共哲学の構築の必要性を説くが, 森本あんり論文 (II 章) がロジャー・ウィリアムズ (とハンナ・アレント) に即して言及していたのも公論喚起という課題だった。
 森本論文中の一節─「信教の自由」 は, たんに嗜好の自由を宗教へと特化させた選択の自由と同義ではなく, 「政教分離」 は, たんに 「政治」 と 「宗教」 とを分離すれば容易に達成できる事態ではない─が示すとおり, 問題は浅薄な要約を許さない。 各章を再読することにより, 読者は本書が扱う問題圏の射程の広がりを再認識することになるだろう。 奥山倫明 (南山大学)

鎌田 遵 著
『「辺境」 の抵抗
  ──核廃棄物とアメリカ先住民の社会運動』
(御茶の水書房, 2006 年, 3,800 円)

 ニューメキシコ州にグランツという町がある。 20 世紀に周辺でウランの埋蔵が確認されたのをきっかけに, 経済的に繁栄した町である。 しかし光は同時に闇を生んだ。 繁栄は周辺の先住民居留地を核問題と隣り合わせにしてきたからである。 先住民共同体はこうして核産出の一端を担わされる一方で, 今度は核廃棄物の引取りをも押し付けられようとしている。 本書はまさにこの核問題をめぐる環境正義 (environmental justice) を問う書である。 石山徳子著 『米国民と核廃棄物─環境正義を巡る闘争』 と共に, アメリカ国家による先住民共同体の生命破壊の深刻な現実を日本の読者に語り伝える良書と言えよう。
 まず注目すべきは, 本書を貫く著者の語りのスタンスである。 鎌田氏は, 「自分の経験を軸にした」 「すくなからず主観的になっている部分」 を含む 「こうした個人的な経験こそが, わたしの研究のもっとも根底に流れているものであり, 共有されるべき知識の一部であるとも考えている」 と明言する (63)。 事実を正確に探る一方, 収集した活字情報をその共同体の人々の生きた声と融合させていくこの主観的な知の体系化は, 環境文学でいう 「ナラティヴ・スカラーシップ」 にも通じる, 学問の新しい語り方である。
 核廃棄物誘致事業をめぐって同じ部族が反対派と賛成派に分かれ, 内部から分裂するニューメキシコのメスカレロアパッチ族の共同体。 カリフォルニア州東部モハベ砂漠の聖地ワードバレーに低レベル放射能廃棄物処分場の建設計画が浮上したとき, 水源を守ろうと必死に抵抗したモハベ族などコロラド川沿いの先住民部族共同体。 著者はそれぞれの計画の賛成派と反対派のリーダーに面談を挑み, 自らの感性と知性をフィルターとして, 直接対話から 「真実」 を抽出しようと試みる。
 先住民にとってかけがえのない生活の場がいかにして 「辺境」 となり, あたかも生命なき空間のように処遇されるに至ったのかという経緯と, 闘い続ける部族の現在を読者に訴えるとき, 鎌田氏は一貫して 「辺境」 に立脚して語る。 「辺境」 の現場の声を誠実に聞き届けようとする深い友情と, 緻密な調査と分析に裏打ちされた説得力あるその語りを読むうちに, モハベ砂漠および様々な先住民居留地への核廃棄物処理場計画とアメリカ国家の敵対関係と共犯関係についての 「情報」 は, 「理解」 へと深められる。
 それにしても, 連邦政府と州政府による先住民自治政府の無視, 部族の貧困を利用した補償金作戦, すなわち 「辺境」 を生産する歪んだ民主主義の構図が, いかに国境を越えて私の住む沖縄にも存在しているか, 本書を読むと再確認できる。 第 10 章 「辺境に生きる」 にあるように, 「ちいさな部族」 は, 他の部族や市民団体との大きな連帯を強めていく必要がある。 日本人である鎌田氏が, 先住民の痛みを自らのものとして共に悩み, 共に喜び, 平和と平等のビジョンを共有して歩む姿に, 異文化共闘の未来像が見えてくるような気がした。
喜納育江 (琉球大学)

緒方房子 著
『アメリカの中絶問題──出口なき論争』
(明石書店, 2006 年, 4,200 円)

 女性史・ジェンダー研究を牽引してきた著者の 20 年近くにわたる研究をまとめたものである。 前半は妊娠中絶を合法化した 1973 年のロウ判決以降, アメリカ連邦最高裁判所が保守化する姿をウェブスター判決 (1989) やラスト判決 (1991) における判事の評決を軸に追っている。 そこで強調されるのは, 判事が握る社会的政策決定権大きさであり, またアメリカ史上初の女性判事オコーナーの保守から中道への転換にみられた最高裁判所のバランス感覚であった。 さらに, 最高裁に圧力をかける草の根活動家たちの組織力と政治力, そして, 一般市民の声の大きさであった。 それは, 著者自ら, 草の根運動の源をさぐる新たな視点となっていった。
 1995 年, アメリカ政府のインターナショナル・ビジター・プログラムで, 著者はプロチョイス, プロライフの活動家をたずねる旅をする。 本書の中核をなすのは, 95 年以降の現地取材の臨場感である。 著者のインタヴューを通して, 活動家たちの生の声で, その譲らない主張が展開され, 各団体の性格が炙り出されていく。 著者は一貫して, 中絶を安易な宗教対立として, 片付けてはならないと主張する。 カトリック教会におけるプロチョイス運動の歴史とその動向を伝えた章はその点で大きな意義がある。 女性の身体を支配しようとする古いライフスタイルこそが隠れた争点なのであり, 中絶論争の裏にある, 解放された女性を阻む力から目をそらせてはならないという視点を明確にしている。 出産にたいする女性の自己決定権をもとめてきた権利運動としての中絶問題を忘れてはならないという視点である。 著者のこの思いと長年この研究に携わってきたことを何より物語っているのは, プロチョイスの活動家, 全米中絶生殖権行動連盟会長ケイト・マイケルマンのコメントだろう。 「あなたのように研究している人とか, われわれのような組織で活動しているひとでなければ, 普通の人は中絶に関する議会の動きなんか知らない。」 中絶をめぐる動向の研究者にこれほどの賛辞はないだろう。
 90 年代の保守化の攻防を刻々と追ったドキュメントは, 古さを感じさせず, むしろ 9.11 以降, 中絶問題から関心が遠のいている現状と, 多様化を拒む今日の風潮を際立たせた。 後半の今日の中絶医療を伝える章, 部分出産中絶禁止法の成立 (2003) の背景, ステムセル研究の動向, そしてブッシュ大統領による保守派最高裁判事の任命に言及して終わる最終章をもって, 中絶問題にはいまだ出口がみえないと著者は結論を出した。 ジェンダー研究が叫ばれる中, 男性や社会のあり方を包み込んで中絶問題を考えるのではなく, あくまでも女性対胎児のせめぎあいに終始する議会, 裁判所, 大統領そして活動家たちの姿はアメリカ社会の何がみえるかを本著で問うたという著者の目的を見事に達成しているといえるだろう。
杉山恵子 (恵泉女学園大学)

増井志津代 著
『植民地時代アメリカの宗教思想
  ──ピューリタニズムと太西洋世界』
(上智大学出版, 2006 年, 2,400 円)

 本書は著者の 15 年にわたるピューリタニズムの論文 7 本に新たに 2 章を書き下ろし, 「付記」 2 編と共にまとめたものである。 ピューリタニズムは 1930 年代, ペリー・ミラーによりいわば再発見され, それまでの不寛容で抑圧的なイメージから一転, 理性主義のもとでアメリカの思想のまさに根源であると考えられるようになった。 しかしこのミラーの影響力があまりに強く, 一枚岩的なシステムとして受け止められがちであった。 その後, 1970 年代以降の新しい社会史の興隆により, 近年アメリカにおいてはピューリタニズム理解の多角的再構築がなされているものの, その成果が日本のピューリタニズム研究に反映されることはあまりなかったのが実状である。 本書はその動向を踏まえ, 包括的かつ多面的なピューリタニズム像を日本語で描き出すという画期的試みの成果である。
 まず著者はピューリタニズムを 「運動」 であると捉え, その個人的, 地域的な多様性に注目する。 これはミラー以降の, ピューリタニズムとアメリカのナショナル・ヒストリーとの同一視からの脱却である。 第 1 章ではピューリタニズムが新大陸に進出する過程を概観し, 第 2 章ではピューリタニズムとヨーロッパ大陸宗教改革との関係をとくにスイス改革主義の国際的展開の一環として描き出す。 また第六章ではジョナサン・エドワーズの教会を中心とした第一次大覚醒運動とその際の環大西洋, 植民地間交流を描く。
 ピューリタニズムにはしかし正統教会内部での変容もあったと著者は指摘する。 第 4 章ではボストン第三, 第四教会の創立をめぐり, 第二, 第三世代が新しい商人層を巻き込み, 都市化に合う新たな方法で第一世代の功績を取り入れていくさまを描く。 第 5 章では時代で定義の変わる回心体験を考察し, 回心中心的福音主義とリヴァイヴァルとの関係を考察する。 第 8 章では大衆伝道者ジョージ・ホィットフィールドが環大西洋福音主義文化と呼ぶべき新たなアメリカ的プロテスタンティズムを成立させた過程を描き出す。
 ピューリタニズムは歴史研究だけでなく文学研究, 思想史研究においても重要なテーマだが, 著者はその目配りも忘れない。 第 7 章ではエドワーズの回心体験ナラティヴを文芸批評的アプローチで分析する。 また第 3 章ではハーヴァードの創立を取り上げ, 聖書研究と異教徒の古典教育との緊張関係が初期アメリカの知的文化に影響を与えたさまを描く。 さらに第 9 章では 18 世紀啓蒙主義と大覚醒運動の関係を取り上げ, 自然豊かなアメリカで両者が相互依存的に発展したことを指摘する。
 以上の複眼的視点からの学術的論考に加え, 「付記」 のアメリカでのピューリタニズム研究史と, ケンブリッジ第一教会のステンド・グラスの変遷をめぐる都市化についてのエッセイも興味深い。 日本のピューリタニズム研究に新たな地平を与えるだけでなく, 初期アメリカ研究の多様な魅力を伝え, 後進の目標・励みとなる好著である。
荒木純子 (青山学院女子短期大学)

森本あんり 著
『アメリカ・キリスト教史
  ──理念によって建てられた国の軌跡』
(新教出版社, 2006 年, 1,700 円)

 例えば以下のような質問を学生から受けたとき, 即座に答えられる日本のアメリカ研究者はどのくらいいるのだろう。 1.政教分離の原則から見たプリマス植民地とマサチューセッツ湾植民地の相違。 2.ユニテリアニズムの知的伝統。 3.冷戦とキリスト者。 いずれの質問もキリスト教の信仰に触れる問題だが, アメリカ史の問いとしてはかなり基本的な問いに入る。 しかし, 例えばアメリカにおける人種やジェンダーの問題に関する理解と比較した時, 上に挙げた問題に関する我々の理解は驚くほどに狭く浅い。 それらの問題にはアメリカ人の研究者が良い研究書を出しているから, それを読めばよいのであり, 我々はもう少し判りやすい問題からアメリカに接近したい。 そういった言い訳を少なくとも私は準備している気がする。
 日本のアメリカ研究には著しい偏りがあり, その一つが 「アメリカのキリスト教」 という主題への敬遠だと本書の著者, 森本あんりは主張する。 その通りだと思う。 研究すべき課題としての宗教となると, 修験道やカルトのような非日常的な世界をまっさきに思い浮かべ, 日々の生活のリズムと化した宗教倫理と政治の繋がりなどに思いが至らないことがそもそも問題なのかもしれない。 けれどもアメリカのキリスト教はそれほどに思弁的な存在ではなく, もっと日常生活に寄り添った, 柔軟な存在であるらしい。 それ故に大衆の心に届き, 土着化し, 逆に抜き差しならないパローキアルな世界像を生み出しもする。 普遍宗教の名のもとに植民地主義の一端を担ったアメリカのキリスト教など苦労して研究するに価しないと批判する者も少なくない。 現職の大統領を含む 「ボーン・アゲイン・クリスチャン」 の言葉に首を傾げ, 「だからアメリカはわかない」 と匙を投げたくなる気持ちもわかる。 しかし, アメリカのキリスト教という主題を避けてはアメリカのうちの大切な一部分を我々は理解できない。 第二次世界大戦後, 占領軍司令長官となったマッカーサーが人類の平和における 「問題の本質は神学的である」 と語ったという。 このエピソードを本書を読むまで私は浅学にして知らなかった。 21 世紀に入ったアメリカの世界像にそうした陰影がまだ残っているのか否か予断を許さぬ時代に我々は生きているが, それだけに, アメリカのキリスト教という主題に今一度向かい合う知的勇気が試されている。 本書を読んでそう思った。
 わずか 182 頁の紙幅に植民地開設から 「9.11」 までを 12 章に分けて収め, アメリカ史とキリスト教史を交差させた力業を高く評価したい。 9 章までが南北戦争以前の時代に割かれている点が本書の特徴の一つだが, そこに, アメリカがアメリカに 「なってゆく」 過程を知ろうとしない者に今日のアメリカの底流を理解することはできないという著者の思いが滲む。 平易な言葉で綴られたアメリカ・キリスト教の通史として強く推薦したい。
遠藤泰生 (東京大学)

池内靖子・西 成彦 編著
『異郷の身体
  ──テレサ・ハッキョン・チャをめぐって』
(人文書院, 2006 年, 2,600 円)

 支配言語を, 過剰かつ不実に 「書き取る デ ィ ク テ 」 ことで再占有化する言説行為, その行為遂行としてのテクスト。 アジア系にとってはすっかり 「カルト・テクスト」 となった感のある 『ディクテ』 だが, 『異郷の身体』 は, このチャの代表作をめぐる日本で初の本格的論集である。
 本書でまず目を引くのが, その国境横断的な執筆陣である。 アジア系を代表する研究者エレイン・キムとリサ・ロウの古典的論考の邦訳に加え, 日本および在日韓国・朝鮮の執筆者 7 人による論文と随想, さらには韓国研究者, 李貴雨の包括的な 『ディクテ』 論 (和訳) を交える本書は, 「日本」 言語圏にとどまらず, また従来の日米 2 国間で完結する形態も再構成する。
 本書はまず序章において, 編者池内靖子による日米それぞれの代表的先行研究への位置づけを示す。 以後, 全 7 篇の論文に 3 篇の随想を織りまぜつつ本書が追うテーマは, 「語る女」 の系譜とその (非) 言語を媒体とする声の運搬, 帝国支配と 「異語の習得」, またその過程に生じる 「身体の器官そのものに変容を強いる」 (金友子) 暴力性や身体言語, 「言語」 と 「非言語」 の境界としての発話行為など複数に交錯する。 なかでも, 表象行為における 「模倣的照応関係」 の枠には収まらない未決定性の, 「不安を生み出すような痕跡」 として同書を解析するリサ・ロウの論考や, 『ディクテ』 における発話行為が複数の不在への書き込みと中断を, 同時進行的かつ不均衡に行う過程を, 「韓国系アメリカ女性」 という歴史的固有性にからめて論じるエレイン・キムの論文は, 初出から 10 年以上を経てなお, 力強い。
 通常, 「アジア系アメリカ/ディアスポラ研究」 の文脈で読解されることの多い 『ディクテ』 だが, 『異郷の身体』 の特記的貢献事項として, 「韓国/朝鮮民族離散コリアン・ディアスポラ」 を展開軸のひとつとするこのテクストの, 「日本」 という言説空間への置換があるように思われた (そしてそれを支えるのはもちろん, 池内による見事な邦訳である)。 なかでも, 本書前半に配置される, 鄭暎惠の, 現代 「コリアン・ディアスポラ」 の起源としての, 満州 「龍井」 での日本帝国支配に関する歴史的随想は, このテクスト受信の場における 「民族離散」 の意味を強力に問いかける一篇である。 一般に 「脱アイデンティティの政治学」 の代名詞のように言及される 『ディクテ』 ではあり, また井上まゆもの言うように, このテクストが 「植民地支配に関する記憶がアイデンティティを共有しない複数の受け手へと託されていく様子」 を示すものだということには同意しても, 鄭の随想は, その受信の場としての 「日本」 における 「複数の受け手」 という, ともすれば平板化されがちな位置性に対して強力に介入する。 本書に決定的な重みを供する一篇と思われた。
中村理香 (成城大学)

巽 孝之 著
Full Metal Apache: Transactions Between
Cyberpunk Japan and Avant-Pop America
(Duke University Press, 2006, $22.95)

 本書は, 数多くの刺激的なアメリカ文学・文化に関する研究書を著してきた著者による第二次大戦後の日本文学・文化論であり, また, 日米文化交渉の研究である。 著者は主張する。 欧米文化の 「模倣」 は, 明治維新の 「富国強兵」 のスローガンとともに始まり, 大戦後の象徴天皇の出現を契機に, 日本的主体は 「混成主体 (サイボーグ)」 化を強めた。 80 年代の冷戦構造終結前後, 高度消費主義情報化時代になると, 日米の文化現象の同時多発が見られるようになり, さらには文化的影響の逆流まで認められるようになった。 「模倣」 によって, アメリカ文化に接ぎ木を繰り返してきた日本文化は, 高度情報化の時代に入ると, 逆に影響を与える側にも立つことになった。
 大戦後形成された日本的主体は, 徹底的に対象に同化し, 対象に搾取されながら, 日本的限界を乗り超えるべくマゾヒスティックな努力を重ねるうちに, 気づいてみると対象からズレた日本特有の文化を創造していた。 これを著者は, 日本の主体形成に特徴的な心理的メカニズムと見て, 「創造的マゾヒズム」 と名づけ, その系譜を日本文学・文化のなかに跡づける。
 以上を論考の核として, 著者は, ポスト構造主義の批評理論を駆使して, 柳田国男, 小泉八雲, 阿部公房, 筒井康隆, 村上春樹, 島田雅彦, 花田清輝から, 寺山修司, 沼正三, 塚本晋也の映画 『鉄男 (二部作)』, t.o.L のアニメ 『タマラ 2010』, 「おたく」, コマーシャルまでを, アメリカのピンチョン, デリーロ, オースター, ギブスン, スターリング, ジェイコブスン, ユーリデシー, キージング, クリントンなどと比較対照しながら, 緻密な読みを基礎に解読していく。 「サイバーパンク・日本とアヴァンポップ・アメリカの駆け引き」 という副題の通り, 取り上げられた作品には領域侵犯的なものが多い。 「結論」 において著者は, 核兵器の惨劇の象徴として日本が生みだした 50 年代のゴジラは, 90 年代には米国作家ジェイコブスンの小説 『ゴジロ』 として登場することになったと述べて, グローバル化時代のテーマ・パークに 「緑のゴジラ」 を文化交渉の結節点として待望し, 「来るべきナラティブ」 に思いを馳せる。
 オリジナルとイミテーションを二項対立的に捉えると, どうしてもイミテーションには負い目のようなものがまとわり付くが, もともとアメリカはヨーロッパの, ヨーロッパ近代は中世・古代の 「模倣」 ではなかったのか。 ウォルター・ペイターが, いみじくも述べたように, プラトンの思想でさえ, さらに古い思索家たちの思想の継ぎはぎであった。 著者が指摘するように, オリジナルとイミテーションの区別は, 実はそれほど分明なものではない。
 本書は, 日本の読者には, 比較文化的に日本文化を解読する文化研究のあり方を教えてくれる必携の書となり, 一方, 外国の読者には, ハイブリッドではあるがユニークな日本文化に対する関心を広く呼び起こすことになろう。 フィッシュとジェイムソン企画の 「ポストコンテンポラリー・インターヴェンション・シリーズ」 の一冊として本書は出版されているが, まさにそのタイトルの通り, 異文化間交渉研究の揺るぎないマイルストーンになることは間違いない。 馬塲弘利 (福岡女子大学)

阿部珠理 著
『大地の声──アメリカ先住民の知恵のことば』
(大修館書店, 2006 年, 1,995 円)

 著者は, アメリカ先住民を 「声の共同体」 と呼ぶ。 人々は, 歴史や伝統を歌と物語の中に織り込み, 世代を超えて語り継いできた。 この 「物語る」 伝統は, 部族語が衰退しかけた今日でも, 彼らの間で途絶えていないという。 本書は, 第 1 部名句・名言編, 第 2 部民話・伝承編, 第 3 部詩歌編, の 3 部で構成されている。
 「第 1 部大地の声」 では, アメリカ先住民の世界観や知恵を伝える 15 の名句・名言が, その背景とともに独自の視点で語られている。 先住民の名言や神話伝説を扱った本は他にもあるが, 本書は著者の体験・エピソードとともに論じられている点が特徴であろう。 たとえば, 名言の一つ 「太鼓がくれば (踊りは始まる)」 は, パウワウの会場で老人がつぶやいた言葉である。 保留地を訪れるようになった頃, 諸事が予定どおりに運ばない中, 何気ないこの一言によって著者の疑問と不信は氷解したという。 「人に会えないというのは, 会うべき時が来ていないのであり, ことが成らないというのは, 時が満ちていないのである。 ……時が満つることに身を任せるということは, 出来事を十全に体験すること, 丁寧に味わい尽くすことと言える。」 長年, 先住民文化を見つめてきた著者の洞察は他にもうかがえる。
 「第 2 部すべての生きものの物語」 では 12 の民話・伝承が, 「第 3 部 風の歌」 では 30 の詩歌が, 平明で小気味よい翻訳によって紹介されている。 各地域の部族に伝わる民話や詩歌には, ネズミやウサギ, コヨーテ, モグラ, バッファロー, カリブーなど多くの動物が登場する。 「白いバッファローの乙女」, 「鳥と結婚した男」, 「フクロウ女」 といった動物と人間の越境は, 「ハイ・ホース」, 「スポティッド・イーグル」, 「ブラック・クロー」 等の先住民の名前にも表れている。 詩歌には, 雷や嵐, 蛍, 岩, 夜明け, 春といった自然に関するもの, 恋や結婚・離婚, 戦や死, 追悼など人生での出来事, さらにペヨーテやカチナ, ゴースト・ダンス, ブラック・ヒルズといった信仰や歴史上の事件に関わるものもある。 その多くはとくに教訓めいていなく, ごく素朴な内容である。 歴史的な被害者や勇猛な戦士でもない, ありのままの先住民とその暮らしが伝わってくる。 これらの詩歌や民話には, 人々の世界観や人生観が時を越えて映し出されているのかもしれない。
 本書を読んでいる途中, あるメロディをふと思い出した。 アメリカで知り合ったカイオワ族の女性が, 赤ん坊を抱きながら口ずさんでいた唄である。 部族に古くから伝わるというその子守唄は単調ながら, どこか懐かしい響きだった。 スピード社会のアメリカの片隅に, 素朴でゆったりとした彼らの文化が, たしかに息づいている。 本書は, もうひとつのアメリカ, 先住民の世界へいざなってくれる一冊である。
内田綾子 (名古屋大学)

2006年11月22日 | アメリカ学会会報