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『アメリカ学会会報』第161号

巻頭エッセイと新刊紹介を転載致します。

「沖縄のアメリカ研究」 山里勝己 
 沖縄におけるアメリカ研究は, 1853 年にペリー提督が黒船で琉球の那覇に来航したときに始まったと言えるかも知れない。 周知のように, ペリーはまずは那覇に来航, 江戸幕府との交渉がうまく行かないと, なんども那覇に引き返してきた。 沖縄は, 19 世紀半ばから, アメリカの前進基地として機能してきたのである。
 ペリーに同伴した画家ハイネが残したスケッチを見ると, 測量する水兵たちやペリーの水兵たちを物珍しげに見守る人々が描かれている。 なんのことはない, ペリー提督とその水兵たちは, 近代科学の最先端の成果をひっさげてやってきたトラヴェラーであり, 琉球人たちはそのまなざしに晒され, 西洋世界を中心とする世界秩序に組み込まれようとするトラヴェリー (travelees) であったのだ。
 ペリーの 『日本遠征記』 には, さまざまな琉球に関する 「研究」 成果が報告されている。 この報告の一部は, 沖縄戦が始まる前年 (1944 年) に, 米軍の軍事戦略局調査分析部がまとめた 『琉球列島の沖縄人──日本の少数民族』 (『沖縄県史資料編 2』 1996 年) に引用されている。
 沖縄におけるアメリカ研究が本格的に始まったのは, 1945 年以降のことである。 地上戦は苛烈きわめる異文化接触の一形態であり, 沖縄においては多くの貴重な人材を短期間に, そして一挙に失うことになった。 このような状況でなによりも必要とされたのは, 戦後の再建・復興を担う指導者の育成であった。 沖縄の復興のために, 物資を送る運動がハワイや北米のオキナワ系移民を中心に展開されたが, その中で 「沖縄の救済はまずは教育より」 と主張し, 高等教育機関の設置を提唱したのは, 湧川清栄を中心とする 「ハワイ沖縄救済更生会」 であった。 湧川らは, ハワイや北米で基金を募り, 1948 年, 沖縄から戦後初めて 5 人の留学生をハワイ大学と北米の大学に送ったのである。 留学生らは, 将来, 沖縄に創立される史上初の大学の教員になることを期待されていた。 (ちなみに, 沖縄史上初の大学である琉球大学は, アメリカ軍政府の手で 1950 年に設立された)。 翌 49 年からは, 米国陸軍省の資金により, 米国留学制度が実現した。 沖縄の日本復帰は 72 年であったが, この制度は 70 年まで継続され, 1087 人が留学生としてアメリカに送られたと言われる。
 この中から, 戦後沖縄のアメリカ研究をになう人材が輩出した。 沖縄には琉球王国の時代から連綿と続く留学の伝統があるが, 沖縄におけるアメリカ研究は, このような伝統の先端に位置するものなのである。
 沖縄のアメリカ研究は, 当然ながら当初は個々の研究者による研究が中心であったが, やがて組織化された研究が推進されるようになる。 1960 年代には琉球政府立琉球大学に 「アメリカ研究所」 が設立された。 また, 国立に移行した 1970 年代末には 「琉球大学アメリカ研究会」 が設立され, 沖縄のアメリカ研究者の多くが参加するようになった。 留学生たちの研究はほとんどあらゆる分野に及んだから, 「琉大アメ研」 は, 人文・社会系の研究者だけでなく, 農学, 工学, 理学, 公衆衛生などの自然系を含む複合的な研究会として, 現在までに 27 回の年次研究大会を開催してきた。 年次大会では, 会員による研究発表, アメリカや国内から招聘した研究者や作家による特別講演, そしてシンポジウムが開催されてきた。 国際関係や異文化接触論は, 戦後の歴史を背景に沖縄のアメリカ研究が強い関心を持って深化してきた分野であり, 刊行物を含めたさまざまな成果がもたらされた。  2002 年 10 月には, 「琉球大学アメリカ研究センター」 が学内共同利用施設として設置され, 2004 年には同センターから英文学術誌 The Okinawan Journal of American Studies (OJAS) 第 1 号が刊行された。 Okinawan という言葉には, 戦後沖縄が当事者として濃密に体験した 「アメリカ」 に関する洞察を, 国際的な対話を深めながら普遍的なレベルで記述したいというこころざしが込められているはずである。 OJAS はすでに 3 号まで刊行されているが, 3 号からは国内外から 11 人の Editorial Advisory Board を招聘している。 いま, ペリーたちの眼差しに晒された 1853 年以降の歴史をふり返りながら, 沖縄では新たにアメリカを照射する 21 世紀のアメリカ研究が始まろうとしている。(琉球大学)

新 刊 紹 介

菅 英輝, 石田正治 編著『21 世紀の安全保障と日米安保体制』(ミネルヴァ書房, 2005 年, 4,410 円)
 本書は, 9.11 同時テロ事件以降, 安全保障環境の急激な変化により既存の同盟が必ずしも有効に対処しえていない現状に鑑みて, 菅英輝氏を代表研究者とする共同研究グループが基盤研究 A のテーマ 「21 世紀のアジア太平洋における安全保障」 について 26 回に及ぶ研究会から得た研究成果の一部 (計 13 名の執筆者) である。
 第 I 部 「アジア太平洋の安全保障と日米安保」 と第 II 部 「ヨーロッパの安全保障と NATO」 で, 現状までの事実の再解釈がなされ, 第 III 部 「安全保障の原点から考える」 と第 IV 部 「地域から安全保障を考える」 においては, 再考察と提言がなされている。 21 世紀の安全保障のあり方を歴史的・実証的考察, 現状分析を踏まえた上で問い直すという明確な共通の目的意識と問題意識の下に著された本書は, 序論と 13 の研究論文から構成され, 多くの一次資料ならびに二次資料を駆使して書かれた, どれも読み応えのある論文ばかりである。
 序論において, 「日本はヨーロッパ連合に相当するような政治・安保空間の形成を怠ってきた」 との的確な批判を日本政府に対してした後, 第 1 章では 「なぜ冷戦後も日米安保は存続しているのか」 を問い, それに対し菅論文は, 日米安保がより広汎な政治的, 経済的, 文化的基盤のうえに立脚するようになったからだと分析する。 第 2 章の 「アメリカ軍事戦略下の日米安保」 の我部論文は, アメリカが在日米軍基地に期待したものは基地の自由使用であると指摘した上で, 在日米軍の撤退を阻む元凶が日米安保の維持を求める日本本土と沖縄の保守層の存在であると喝破する。 第 3 章の 「冷戦後の米中関係と 21 世紀の東アジアの安全保障」 の問題を扱った李論文では, 米中関係がこれまでと同じように今後も協力と不和を周期的に繰り返すと論じる。 第 4 章の 「中曽根康弘首相における 「新保守主義」 と 「国民国家外交」 を扱った豊永論文は, 中曽根がナショナリストであると同時にインターナショナリストでもあったと分析する。
 この後 9 つの骨太の論文が続く。 ただ, 新刊紹介という性格と紙幅の都合上, ここで全ての論文の論旨をくわしく紹介できないのが残念である。 その代わりというわけではないが, 今後の研究方向として感想を一, 二述べておきたい。 従来の日米関係の研究は, 安全保障や経済を研究対象としたものが圧倒的に多く, 「文化」 は全く無視か, そうでなくても二級市民的な扱いを受けてきた。 また安全保障, 経済, 文化を三位一体として統一的にとらえる視点も乏しかった。 そのことを考えると, 日米安保体制を中心テーマに据える限り, 研究対象は安全保障に限ることなく経済協力にも及ぶべきであるとの菅研究代表者の指摘にまったく同感であり, 本書はその方向への一ステップと評価できよう。 安全保障問題から沖縄問題にいたる幅広い問題を取り上げ, 日米安保体制との関連で 21 世紀の安全保障の分析を試みた本書は, 日本の外交・安保政策について考え評価するのに必要な知見を提供するという所期の目的を見事に達成しているといえよう。 共同研究書として構成ならびに内容の点でバランスのとれた本書を高く評価し, 専門家, 非専門家を問わず必読書として推薦したい。
松田 武 (大阪外国語大学)

常松 洋 著『ヴィクトリアン・アメリカの社会と政治』(昭和堂, 2006 年, 4,200 円)
 前近代社会から近代への移行において際だつ特徴の一つは, 自立した 「個人」 が社会の主体として登場したことであろう。 前近代社会で人々を支配した宗教や神に代わったのが, その人間の 「欲望」 である。 近代とは, 換言するなら, 「世俗化」 し無力となった宗教よりも人々の 「欲望」 を優先させる社会とも言える。 さて本書は, こうした近代社会での 「消費」 と 「改革」, そしてこれらを維持する装置としてのイデオロギー 「ヴィクトリアニズム」 を論じている。 時代は 19 世紀後半より 20 世紀初頭, 著者が分析の対象としたのは (著者の言葉でいう) 「普通のアメリカ人」 としての中産階級の人々の生活である。
 第一部 「消費文化の展開」 では, 資本主義経済の発展により 「近代化」 された家族の出現, かれらの 「内面的価値の外的表現」 「外面化によって諸価値を内面化」 する 「消費」 行動, 中産階級がそのステイタスを証明するための 「ヴィクトリアニズム」, そしてかれらの 「改革」 への参加は生活様式を 「身許証明」 することが目的であった, と著者は本書の 3 つのキーワードを位置づける。
 第二部は, 「都市の状況」 をテーマに, 社会改革者としてのジェーン・アダムズ, 都市のマシーン政治とシカゴの移民たちの犯罪に焦点をあてる。 著者が注目するのは 「消費」 や 「ヴィクトリアニズム」 との関連性ではなく 「改革」 と政治との結びつきである。 特にアダムズについては, 彼女がシカゴのマシーン政治を牛耳るパワーズに挑戦し敗北に至った結果を, ボス政治とは敵対するよりも現実的対応としてボスからの協力を引き出した彼女の選択とし尊重する。 ボス・マシーンを分権と集権的傾向がせめぎあう緩衝点として機能したというのが著者の結論である。
 さて最後の 「『道徳規制』 試み」 の部では, 「白人奴隷輸送禁止法」 (マン法) と 「全国禁酒法」 が論じられる。 セクシュアリティの監視装置としての 「ヴィクトリアニズム」 の解体の結果, マン法が人種間の 「性的禁忌」 の侵犯を理由として伝統的性道徳維持の装置として働いた事件をあげる。 さらに 「希代の悪法」 とされた 「全国禁酒法」 の成立と廃止についても, 伝統的価値体系としての禁酒主義が, 大衆消費社会の出現によって衰退するという, 「改革」 と 「消費」 のせめぎあいの事例とあげる。
 常松氏の本書の最大の魅力は, 長年の研究成果を 「消費」 と 「改革」 というテーマによりまとめあげた労であると思われる。 私もアメリカ女性史研究者の一人として 「ヴィクトリアニズム」 と私的領域への関わりに関心をもってきたが, これまで看過しがちであった法体系や政治構造まで踏み込んだ常松氏の議論には啓発されることが多かった。 「普通のアメリカ人」 たちの 「欲望」 に注がれる氏のまなざしには限りないやさしさがあふれているように思われた。
山内 恵 (清泉女子大学・非常勤講師)

松岡 泰 著『アメリカ政治とマイノリティ──公民権運動以降の黒人問題の変容』(ミネルヴァ書房, 2006 年, 5,250 円)
 これまでの本格的な黒人政治に関する研究書というと, ほとんどが 1960 年代の公民権運動以前の問題にとどまっていたが, 本書は副題にわざわざ 「公民権運動以降の黒人問題の変容」 と謳っていることがまず注目される。 著者は黒人政治についての論文を発表し続けてきており, 日本では数少ない黒人政治の専門家の一人である。 本書は序章と 7 章の構成で, 評者はそのうちの 4 章を発表の時点で読んでいるので, こうして一冊の著作となったものを通読してみて, あらためて著者の黒人政治に関する問題意識の鋭さや適切な判断力を認識させられた。 個人的に大変興味深かく感じ, かつ今後の黒人政治を考えるうえで重要な問題を提起しているのは, 第 5 章 「共和党の新南部戦略」 と第 6 章 「共和党政権とアラブ・ムスリム」 である。
 第 5 章の主要なテーマは, マイノリティ多数派選挙区の創設と共和党の巧妙な戦略である。 黒人候補者が当選しやすい選挙区をつくることにより, つまりは民主党候補の選挙区をより黒くすることによって, 民主党白人リベラル派を黒人と切り離し, 最終的には共和党への白人支持が増加し, 議席も増加するという仕組みと理解していたのだが, 実はもっと複雑な経緯があることを知って驚いた。 1992 年選挙で南部を中心にマイノリティ多数派選挙区が設置されてからは, 民主党の連邦黒人議員は飛躍的に増大した。 黒人にとっては躍進を象徴するものだが, 民主党そのものにとっては大きな打撃だったのだ。 最大の被害者は白人民主党議員だった。 91 年には 85 名であったのが, 92 年と 94 年の 2 回の選挙で, その数はなんと半減してしまったのである。 かつては民主党の牙城であった南部が, 今日では共和党支配になっているのは周知の事実である。 最高裁で違憲判決を受けた選挙区もいくつか出たが, その修復に共和党が黒人と協力しているということも実に奇妙なことだと思った。 本書のなかで第 5 章は秀逸の論考といってよい。 第 6 章では, ブッシュ政権が本来は民主党支持の強いアラブ・ムスリムを 9.11 以降味方に取り込み, 長期戦が予想されるイスラム教テロリストとの戦いでアラブ諸国の協力を得ようとしたが, 外交上の必要からイスラエルのシャロン政権寄りを歩むために, アラブ・ムスリムと対決するユダヤ系に乗り換えた背景が説明されている。 冷酷な国際舞台における権謀術数だ。
 本書の各章は, その時期の黒人政治の背景をテーマ別に詳述している資料性の高い論考だが, 全体をまとめて今日の黒人政治をどう評価できるのか, 今後はどうなるのかを述べる章がないのは実に残念である。 章によっては, 内容がアップデイトされている箇所もあるが, 十分ではないと感じた。 とはいえ, 60 年代以降の黒人政治をここまで論じた単著は他になく, 日本のアメリカ研究にとって貴重な労作となっている。
上坂 昇 (桜美林大学)

樋口映美/中條 献 編『歴史のなかの 「アメリカ」──国民化をめぐる語りと創造』(彩流社, 2006 年, 3,900 円)
 本書の 「あとがき」 によれば, 本書は故辻内鏡人氏を提唱者とする科学研究費プロジェクトの研究成果報告であるという。 周知のように辻内氏は多文化主義の思想的文脈を探るなかで, そこにポストモダニズム (あるいはポストコロニアリズム) とモダニズム双方の系論を見いだし, この二つに通底する尊厳の平等, 自決, 民主主義などの原理の存在を指摘し, ここに依拠しての 「対話」 の可能性を展望した。 ひたすらなる 「脱構築」 の果ての歴史と社会の無限の細分化と分断化という隘路から多文化主義を救おうとする先進的かつ果敢な試みであった。 執筆者の一人が言うように, この氏の先駆的業績にこそ国民意識論を扱った本書の原点がある。
 本書は内外 16 名の執筆者の手になる 16 編 (付論を含む) の論文からなり, 二部構成をとっている。 「アメリカ」 というイメージが創られたものであることを検証した第一部 「語られる 『アメリカ』」 では, 南北戦争後共和党急進派の 「血染めのシャツ」 キャンペーン, メキシコのディアスポラの民ヤキ, 「アメリカ革命の娘たち」 (DAR), 第一次世界大戦期アメリカ軍の性病管理, メキシコのプロテスタンティズム, 収容下の日系アメリカ人, 沖縄の基地, アフリカとエイズなどが検証対象として取り上げられている。 第二部 「つくられる 『アメリカ人』 意識」 は, 「アメリカ人」 意識の創られる, あるいは創られない状況を実証的に検証したもので, 19 世紀後半の黒人解放思想, 全国黒人実業連盟, シカゴのポーランド移民, 米国のプエルトリカン, ビリケン倶楽部, 西インド諸島系移民, 移民をめぐるマスターナラティヴなどが題材となっている。 付論では日米のナショナリズム・国民意識に関する研究史が批判的に整理され, 今後の課題が示されている。
 本書は, 国民化の回路を, 国境を越えた眼差しで, アメリカを相対化した位置に置くなかで捉えようとしたところに方法視角上の特色があり, さらにそれを日常性に密着した実証研究によって究明した点に歴史研究本来の魅力がいかんなく発揮されている。 しかしそれ以上に, 中野耕太郎論文や樋口映美論文が明らかにしたポーランド移民やシカゴの黒人の間に見られた民族・人種意識とアメリカ人意識の自然な共存, また, 阿部小涼論文や村田勝幸論文が指摘する, 白人と黒人の間, あるいは移民であることとアメリカ人であることの間のいわば中間地帯に自ら位置をおく生き方などの例は, 多文化主義に伴いがちな不毛な二項対立的立論を批判し, 「対話」 の可能性を展望した辻内氏のいわば 「予言」 を立証したものとは言えまいか。 辻内鏡人の掲げたかがり火はたしかに受け継がれた。 横山 良 (神戸大学)

Tsuyoshi Ishihara 著 Mark Twain in Japan: The Cultural Reception of an American Icon(University of Missouri Press, 2005, $34.95)
 西洋文学の翻訳は, 日本の近代文学や文化の形成に重要な役割を果たしてきた。 アメリカ文学においては, ロングフェロー, ポー, ホーソーン他の作品が 1880 年代に翻訳され始め, マーク・トウェインの作品は, それより少し遅れて 1890 年代に初めて翻訳された。 以来, すでに 100 年以上が経過している。 トウェインの作品はどのような翻訳として日本の文化に受容され, またそれは, わが国の文化にどういう影響を与えてきたのであろうか。
 本書は, テキサス大学オースティン校に提出された著者の博士論文に基づき, 「日本におけるマーク・トウェインの受容」 の在りようを, 作品の翻訳の分析をとおして考察した, きわめて興味深い研究書である。 亀井俊介, 勝浦吉雄他による当該分野の先行研究を跡づけ, それらに学びながら, これまであまり扱われなかった分析対象, すなわち作品の児童文学への翻訳/翻案 (1920 年代から 60 年代の 『王子と乞食』, 『トム・ソーヤーの冒険』, 『ハックルベリー・フィンの冒険』), 第二次大戦後の新制中学検定教科書, 世界名作シリーズの TV アニメ (1970 年代から 90 年代に放映され, 半年ないしは 1 年にわたって毎週 1,000 万人を超える視聴者を得た 『トム』 と 『ハック』) などにそのフォーカスを当てることによって, 広い視野から, この分野の研究を大きく発展させている。 アメリカの大学で学位を取得するということが, いやそこに至るまでの研究の姿勢がインターナショナル・パースペクティヴを獲得させるのであろうか。 本書にはその視座が十分に活かされている。
 児童文学やアニメにあっては, 子どもたちが理解しやすいように原作が変容されることは珍しくないが, 同一作品であっても翻訳される時代によってそれがいかに大きく変わるかを, 著者は, 日本の近代史の展開と日米関係史の中に位置づけて分析している。 周知のとおり, トウェインの日本初訳の長編は 『王子と乞食』 であった。 『トム』 や 『ハック』 の翻訳が世に出るためには, リベラルな風潮の大正デモクラシーを待たねばならなかったのである。 そうとはいえ, その佐々木邦訳 『ハックルベリー物語』 は, 日本の児童文学が 「忠孝物語」 から脱却する上で革命的な本になったという。 また, 佐々木邦訳では顧みられなかった奴隷制度や人種問題に直面するハックは, 戦時の抑圧から自由になった第二次大戦後の筒井敬介訳で民主的な英雄として訳出された (この時期, トウェインの作品はユーモアの学習を目的として教科書に登場し, 戦後の民主教育に活用されたりしている)。 こうした変容の詳細な考察により, 本書は, アメリカ文化が異文化に影響を与えるときに, それがどのように取り入れられたり拒まれたりするかを, トウェインを事例に検証してもいるのであり, 異文化の移入がけっして一方向的なものでないことを提示するのである。 原作と対照させて論じる著者の議論は, 作品の読みの確かさや, 今日の批評動向が認識されたものであることを証している。 著者のますますの活躍を私は大いに期待している。  
 なお, 第 2 章の副題中の“Samurai”には修正が必要だろう。 翻案の時代設定が武士団の形成期にあたるものの, 右大将は 「公卿」 であり, 「花丸」 は武士ではないからである。   
井川眞砂 (東北大学)

武藤脩二・入子文子 編『視覚のアメリカン・ルネサンス』(世界思潮社, 2006 年, 2,310 円)
 本書はイギリスやヨーロッパの視覚芸術のアメリカへの導入と, アメリカの 19 世紀ルネサンス期を中心とする作家たちと絵画を中心とした彫刻, 建築, 紋章, 演劇などの視覚芸術との影響関係を論じたもので, 扱われている作家は, エマソン, ホーソーン, ポー, メルヴィル, トウェイン, ジェイムズ等の 19 世紀の作家から 20 世紀の作家まで多岐に渡り, 第一線で活躍する研究者に中堅と若手研究者を加えた執筆者の 13 篇の論文が収められている。 それぞれの論文には少なくとも数枚の絵画や写真やイラスト等が織り込まれており眼で見て楽しいし, それらが論じられている言葉と共鳴し合い, まさに本書全体が万華鏡ないしはファンタズマゴーリアの観を呈する。
 アメリカの 19 世紀前半はエマソンの言う 「視覚の時代」 だと言われるが, それはたぶんに広大な西部への領土の拡大と科学技術の進展や機械の発明に伴う自然観や社会観が大きく変化したこと, さらには, 新興国としての国家形成のヴィジョン等と密接に関係している。 この時代のアメリカのナショナリズムや国家のイデオロギーと結びついた 19 世紀前半の美学であるトマス・コールを代表とするハドソンリヴァー派のアメリカン・サブライムやピクチャレスクと, アメリカン・ルネサンスの作家たちの共振や連動や影響関係 (エマソン) やそれへのアンヴィヴァレントな関係や批判 (ホーソン, メルヴィル, ポー) 等に関する論文が本書の中心を占める (伊藤詔子, 野田研一, 城戸光代, 大杉博昭, 島田太郎諸氏の論文)。 これらの諸論文を読むと改めてコールの影響の絶大さを認識させられる。 巻頭論文のアリストテレスのメランコリー論と英国の紋章学とホーソーンの短編 「痣」 との関係を入念に論じた入子文子論文は精緻を極めるし, ディキンソンの詩が現代文学だけではなく他分野の近・現代芸術に与えた大きな影響を論じた巽孝之論文も刺激的である。 さらに, ホーソーンの小説と挿絵との関係を論じた水野眞理論文, 19 世紀初頭のアメリカでのシェイクスピア劇の上演事情を論じた常山菜穂子論文, ジェイムズの文学作品の脚本化と上演に関する問題を論じた水野尚之論文, 19 世紀後半に進歩したダゲレオタイプ (銀板写真) とジェイムズの文学との関係を論じた中村善雄論文, トウェインのヨーロッパ絵画論を論じた里内克巳論文等が続き, ローマのコロセウムがヨーロッパやアメリカの多くの作家へ与えた影響を論じた武藤脩二論文が最後を締める。 これらの諸論文は, 姉妹芸術といわれる詩と絵画のみならず文学と他の様々な視覚芸術が相互に共鳴し刺激し合い, それにより単独では生み出し難い新たな芸術としてのふくらみや意味深さやヴィジョン等の相乗効果を生み出していることを明らかにする。 多くの作家の文学と視覚芸術の関係を論じた本書の類書は少なく, また, 逆境の文学研究の一方向性を示したものとも言える。
安河内英光 (西南学院大学)

行方 均 著『記憶の語りと語りの記憶──アーネスト・J・ゲインズ, デイヴィッド・ブラッドリー, リチャード・ライト』(南雲堂フェニックス, 2005 年, 3,150 円)
 本書は, タイトルにある 3 人の黒人作家ゲインズ, ブラッドリー, ライトに関して 「過去」, 「記憶」, 「語り」 というキーワードでくくれる 12 本の論文を一書にまとめたものである。
 第 1 章は, ゲインズに関する章である。 まず巻頭には行方氏のゲインズとのインタビューがあり, ゲインズがルイジアナに戻った理由や諸作品に関する疑問や自作の内容について行方氏の質問に答えている。 次にゲインズ作品に見られるケイジャン文化を浮き彫りにする。 さらに 『愛と土埃について』 の主人公マーカス・ペインが賞賛の対象に変わることを, 『老人たちの集結』 では老人たちが記憶を掘り起こすことによって新たな存在を創造することを, 『死の前の教え』 には実は社会性があることを, それぞれ分析し証明する。 そして最後にフラナリー・オコナーの短編 「黒んぼの人形」 とゲインズの短編 「空は灰色」 は親や祖父が子供や孫を町に連れて行く似たような話だが, 主人公が前者は黒人, 後者は白人であることで大きな差異が生じることを明らかにする。
 第 2 章はデイヴィッド・ブラッドリーに関する章である。 ブラッドリーの 『チェイニーズヴィルの出来事』 のメッセージは, 「未来へ向かって黒人と白人がコール・アンド・レスポンスを始めなければいけない」 というものだと論じる。
 第 3 章はリチャード・ライトに関する章である。 短編集 『アンクルトムの子供たち』 の概説によって黒人にとって 1930 年代の南部がユートピアならぬディストピアであると論じる。 また 『アメリカの息子』 は単なる抗議小説ではなく, 主人公ビガーは 「長い苦悩の末に不条理な世界における全ての人間の心の奥底にあるものを見出した」 というもう一つの読み方を提出する。 そして短編 「地下で暮らした男」 はライトが黒人・白人という枠を超えて人間存在そのものと取り組み, 実存主義哲学を基調とした文学を先取りしたと述べる。 ライトが 『アウトサイダー』 によって訴えたいことは, 人間が 「世界内存在」 であり他者を忘れ絶対自由を追究すれば人間の未来は閉ざされるということだと結論づける。 次に短編 「消えやらぬ黒い歌」 とシャルル・ペローの 17 世紀末フランス童話 「青髭と 7 人の妻たち」 に意外な接点があることを解き明かす。 最後に 2 つの短編 「何でもやれる男」 と 「黒い大きないい男」 にはアメリカの人種差別に対するライトの悲観的な思いが読み取れると言う。
 本書にはゲインズにまつわる 16 葉の写真もあり, ゲインズの作品世界の舞台を垣間見ることができる。 日本のこの種の研究書にしては, 巻末に事項索引, 人名作品がきちんと付いており, きわめて便利である。 たとえば, 拙訳 『アメリカ黒人女性小説』 (彩流社) が 195 頁に言及されていることがたちどころにわかるといった具合である。 地味なことだが大いに評価されてよい。
木内 徹 (日本大学)

大井浩二 著『旅人たちのアメリカ──コベット, クーパー, ディケンズ』(英宝社, 2005 年, 2,310 円)
 本書は, 数多くの著訳書を手がけてきた大井氏自身が 「これまでのどの本よりも強い愛着を覚えて」 (195) いると語るように, 旅のモチーフが注目されている昨今にあって時機に適った研究書である。 『ホワイト・シティの幻影』 『手紙のなかのアメリカ』 『センチメンタル・アメリカ』 『日記のなかのアメリカ女性』 と代表作を追うだけでも, その業績の幅広さと見識の深さにはため息が出るほどで, 学際的な越境に挑戦し続けてきた氏の新たな本に対し, 読者の期待は読む前から膨らむばかりだろう。
 『旅人たちのアメリカ』 はそうした読者の期待を裏切らない良書である。 亡命者として 1792 年にアメリカにやって来たウィリアム・コベット。 逆に 1826 年からヨーロッパに渡り, その体験を基に書いた長編小説 『刺客』 を 「私がこれまでに書いた最もアメリカ的な書物」 (14) と考えたジェイムズ・フェニモア・クーパー。 そして 1842 年に訪米し, 「これは私が見に来た共和国ではありません」 (188) と述べて新世界への失望を露わにしたチャールズ・ディケンズ。 三者三様の 「危険な巡礼」 (15) がどのように交錯し, いかにして一つの道標を示すのか。 本書ではそうした問いに対して一種の力業が華麗に達成され, 作者の力量が遺憾なく発揮されている。
 コベットやクーパーの扱いに見られるとおり, これまでの批評史で十分に取り上げられてこなかった 「ニッチ」 に的確に的を絞る方法論は, 大井氏がこれまでの業績中で何度も見せてきた自家薬籠中のものではあるが, 本書中ではさらにディケンズの 『アメリカ紀行』 をあえて取り上げているのに, 新しさを感じる。 大井氏自身が 「手垢に汚れたテーマのような印象を与えるかもしれない」 (191) と断りながら, わざわざ三本の主題中の一つとしたのには, それなりの勝算があってのことであるのは間違いなく, そのとおり確かに, 何故か 『アメリカ紀行』 がずっと気になってきて若干それに関する資料を漁った経験を持つ書評者にも, コベットとクーパーと並べて論じられた時に初めて気付かされた, 新鮮な側面を見た思いがあったのである。 三つのストーリーが一つに帰結して終わるのではなく, そこからまた三つのストーリーの種子が産み落とされる。 本書の 「華麗さ」 があまりに見事に思えてならないのは, これまで多くの大技を成し遂げてきた大選手がまたしてもそうした離れ業をやってのけたということだけではなく, 同時に後に続く者に対して, この道を進むための重要なヒントを教示してくれているからだ。 ディケンズの 「アメリカ否定」 のようなものを丹念に読み直すことが, 今日の 「アメリカ新/再発見」 に繋がるのだ, という考え方はその一例だろう。
 大井氏が 「人生の小さなアイロニー」 (195) にたじろぐことなく, 今後も後進の者達を照らし出す眩しい巨星であり続けてほしいと, ささやかに祈らせて頂く。
辻 和彦 (福井大学)

森岡裕一 著『飲酒/禁酒の物語学──アメリカ文学とアルコール』(大阪大学出版会 2005 年, 2,100 円)
 アメリカ文学と飲酒を考えるとき, まず思い浮かぶのは 「禁酒法」 だろう。 著者も述べているとおり, それは 「世界でも稀な体験」 であった。 なぜアメリカはこの法律を施行したのか, あるいは, しなければならなかったのか?まずこのことを考える必要があるだろう。 それは, ただ国民の飲酒を禁止するといった単純なものではなかった。 その背後には政治的な意図が見え隠れしていたはずだ。 現にこの法律はいわゆるザル法で, 多くの人たちはもぐり酒場で酒を楽しんでいた。 そんな時代だった。
 こうした事実を考えただけでも, 飲酒あるいは禁酒は単なる人の嗜好, 日常の楽しみといった個人的レベルだけで捉えることはできないことがわかる。 そこには社会のいろいろな要素が複雑に絡み合っているのだ。 本書ではそうした諸要素を踏まえ, あらゆる観点からアルコールが捉えられている。 そこには物語があるのだ。 時代性, エスニシティ, ジェンダー, 創造性との関わりなど, 多方面から飲酒/禁酒の物語学が語られている。
 扱われる作家も多岐にわたっている。 ポー, チーヴァー, アンダソンにはじまり, フィッツジェラルド, ヘミングウェイ, フォークナーそしてオニールまで論じられている。 またそれだけではなく, 19 世紀の禁酒小説である T・S・アーサーの 『酒場での十夜』 やマーガレット・ミッチェルの 『風と共に去りぬ』 などの作品にも深く言及している。 本格的な研究書と言えるだろう。
 以前, 著者の森岡氏の編集による 『酔いどれアメリカ文学』 の書評をさせてもらった時にも触れたことだが, 人がアルコールに依存していく背景には, 人間としての弱さがあると思う。 飲酒とどう向き合うか, それは自分の弱さを克服できるか, あるいはそれに負け続けるかの問題だ。 そうした観点から現代社会を見渡すと, 飲酒に限らず多くの依存症が蔓延しているのではないか。 たとえば携帯電話依存症, そしてインターネット依存症等々。 深刻な問題ばかりである。 もし本書が, こうした現代の問題を考える手がかりともなればこの研究はさらに生きてくるのではないだろうか。 そんな気がする。
 著者は 「酒の話題や禁酒小説という決して文学的とは言えないテキストの分析に終始するだけでは, 文学の研究書としては物足りない・・・」 と述べているが, 本書に関しては決してそのようなことはない。 充分に文学的な内容になっていると言っていいだろう。
宮脇俊文 (成蹊大学)

2006年07月21日 | アメリカ学会会報