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『アメリカ学会会報』第160号
巻頭エッセイと新刊紹介を転載致します。
アメリカ学会成立の頃
齋 藤 眞
日本におけるアメリカ研究は, なにも戦後に始まったわけではない。 例えば, 大正時代から, 東大法学部には 「米国憲法歴史及外交」 という講座, 講義があった。 設立当初の寄付者の名前からヘボン講座とも, また米国講座とも呼ばれていた。 その専任担当者として高木八尺教授がおられ, 戦前, 戦中, 戦後と変わりなく講義を続け, 研究成果を発表されていた。 個人的なことで恐縮だが, 私は 1940 年その講義を聞き, 42 年その講座の助手となったが, 直ぐに 4 年近くの海軍生活に入ることになる。
戦後になり, アメリカ研究への関心が広まると, かつて上記ヘボン講座の助手をされたことがあり, 同盟通信の常務理事などされていた松本重治氏や, 立教の藤原守胤教授などと共に, 高木八尺先生はアメリカ研究者の組織化を考えられた。 その結果, 1947 年 7 月には, アメリカ学会の発会式が神田の郵政会館で行われ, 松本重治先生がアメリカ研究の必要性を訴えられ, またハーヴァード大学のペルツエル講師による講演が行われた。 占領下であったが, 占領軍のなんとか少佐が来賓として挨拶するなどということは一切なかったことが, 印象に残っている。 その後もアメリカ学会は, 占領軍とは原則として関係を持たない方針を保持していた。
では, ここに誕生したアメリカ学会は, 具体的には何を始めたのか。 一つは, 立教のアメリカ研究所の機関誌であった 『アメリカ文化』 を引き継ぎ, 『アメリカ研究』 という雑誌の刊行を行ったことである。 この仕事は, 当時ジャーナリストであった中屋健一先生が中心でなされたが, 紙の配給など大変であった。 やがて財政上困難となり, 休刊とせざるを得なくなった。 もう一つ, 講師を迎えて, 広く一般向けに講演会を開いたこともある。 年月は忘れたが, 都留重人先生, 小原敬士先生による講演が行われた。
さらに, 長期的に日本のアメリカ研究に貢献したのは, 『原典アメリカ史』 の編集, 刊行であろう。 当初は, アメリカ史上重要な文献を邦訳し, 解釈し, 議論しあうという, いわば勉強会として始められた。 1948 年 2 月より, たまたま高木先生が東大図書館長をやっておられたので, その館長室を借り, 毎週 1 回, 水曜日の午後行われた。 暖房設備の未だ動かない時代, 外套を着たまま, 時に手袋をしていたのを憶えている。 参加したのは高木, 松本両先生の他, 中屋健一, 清水博, 嘉治真三先生など 10 名余り, 他の部屋から椅子を借り出し, ぎゅうづめであった。 1946 年 6 月復員して, 助手に復職した私は一番の若僧で, 報告もしたが走り使い役。 コピー機など無い時代, 資料のタイプを頼み, 謄写板刷りで部数をそろえて配る係りでもあった。
何を資料として選ぶかについても, かなり議論があったし, 担当者が邦訳文を読み上げると, たとえば松本先生などから 「君い, そこはねー」 と言った訂正もあり, お互いの間の議論も活発であった。 なお, 土台になる資料集などの書籍について, 新刊のものは, 高木, 松本両先生の旧知のファーズ博士 (ロックフェラー財団) を通じて入手されていた。 植民地時代の資料を扱った第 1 巻が, 幸い岩波書店の協力を得て, 1950 年 9 月に 『原典アメリカ史』 第 1 巻として刊行される。 刊行以来半世紀を越えた今日では, その執筆者 12 名の内 10 名が故人となられてしまった。 なお, 当初の計画の最終巻, 第 5 巻が刊行されたのは 1957 年である。
ただアメリカ学会の活動がこの 『原典アメリカ史』 研究会に凝縮してしまい, 残念ながら, 一般的な活動は事実上停止した。 そこで, アメリカ学会の再建を計るべく, 松本先生, 中屋健一先生などが中心となって, 1966 年に改めて発足したのである。
新刊紹介
『変貌するアメリカ太平洋世界』 全 6 巻
(彩流社, 2004 年~2005 年, 3,780 円~3,990 円)
遠藤泰生・油井大三郎編 『太平洋世界の中のアメリカ─対立から共生へ』;五十嵐武士編 『太平洋世界の国際関係』;山本吉宣編 『アジア太平洋の安全保障とアメリカ』;松原望・丸山真人編 『アジア太平洋環境の新視点』;庄司興吉編 『情報社会変動のなかのアメリカとアジア』;瀧田佳子編 『太平洋世界の文化とアメリカ─多文化主義・土着・ジェンダー』
冷戦が終結し, 世界の二極構造が崩壊して以来, 太平洋地域において, 新しい地域協力の枠組みが模索されている。 1995 年に刊行した 『アジア太平洋フュージョン』 の中で, 船橋洋一氏は, 「思想と文明の異種交配」 が可能となったアジア太平洋が 「種々の思想と文明のるつぼになりつつ」 あると評価している。 さらに, それは 「東洋と西洋の伝統と思想を支配させ, 新たな文明」 を形成する可能性を持った 「思想のフュージョン (融合)」 へと発展していくと, 冷戦終結がアジア太平洋地域に与えたプラス面を強調した。 確かに冷戦終結後, 世界各地で地域統合が進行してきたが, 太平洋地域においては, 安定した地域統合機構はない。 また, 第二次世界大戦以降, 太平洋地域への関与が強まった 「グローバル・パワー」 としてのアメリカが, 21 世紀に, 太平洋という限定された地域の一員として, 他の構成員と協調体制を築くことができるか否かは不明である。
『変貌するアメリカ太平洋世界』 全 6 巻は, 約 60 名の研究者が 1998 年から 2002 年まで行った 「アジア太平洋地域の構造変動におけるアメリカの位置と役割に関する総合的研究」 というテーマによる共同研究の成果である。 歴史や政治外交, 安全保障の面からだけではなく, 経済・環境, 社会情報, 文化, 文学なども取り込み, このようなアメリカと太平洋地域の不安定かつ流動的な側面を, 真に学際的に分析している。 それにより, アメリカを相対化し, 太平洋地域とアメリカの関係を総合的に展望するという壮大な試みである。 果たして, この壮大な試みは成功したのか?結論を先取りして言えば, 世界に誇る日本の英知というべきもので, 太平洋地域研究における日本の学界の財産と言える。 各分野の最先端を垣間見ることのできる個別論文が, 経験豊かな一流の編者の下で各々個性的な一巻としてまとめられ, さらに各巻が上記の共通テーマを意識して編纂され, 収斂している。 まさに個別論文-各巻-全 6 巻シリーズが奏でる絶妙のハーモニーである。 これだけのものをシリーズ統括者, 各巻編者, 総勢約 60 名の研究者が 「船頭多くして船山に上る」 状態になることなく, 用語, 概念, 方法論などに対するかなり綿密な議論や分析を一致団結して行ったということは, すばらしいことである。
アメリカは植民地時代から政治的, 経済的, 文化的に大西洋世界に属していたが, 第二次世界大戦後, アジア太平洋地域への関与が強まった。 そして, 1980 年代ころから, この地域の政治的経済的重要性が高まるとともに, 太平洋世界の不可欠のメンバーだと主張するようになった。 このシリーズでは 「アメリカ太平洋世界」 という新しい 「場」 を設定し, アメリカのアイデンティティが大西洋世界から太平洋世界に大きく転換しつつあることの意義を解明している。
従来のアメリカとアジア・太平洋関係の研究は, 暗黙の前提として国民国家の枠組みがあり, 日米関係, 米中関係のような二国間関係の分析が主流だった。 しかし現在, 新たな 「場」 の設定により, 従来とは異なる分析枠組みが求められている。 このシリーズではそれに沿い, 「アメリカ太平洋世界」 というメガ・リージョンの下に, 北東アジアや東南アジアなどのサブ・リージョンを分析対象とし, サブ・リージョン間の相互関係やサブ・リージョンとメガ・リージョンとの関係が分析されている。
第 1 巻 「太平洋世界の中のアメリカ:対立から共生へ」 は, 「アメリカ太平洋世界」 が多層的・多極的な地域共同体秩序に昇華していく条件を追及し, その中に位置するアメリカと, 他の構成員との関係の歴史的変貌と現在形成されつつある様々なネットワークについて分析している。 第 2 巻 「太平洋世界の国際関係」 は, 「アメリカ太平洋世界」 の国際関係を体系的に理解するのに必要な分析枠組みを政治学的に検討している。 日本は直接分析対象になっていないが, 早いテンポで構造的に変容する日本の役割に着目し, 国際情勢を分析する発想の転換が必要だという前提に基づいた分析が行われている。 第 3 巻 「アジア太平洋の安全保障とアメリカ」 は, 国際政治学的観点から安全保障問題を分析し, 「アメリカ太平洋世界」 での安全保障システムはアメリカを中心として構成されているという点を強調している。 確かに, 安全保障は極めて多様化しているが, 究極的にはアメリカの安全保障政策とそれに対する構成員の反応が中核となっている。
第 4 巻 「アジア太平洋環境の新視点」 は, 主に経済学や環境学の手法を用い, 「アメリカ太平洋世界」 の環境問題を, 資源開発とその管理, 資源の循環という視点から分析している。 環境面では構成員の相互依存関係は明確であり, 従来の一国単位での環境制度など, 国民国家的発想の限界を指摘している。 第 5 巻 「情報社会変動のなかのアメリカとアジア」 は, 「アメリカ太平洋世界」 の情報社会変動を社会学・社会情報学の手法で分析している。 「アメリカ太平洋世界」 は冷戦終結後のグローバル化で大きな社会変動を経験したが, それが逆にグローバル化の内容を実質的に変えた。 第 6 巻 「太平洋世界の文化とアメリカ─多文化主義・土着・ジェンダー」 は, 「アメリカ太平洋世界」 の文化風景を, 歴史的視座をもった文化研究の手法で再検討を加えている。 「文化」 とは常に, 新たに生まれ, 育つものであり, その文化的アイデンティティが持つハイブリッド性と多様性を強調している。
以上, この 6 巻本は 「アメリカ太平洋世界」 という新たな分析の場を設定し, 様々な学問体系の手法を用いている。 そこに見られるのはこの共同体の多様性, 多層性, ハイブリッド性である。 本シリーズはアジア太平洋研究に関する日本の英知を集めたもので, アメリカを相対的にとらえる総合研究であり, アメリカ研究者には必読といえる。 早急に英語版を作成し, 世界に発信すべきではなかろうか。
杉田米行 (大阪外国語大学)
三輪公忠 著
『日本・アメリカ──対立と協調の 150 年』
(清流出版, 2005 年, 2,310 円)
著者は, 若くしてアメリカに留学し, ジョージタウン大学でアメリカ史, アメリカ政治を学び, プリンストン大学で歴史学を専攻し博士号を取得, その後長らく上智大学外国語学部教授, 同大学国際研究所長を務め退職した。 日米関係を歴史的に論ずるには, 体験の上からも, 研究の蓄積からも最適の老碩学である。
本書の副題 「対立と協調の 150 年─江戸から現代まで, アメリカの戦略を検証する」 をみると, 日米関係の通史かと思いがちだが, そうではない。 著者が折に触れ学会誌や総合雑誌に発表した論文, 論説を時代順に 5 章に分けて整理し直してまとめたものである。 とかく日本人は対米関係を人と人との結びつきの縁, 人倫として捉えがちである。 一方, アメリカ側には国家間に真の友情などないという冷酷な現実主義の政治があると著者は指摘する。 アメリカが文明観として自由, 民主主義, 資本主義を信奉し, 文明=西洋文明と考えそれ以外の価値観を排除する, 「野蛮」 への使徒として行動してきたことへの問いかけが一貫してなされる。
そうした視点は随所にみられる。 たとえばペリーが開国を要求して日本を訪れた際, 白旗を持参し, 「幕府は戦争しても勝ち目はない。 和を請いたいときは白旗を掲げよ。 そうすれば我方は直ちに砲火を止め, 交渉に応じよう」 とした事実はこれまで歴史研究者の間では大きく取り上げられたことなかったが, アメリカの自己中心的態度の例として紹介される。 日露戦争における日本の勝利を機会に日米関係は対立へと転ずるが, 著者は日本の指導者が歴史の勢いを読み間違えたのではないかという。 ハリマンが満鉄を日米合弁事業にしようと提案したとき, 日米ナショナリズムの鍔迫り合いと思わず, 資本と技術の地球化の必然と捉えることができたのではないか, もし日米合弁を通して満州の国際化が進んでいたなら, たとえ 「満州国」 が独立したとしても, その門戸が開かれている限り, アメリカは文句を言わなかったのではないかと指摘する。 日独伊三国同盟の締結が英米のグローバリゼーションに真っ向から挑戦するアウタルキー思想の同盟でアメリカとの対決を避けがたくし, 「八紘一宇」=日本の地域普遍主義がアメリカの自由=民主, 民族自決の原則主義と西太平洋で雌雄を決することになるとの分析は見事である。
著者の歴史家としての面目躍如を感じさせるのは, 『文藝春秋』 に発表された 「真珠湾 『騙し討ち』 の新事実」 と題するフリージャーナリストの論考の誤りを完膚なきまでに論破した一節である。 厳密な資料操作によりいい加減な推論を徹底的にやっつけるのはまさに胸のすく思いがする。
この際, 著者の視点からするコンパクトな 「日米関係通史」 を期待したい。
池井 優 (慶應義塾大学)
河内信幸 著
『ニューディール体制論
──大恐慌下のアメリカ社会』
(学術出版会, 2005 年, 6,500 円)
本書は 「ニューディール体制」 に関し, 政策の展開ならびに民衆運動の動向の双方を詳細に検討した文字通り包括的な研究であり, 700 ページを超える大著である。
著者はまずニューディール研究の現代的意義として, 今日のアメリカの保守化傾向の下でも 「ニューディール体制」 を継承する政策理念や社会システムが消滅したのではなく, その 「制度疲労」 の打開こそが課題となっているとの認識にたち, 現在も視野に入れた長期的なパースペクティヴでニューディール論を展開している。 ついでこれまでの米日両国におけるニューディール研究の成果を概括しているが, 諸学派の視点やアプローチが要を得た形で整理されており, きわめて有用な作業となっている。 本書の分析では戦後の 「コーポラティズム体制」 および 「現代アメリカ体制」 と関連づける視角に立って, 1930 年代のニューディールの社会・経済システムを民衆の動きを視野に入れて検証することを主眼としている。
著者はまず大恐慌の経済危機への対応として提示された諸政策構想を吟味しながら, 現実に形成されるニューディールの新たな政策体系を詳細に検討する。 ついでそこでの限界や問題点をチェックしながら社会保障制度やワグナー法の成立を中心とした後期ニューディールへの変動過程を分析し, そこに政府の 「ブローカー的機能」 を発揮させるイデオロギーとしての 「ニューディール・リベラリズム」 の形成を指摘する。 そして 1937 年恐慌を契機とする再度の政策論の転換の意義を論じつつ, 切迫した国際情勢の下での対外政策路線の動向と関連づけながら 「戦時体制」 に移行する状況を解明する。
以上のような 「ニューディール体制」 の形成・変容過程全体の分析においてまず印象的なのは, 依拠した豊富な資料はもとより膨大な先行研究の精細な吟味と活用であり, 個々の政策の非常に丹念な検討とあいまって, 本書はニューディール政策研究の一つの集大成といった観を呈しているようにさえ思える。 なかでも注目されるのはニューディールへの橋渡し的な位置を占める諸々の 「計画化」 構想, 初期ニューディールの矛盾や批判, さらには 1937 年恐慌のもつ政策面での衝撃などの丹念な分析を通して, 変動のメカニズムを浮き彫りにしていることである。 また新たな社会・経済システムの構築の下での民衆の世界についても, 近年の民衆史の研究成果をふまえながら, その政治的な意味合いの議論を深めている。 さらに通常のニューディール政策論では等閑視されがちな知識人の社会的活動や全米作家会議・全米芸術家会議の動向, あるいはニューディール美術行政の問題に焦点をすえたことも, この分野で造詣の深い著者の持ち味が遺憾なく発揮されており, 本書の重要な特色として高く評価できる。 これらの諸側面が照射されることにより, 大恐慌下のアメリカ社会の全体像がいっそう鮮明に描出されるからに他ならない。
新川健三郎 (フェリス女学院大学)
久保文明 編
『米国民主党──2008 年政権奪回への課題』
(日本国際問題研究所, 2005 年, 2,940 円)
本書は, その序文にあるとおり, 平成 15 年度に刊行された 『G・W・ブッシュ政権とアメリカの保守勢力──共和党の分析』 の続編である。 ともすれば合衆国のジャーナリズムの後追いに走りがちな日本のマスメディアとは明らかな一線を画して書かれた本書は, 21 世紀のアメリカ政党政治を考えるうえで必須文献の一つであろう。
ニュー・デモクラットたちの指導者であった B・クリントンが大統領になるとともに, 民主党の性格が大きく変わったのはよく知られている。 では, 彼の後継者であった A・ゴアが国制の危機をも生んだ空前の接戦で敗れた後, 2004 年大統領選挙で再び敗れ去った民主党は, どのような状態に置かれたのか。 2000 年選挙後に一時的に実現した上院での勢力均衡は 2002 年選挙でもろくも崩れ, 共和党支配が続く下院でも民主党が多数党化する見込みはまったくたっていない。 廣瀬淳子氏が執筆した連邦議会の動向を見ると, 共和党に有利な現在の選挙区割りが 「次の 2010 年国勢調査後の区割りまで継続することを考えると, 共和党に大きな失政やスキャンダルがないかぎり, 2010 年までは同党が下院で多数派を維持する可能性が高い」 (本書, 98 頁) のである。
イラク戦争をめぐりブッシュ批判を爆発させた民主党のリベラル陣営にとって, 共和党が支配する 21 世紀のアメリカ連邦政治は腐敗以外の何物でもない。 この腐敗に直面した民主党の意気は, J・ケリーの敗戦後, ますます軒高になっている。 久保文明氏の論文によれば, ニュー・デモクラットたちの多くはケリーではブッシュに勝てないとわかっていた。 また, 安全保障や文化的価値観の問題で党内左派の影響力を抑えようとする彼らにとって, 敗戦後の全国委員会委員長をめぐる人事も不安の種になっている。 予備選挙においてブッシュを痛烈に攻撃することで旋風を巻き起こした H・ディーンが, 委員長になったためである。 一方, リベラル派を分析した砂田一郎氏によれば, 草の根のネットワークを組織し有権者動員で成果を収めた彼らは, 自派の党内での影響力に自信を深めている。 逆風が続くなかでリベラル派とニュー・デモクラットは共和党打倒の一点に集中して大同団結せざるを得ない状況が生まれており, しかも, この両者が提携して党組織強化に取り組むなら, 次回の大統領選挙で民主党が勝利する可能性は高いためである。
本書には, その他に民主党再建の核となる J・ポデスタの動き, 民主党の外交戦略, 支持基盤であるマイノリティ, 労働運動, 訴訟弁護士を扱った諸章が置かれている。 そのいずれもが, 長期的な視点から民主党が直面した政治環境の構造的な変化を明らかにしており, この結果, 本書は息長く読み継がれる研究書になると思われる。
本書を受けた政党研究の課題を評者なりにあげるなら, 第一に, ニューディールはおろかニューレフトの時代の党の在り方からも脱皮しようとする民主党をアメリカの民主主義の歴史の上でいかに位置づけるか。 第二に, その名に 「民主」 を冠したこの党の現状を考えると, 20 世紀世界において民主主義の一つの典型であったアメリカ政治が 21 世紀に入ってもいまだ典型であり続けているといえるのか, この二つの検討ではないであろうか。
中野博文 (北九州市立大学)
吉田健正 著
『カナダはなぜイラク戦争に参加しなかったのか』
(高文研, 2005 年, 1,995 円)
アメリカ学会の姉妹学会としての日本カナダ学会が発足して 30 年になろうとしているが, この間カナダから見たアメリカについての研究書は意外に少なかった。 本書は, カナダ大使館での勤務経験もあるベテラン・ジャーナリストによる, 小冊子 (略年表, 参考文献を含め 270 ページ) の割に情報豊富な 「平均的カナダ人のアメリカ観」 についての手堅い入門書である。
周知のようにカナダは, 9/11 同時多発テロから 1 年後の 2002 年 10 月, 米英軍によるアフガニスタンの対テロ作戦には参加したものの, 翌 2003 年春からの対イラク戦には, 国連ないし NATO による正当性付与が十分でなく, カナダ国防法のもとでの参戦条件に適合しないとして参戦しなかった。 当時の世論調査でも米の対イラク戦争には正当性がないとする意見が 7:3 と大差で勝っていた。
どうしてこのようなアメリカとの乖離が起きるのか, 著者はアメリカとカナダの歴史を遡ってカナダ人の 「反米」 思想の源泉を解説, さらに現代カナダ社会における価値観がアメリカと乖離する様相をカナダの平和・法秩序志向とアイデンティティへの執着, 多文化主義, 政府の役割についての異なる志向性等, さまざまな概念や制度の違いを援用しつつ説明する。 その中で, 例えばケベック法をめぐるカナダ側の反応, とりわけケベックのフランス系住民や先住民関係への配慮, アメリカ独立戦争時の親英反米的 「忠君派」 (ロイヤリスト) のカナダへの 「亡命」, 1812 年戦争から南北戦争に至る数十年間, とりわけ 40 年代のアメリカの 「天与の運命」 (マニフェスト・デスティニー) 論の脅威や金鉱を求めてのブリティッシュ・コロンビア方面へのアメリカ人北上の懸念等, アメリカの膨張主義に対する懸念が, それへの対応策としての東西両カナダの連邦化と 「ドミニオン」 の地位獲得をもたらした経緯等が説明される。 アメリカの標準教科書的用語法に慣れた研究者にとっては, しばしば新鮮な視点や用語法が含まれており, 興味深い記述が随所にみられる。 もっとも著者の時に独自な用語法や訳語は, かならずしも他のカナダ研究者の同意を得たものではない。
他方, 軍事・政治面および経済関係におけるアメリカの圧倒的優位と, 「象の隣に寝るネズミ」 状態を脱却しようと絶望的抵抗を試みたトルドー政権をはじめ 「反米的」 カナダ・ナショナリズムと, 軍事的現実主義に立つ親米コンティネンタリズムの間でゆらぐ 「多国間協調主義」 の外交路線等, カナダが置かれた微妙な外交的立場も, あとがきに明らかな著者の個人的立場とは別に, 一応バランス良く紹介されている。
以上本書は, 英語系カナダ人の思考や用語法に精通した著者による信頼のおける入門書であり, 「比較北米研究」 の教科書としても手頃な書物であるといえよう。
小浪 充 (秀明大学)
川島正樹 編
『アメリカニズムと 「人種」』
(名古屋大学出版会, 2005 年)
本書は 「人種」 をキーワードにアメリカを読み解こうとする 12 人の研究者による, 米国最新の研究成果をふまえた意欲的な論文集である。 二部構成の I 部では植民地時代から 1960 年代までの歴史と 「人種」, II 部では現代米国社会と 「人種」 について論じられる。
序章は, 「アメリカニズム」 と 「人種」 の歴史的関係性を概観し, 「人種差別」 は米国の 「近代啓蒙的, 普遍主義的性格の限界を画するもっとも強固な壁」 であり, 「集団としての」 公民権運動は 「当然」 の帰結だが, 白人中間層の巻き返しや従来の 「統合イメージを破壊する」 多文化主義をもたらし, 「多から一を」 は新パラダイム創出を迫られていると論じる。
1 章は, 米国史ではその 「初期設定」 段階からすでに人種混淆をタブー視する 「人種奴隷制」 が展開され, これが独立革命にも求められたと論じる。 2 章は, 初期奴隷制廃止運動の黒人排除, 奴隷制即時廃止運動の背後の 「人種観の固定化」, ハリエット・ビーチャー・ストウやリンカーンに通底する 「黒人の国外排除」 論の意味を論じる。 3 章は, チェロキー族の黒人奴隷制は, ネイションとしてアメリカと対等な 「文明国」 たろうとしたからだが, 白人社会は彼らを 「文明人」 とは認めなかったと論証する。 4 章は, 再建期政治が 「国民という想像の共同体」 の創出を試み 「未完の革命」 に終わった理由を, 中国人排斥問題を軸に論じる。 5 章は, 移民の肌の色は何色かの境界は動いていたが, 黒人の北部移住でカラーラインの絶対化へと向かったと論じる。 6 章は, 「アメリカニズム」 に画期的変化を迫った南部公民権運動を地域闘争の参加者の視点から検討し, 「人種」 の脱構築の困難さと可能性を追求する。
II 部の 7 章は, 北部大都市の差別撤廃地域運動がむしろ 「人種の住み分け」 を促進したと論じる。 8 章は, ブラウン判決以降の公教育での人種隔離廃止と再隔離を検証し, カラーブラインド論は米国が 「長い間法律で強制していた差別の痕跡から開放された時に初めて妥当」 と論じる。 9 章は, 異人種間の性的関係, 結婚, 混血関連の法律を支持する社会のあり方, ジェンダー非対称とジェンダー秩序の問題性を考察する。 10 章は, 米スポーツ界における人種差別の歴史と 「根深くその壁を残存させて」 いる現状を考察する。 11 章は, 「権利の拡充が必ずしも社会関係の改善に結びついていない」 現状の人種排斥創出の政治の論理を検討し, 「アメリカニズムに訴えかける」 議論に共感を示す。 終章は, 南アフリカの人種隔離が比較的新しい歴史であり, そのフロンティア消滅と人種主義的隔離体制の出現が軌を一にし, 対抗して 「大西洋を越えた黒人の連帯」 を生み出したと論じる。
経済や階級 (または階層) 分化問題を避け, 新パラダイムは描けるのかとの想いは強いが, 「アメリカとは何か」 を改めて深く考えさせられる労作である。
竹中興慈 (東北大学)
田中きく代, 高木 (北山) 眞理子, 北米エスニシティ研究会 編
『北アメリカ社会を眺めて:女性軸とエスニシティ軸の交差点から』
(関西学院大学出版会, 2004 年, 2,835 円)
アメリカ研究において, 「周辺」 に置かれてきたマイノリティの視点から, いかに 「アメリカ」 を描き直すかが問われるようになって久しい。 また, トランスナショナリズムの発想が浸透するなか, アメリカ研究が, 合衆国だけでなく, カナダとメキシコも含めた 「北アメリカ」 という領域性を問題化できているのかという課題も呈示されつつある。 本書は, 歴史学, 文学, 文化人類学, 社会学, 教育学など様々な専門領域の研究者による北米エスニシティ研究会が, これらの二つの問いを, 「エスニシティ」 と 「女性」 という二つの軸にもとづいて検証した共同研究の成果である。
「はじめに」 では, 本書の課題として 「国境というボーダーランドを, 線から面へと可能な限り広げて, その空間に開花するハイブリッドな文化の諸相を, 女性軸とエスニック軸から切り込み, 北アメリカ全体の中に位置づけようとする」 (iv 頁) と述べられている。 そのような問題関心にもとづき, 各章の分析は, ディシプリン, 対象地域, 時代などにおいて多岐に渡っている。 序章で 「二つの国境」 という基本的視座を提示したうえで, 第 1 部では, エスニシティ軸に関して, ハワイにおけるアイデンティティ, 戦後カナダの日系コミュニティ, カリフォルニアにおけるバイリンガル教育, アファーマティヴ・アクションの現状などをめぐる議論が展開される。 また, 第 2 部では, エスニシティと女性軸が交差する例として, 19 世紀ニューイングランドの女性教師, 「写真花嫁」 と呼ばれた日系移民女性, 日系人女性とコミュニティ活動, ユダヤ系女性を扱った文学作品が取り上げられ, そして, 第 3 部では, エスニシティにまつわる記憶の問題として, アメリカ先住民と史跡, メキシコにおける聖母崇拝という題材が検討される。 さらに, 短いコラムでも各地のエスニシティや女性に関する興味深いエピソードが紹介される。
各章の分析は, エスニシティ, 女性, 記憶などの視座にもとづき, 既存の議論に果敢に切り込もうとしている。 しかし, その切り口を, 「北アメリカ」 という広範な空間へと再接合する作業については, 「おわりに」 で短く触れられているのみで, 残念ながら新たな北アメリカ像を描くに至ったとは言い難い。 むしろ, 本書そのものが, アメリカ研究における切り口や方法論の多彩さを示すと同時に, 北アメリカという共通の枠組を設定することの難しさを反映している。 本書は, 学際的な批判的対話を通して, 多くのアメリカ研究者に, 北アメリカの領域性を模索することの重要性をあらためて認識させるであろう。 さらに, ハンディな装丁の本書が, アメリカ研究を志す学生たちに, 「周辺」 の視点から北アメリカという空間を描き出すという問題意識を喚起させる契機となることを期待したい。 南川文里 (神戸市外国語大学)
相本資子 著
『エレン・グラスゴーの小説群
──神話としてのアメリカ南部世界』
(英宝社, 2005 年, 2,730 円)
アメリカ文学史上で 「南部ルネッサンス」 と呼ばれるものが, 「フュージティヴズ」 や 「アグラリアンズ」 などの男性文学者のグループを中心として起こったという従来の説に挑戦して, 実は彼らよりずっと以前, 19 世紀末に南部の女性作家は個人で 「ルネッサンスしていた」 と主張したキャロル・マニング編 『南部文学における女性の伝統』 (1993) は, 長らく南部女性文学研究者のバイブルであった。 その中で, 最初期の作家とされるケイト・ショパンとエレン・グラスゴーのうち, 日本ではショパンは翻訳も研究もある程度進んでいるが, グラスゴーについてはずっと遅れていた。 本書はその遅れを取り戻す契機となることが大いに期待される研究書である。
相本氏はグラスゴーの文学的発展を,19 世紀後半のアメリカ南部に支配的であった 「オールド・サウスの神話」 が作中でどのように扱われているかという視点から理解しようとしている。 第 1 章において, トマス・ネルソン・ページの作品を 「オールド・サウスの神話」 の典型として紹介しているのは, 議論を始める前に用語の定義づけをきちんとしましょうというわけで, 好感がもてる。
2 章以降, 『民衆の声』 に始まり, 11 章の 『この世の中で』 と 『敗北を越えて』, 終章の自伝 『内なる女』 まで, 主要な長編作品を年代順に取り上げ, そのプロットと主要人物像を通して上記のテーマが論じられている。 相本氏はグラスゴーが真のリアリストとなる最初の作品は, 「時間」 と 「変化」 を 「オールド・サウスの神話」 の最大の敵役とした 『ヴァージニア』 である, としているが, それ以降の作品が順調にオールド・サウスのイデオロギーを脱していくわけではなく, 作家自身の意に反した懐古的矛盾に陥ったりしていることを, 個々の作品の詳細な読みによって示している。 特に一般的に高い評価がある 『保護された生活』 や 『男まさり』 がそのような批判の対象になっているのは興味深い。 最終的に相本氏は, 最晩年の 『この世の中で』 と 『敗北を越えて』 においてグラスゴーは 「オールド・サウスの神話」 の枠を超えた主人公を創造したが, その超えた先は, 19 世紀後半のニューイングランドの女性作家が求めたような母権制的田園詩の世界に通じるもので, それがこの作家の限界であった, と結論づけている。 この種の作家論がともすればその作家を手放しで賛美する結論になりがちであることを考えると, 相本氏の冷静な批評態度は価値あるものである。
後続の研究者の課題の一つとして提案させていただくなら, グラスゴーの少なからぬ作品中で, それぞれはごく短くではあるが, 南部の工業化, 都市化の影が印象的に描かれている点である。 相本氏もそれに言及しているが, 評者としてはそこにさらに注目すべきではないかと思う。 南部の父権制に対抗する母権制というよりも, 近代化こそ 「オールド・サウスの神話」 を崩壊させる根本的な原因であることをグラスゴーは看破しつつ, 母権制的・反近代的田園詩に帰着したというこの作家が, 女主人公に焦点を絞る常套的フェミニズム批評では論じ切れない複雑さをもち, それが現代の読者を魅了するのだと思う。
ソーントン不破直子 (日本女子大学)
高橋雄一郎 著
『身体化される知──パフォーマンス研究』
(せりか書房, 2005 年, 2,415 円)
パフォーマンス研究 (Performance Studies, 以下 PS) という近年注目を浴びている学問分野についての, 日本語で書かれた最初の単行本である。 PS とは, 字義通りには 「パフォーマンスを研究する」 分野だが, 著者は, 研究対象を三つのカテゴリーに分けて考える──(1) 舞台芸術, 芸能として捉えられるパフォーマンス, (2) 日常生活におけるパフォーマンス, (3) 文化的パフォーマンス (18 頁)。 PS というと, 演劇やダンスなどのパフォーミング・アーツを研究する分野だという誤解があるが, 著者はまずはその誤解を解くことから始めている。 つまり, PS においては, あらゆる事象をパフォーマンスとして捉えうるが, 同時に, PS という呼称には, 研究対象をパフォーマンスという鍵概念で動的に理解する/記述する/クリティークするという方法論的意味合いが強いのである。
第一章 「パフォーマンス研究」 では PS の歴史的展開が辿られる。 1980 年代からニューヨーク大学を中心に演劇研究と文化人類学が出会うことで始まった PS の流れと, オーラル・インタープリテーションやコミュニケーション学の展開上に始まったノースウエスタン大学中心の PS の流れを概観し, さらには PS の日本への奇怪な導入の経緯が語られるのである。
二章以下は, 著者による具体的な PS の実践となる。 第二章 「争われる戦争の記憶──『エノラ・ゲイ』, 『昭和館』 と嶋田美子」 では, 戦争の記憶の表象装置としての博物館展示について, 1995 年にワシントン DC のスミソニアン協会航空宇宙博物館で開催予定だった 「エノラ・ゲイ」 展示問題と東京の昭和館が取り上げられ, さらに博物館的なオフィシャルな記憶の構築/ねつ造に対抗する美術作品を発表してきている嶋田美子の作業も論じられる。 第三章 「アメリカ 『発見』 の遊民族誌的パフォーマンス」 では, 博物館の制度的視線のあり方の関係を反転させるパフォーマンス・アーティストのグィエルモ・ゴメス・ペーニャらによるパフォーマンスが, 第四章 「長野オリンピック開会式と国民国家」 では, 長野オリンピックの開会式と 「国民」 というアイデンティ構築の問題が取り上げられ, さらに第五章 「東京の 『ミス・サイゴン』──観客の作り方と作られ方」 では, オリエンタリズムとポリティカル・コレクトネスの狭間で論議を呼んだ米国産のミュージカル 『ミス・サイゴン』 の, 東京での上演における脱政治化のモメントについての批判的な議論が展開する。
博物館的オフィシャルなパフォーマンスとその対抗パフォーマンス, オリンピックという 「国民的」 行事と 「国民」 というアイデンティティの構築, さらには自己オリエンタリズム (化) と芸術の脱政治化という契機へと, 本書で扱われる対象は雑多なように見えて, 著者の批評的関心は, パフォーマンスを鍵概念として, スムースに繋がっている。 その記述もパフォーマンス研究になじみのない読者を想定していて読みやすく, それでいて筆者の批判的分析は鋭く, また説得力もある。 パフォーマンス研究の実践的書物として, 本書が多くの読者を獲得することを強く望みたい。
内野 儀 (東京大学)
2006年04月17日 | アメリカ学会会報
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