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『アメリカ学会会報』第159号

巻頭エッセイと新刊紹介を掲載します。

Universal Jurisdiction とアメリカ 杉 浦 章 介 
  
 生まれたばかりなのに,直ぐにセピア色の化石となってしまったような,不思議な本が一冊ある。それは,米国元国務長官のヘンリー・キッシンジャーによって 2001 年に刊行された,Does America Need a Foreign Policy?: Toward a Diplomacy for the 21st Century である。不思議なのは,21 世紀におけるアメリカ外交と安全保障についての包括的かつ詳細な検討にもかかわらず,288 頁の本文中で,国際テロリズムの脅威については殆ど触れられていないからである。唯一の例外として,コソボ紛争への NATO の介入に関連して,旧ユーゴスラビアに起因するテロリズムについて言及がなされているだけである。その一方で,最終章にあたる「平和と正義」では,平和への脅威として,Universal Jurisdiction の考え方が批判的に検討されている。
 いうまでもなく,その当時,英国に亡命中のピノチェト元チリ大統領の身柄を,訴追のため,スペインの判事が引き渡すよう要求するという事件が起こっていた。キッシンジャー自身も,ピノチェト政権の弾圧政策に深く加担していたという疑いで,パリの判事から訴追される可能性があったことも直接,影響していたものと思われる。キッシンジャーは,Universal Jurisdiction という名の下に行われる,管轄外の外国人への刑事責任の追及は,なんら国際法における正当性の根拠をもたないばかりか,「司法の圧制(Judicial Tyranny)」をもたらす危険な議論である,と警鐘を鳴らしている。さらに,最終章の Universal Jurisdiction の節だけを独立させて,同じ年,すなわち 2001 年の Foreign Affairs 誌の 7・8 月号(Vol. 80 No. 4)に,新著の抜粋として特別寄稿をしている(The Pitfalls of Universal Jurisdiction, p 86-96)。その年の 9 月 11 日,同時多発テロが起こる直前のことであった。
 皮肉なことに,「対テロ戦争」の開始は,アメリカにおける Universal Jurisdiction の考え方を勢い付けることとなった。法と正義の名の下に,必要と思えば世界の何処においてもアメリカは力を行使する意思と権利を表明するとともに,それを正当化する論理を作り上げてきた。しかし,9・11 の以前にも,カンボジアのクメール・ルージュの指導者ポル・ポトの人道に対する犯罪を裁くために,アメリカ政府は,世界各国の中から,刑事訴追を行うことが可能な国を探し回っていたし,ルワンダにおける大量虐殺についても,その責任追及に関心を寄せていた。また,通商政策の領域においても,アメリカ政府は,アメリカ国内法の域外適用 (extraterritoriality)を,さまざまな二国間協議や WTO において頻繁に主張し続けてきている。
 「法の支配(Rule of Laws)」は,いわばアメリカの国是の一つでもある。しかし,jurisdiction に関してみると,法域や司法管轄権が何処まで及ぶのか,その正当性の根拠をめぐっては,必ずしも合意がなされているわけでもなく,また歴史的に見ても,一貫しているわけでもない。その一方では,インターネットの普及によって,テロリストやマフィアは楽々と越境を繰り返しながらコミュニケーションを行っているし,あるいはまた,ネット上で起こるために,jurisdiction が曖昧な民事係争は,今や例外というよりも,動かしがたい現実となっている。しかし,他方において,国際人権擁護運動や「人間の安全保障」の運動には,インターネットを手段としながら,Universal Jurisdiction の実現が不可欠であると考えているものも少なくない。こうした情報通信の環境の変化によって,jurisdiction の意味は今,問い直されているといえよう。
 化石にはいつも思いがけないメッセージがこめられている。(慶應義塾大学)

新 刊 紹 介

渋谷博史 著
  『20 世紀アメリカ財政史』全 3 巻 (第 I 巻パクス・アメリカーナと機軸国の税制,第 II 巻「豊かな社会」とアメリカ型福祉国家,第 III巻レーガン財政からポスト冷戦へ)
  (東京大学出版会,2005 年,I・II 巻 6,510 円,
  III 巻 6,720 円)
 本書は,わが国のアメリカ財政研究の第一人者が,20 世紀の国際政治経済におけるパクス・アメリカーナの確立とその拡大の過程を福祉国家の形成とアメリカ型の財政モデルとの連関において分析したものである。周知のように氏はこの 20 年間に『現代アメリカ財政研究』(1986 年),『レーガン財政の研究』(1992 年),『現代アメリカ連邦税制史』(1995 年)を上梓してきたが,氏自身の言葉を借りるならば,本書はそれら 3 部作の研究成果を「パクス・アメリカーナの機軸国アメリカが世界に提示するアメリカ・モデルとしてのアメリカ型福祉国家」という視点から再構成するものとして位置づけられる。まず,第 I 巻「パクス・アメリカーナと機軸国の税制」では,1950 年代までのアメリカにおける公共部門の拡大を,マスグレイブのいう市場経済と民主主義の発展の過程とピーコック=ワイズマンの転移効果の要因に加えて,20 世紀における機軸国としてのプレゼンスの強まりとその健全財政を基調としたファイナンスへの要請という要素から検証し,2 つの大戦における軍事支出を主因とした転移と連邦税制の負担水準の上昇,負担構造の変化がどのようにして国民に受容されていったかという過程が明らかにされる。次に,第 II 巻『豊かな社会』とアメリカ型福祉国家」は,「軍事も福祉も」(この指摘はアメリカ型福祉国家論における渋谷氏の重要な貢献の一つであるが)から「福祉」に軸足を移しながら機軸国としての機能強化を実現しようとする「豊かな社会」の試みを,ハイエクあるいはフリードマンによって描写された国民の保守的基盤と,ガルブレイス等が示した拮抗力(軌道修正)の存在によって紐解く。そして,第 III 巻「レーガン財政からポスト冷戦へ」では,アメリカ型福祉国家の「アメリカ的」再編を納税者の論理に誘導された財政・社会保障制度の改革=機軸国機能の再生のプロセスが検証される。
 一種の国際公共財の装置として機能してきたアメリカ型福祉国家の本質を,軍事と社会保障システムの拡充を通じて市場経済の補正と民主主義の強化を図ってきた 20 世紀アメリカ財政の分析を通じて明らかにすることで,氏が本書によってなした貢献は極めて大きい。それは,1990 年代に入ってにわかに,そして(肯定的な意味合いと否定的なそれの双方で)まことしやかに語られるようになった,アメリカ発のグローバリゼーション(グローバル・スタンダード)の本質とその意味を理解するうえでも,本書が有益な教示を与えてくれると述べれば,経済や財政の研究者以外の方にも理解して頂けよう。
  前田高志(名古屋市立大学)

大森雄太郎 著
『アメリカ革命とジョン・ロック』
  (慶応義塾大学出版会,5,040 円)
 本書は北アメリカ大陸のイギリス植民地が本国よりの分離・独立を決定するに至るまでの過程において,ジョン・ロック(1632-1704)の思想─とくに『統治論第二論文』(1690 年)─がどのような影響を及ぼしたかを,印紙法制定(1765 年)の前年から独立宣言(1776 年)の時期について,植民地および本国で刊行されたパンフレット・新聞記事等を通して辿ることを目的としたものである。
 ロックの数多い著作の中で『統治論第二論文』が最も頻繁に援用されたのは,そこに人間が生まれながらに保有する権利いわゆる自然権の概念,「同意なき課税」への反対論,あるいは植民地独立国家論に由来する抵抗権など急進的な思想が展開されていたからである。カール・ベッカー,ルイス・ハーツ等以来,この解釈が定着した。
 しかし,1960 年代以降,バーナード・ベイリン,ゴードン・ウッド,J. G. A. ポコック等に先導されたそれへの修正的解釈が提起されてきた。彼らの一連の解釈は「共和主義パラダイム」と呼ばれ,イギリスが過去において有していた均衡の取れた君主政・貴族政・民主政からなる国政への回帰および国民の「公徳心」の発揚をこの時代のさまざまな動きの背景に見ようとするものだった。
 本書は,「共和主義パラダイム」が行き過ぎたことへの反省から再びロックに戻り,アメリカ革命の思想の再解釈の必要性を説く。1764 年から 1776 年までの時期を 4 期に分け,各期毎に分離・独立の議論が高まる一方,各著作者がロックの議論だけでなく,「共和主義的」な議論をも取り入れて行ったことを明らかにする。その結果,本書は「ロックより他になし」(Locke et praetera nihil)とした従来の解釈より,意識的に「共和主義パラダイム」をも視野に入れている点で,概念的により緻密な思想史研究となっている。また克明に 1 次史料を辿っており,きわめて実証的である。
 著者によれば,独立宣言は理念的にまた実践的にロックの思想を援用することにおいてピークであった。しかしこの点を認めたとして,1 つ疑問が残る。すなわちアメリカ革命の後半(建国)に際して,ロックの影響は持続したのかということである。著者は,ジョイス・アップルビーの肯定的な解釈に与するのであろうか。
 索引は詳しく作成され便利であるが,トマス・ジェファソンと独立宣言の項目がないという重大な欠落がある。前者は 5,153,156,201,203,215-18,233,244,252,264,280-1,331,334-5 頁に言及されており,後者も少なくとも 224,252,263-4,267,304-06,309,315-23,389 に言及がある。それと,ジョン・アダムズがア行ではなくサ行に入っている(他に同様の例多数あり)ことが気になった。
  明石紀雄(筑波大学名誉教授)


古矢 旬 著
  『アメリカ 過去と現在の間』
  (岩波新書,2005 年,777 円)
 著者はアメリカを歴史的な構成体として理解したいという。9・11 事件以降の現代アメリカの特徴として著者があげるのは,5 点である。外交上の「ユニラテラリズム」,および今日世界的な規模に広がった「帝国」的支配のあり方が,最初の 2 つである。「アフガニスタンでもイラクでも,自由や民主主義というアメリカ的理念の実現のうちにこそ,真の「解放」があると信じ込む自己中心的楽観主義は,「自由の帝国」論や,「明白な宿命」からトルーマン・ドクトリンへと脈々と連なる世界観の系譜である」,と。ちなみに著者はその「帝国」が,今日では幾重にも断裂化した国内状況の苦悩の上にあるともいう。貿易・財政の双子の赤字,そして経済格差の拡大を伴う民族,人種間の亀裂の深刻化である。
 現代アメリカの特徴の第 3 は,近年のアメリカがかたる「きれいな戦争」という言説である。著者はここでもアメリカの戦争の歴史,また軍への意識をたどる。冷戦下になされた朝鮮戦争とヴェトナム戦争は,実際にはアメリカに多くの苦悩を与えたにもかかわらず,強大な敵ソ連,また国際共産主義体制との対峙として正当化された。以後の戦争は,国益さえ無視して戦争を正当化するその論理の延長上にあるのではないか。軍事科学の粋を集めた空軍,その優位がもたらす戦争を肉感なく空から眺める視線,また軍産複合体の影響力も重要という。
 著者が現代アメリカの特徴の第 4 とするのは,すさまじいまでに自己中心的対外観をかたる今日の保守主義である。ニューディールリベラルの崩壊をへて顕在化したこの新保守主義を,著者は 3 つの保守グループの合成体とえがく。青年期に社会主義などにかかわり後,右に転じた思想的・学問的新保守主義者,そして戦後反共主義の枠で育った対外的右翼,そして宗教的グループである。レーガン政権の登場が彼らの台頭の契機であったとする。著者が最後の特徴として挙げるのは,その,キリスト教「原理主義」の政治化した状況である。著者は今日,異様なまでに宗教が政治化しているあり方にも,根本原理はすでに完成しているし,その原理を守護する自己を普遍化する,アメリカ思想の特徴の 1 つを読み取る。非歴史的,抽象的な思考様式こそ,アメリカ原理主義,そしてまたアメリカの民主主義的思想の特徴でもあると。
 以上,著者があげる現代アメリカの 5 つの特徴をそれぞれに歴史的に説明する作業は力業というほかないが,それをいかにもスマートにこなす点が著者の卓越した力量であろう。ただし,そこで著者が用いる歴史的理解(もしくは手法)が,現代アメリカに対する著者の診断にある種の強い運命論的色彩を与えるのはなぜか。非歴史的,抽象的な思考様式,その呪縛から逃れられないアメリカという枠をあまりに拡大するとき,アメリカ史そのものまでも「非歴史的」,神話化なものに閉じこめないか。現代史につきまとう歴史叙述の難しさであろう。
  紀平英作(京都大学)

松田 武 編著
  『現代アメリカの外交
    ──歴史的展開と地域の諸関係』
  (ミネルヴァ書房,2005 年,3,150 円)
  
 現在,世界を覆うかにもみえる反米感情は,アメリカの単独行動主義的な軍事・外交政策を 1 つの引き金としている。対イラク戦争の開戦と戦後復興,地球温暖化対策のための京都議定書への対応など,ニュースで刻々と伝えられるアメリカの対外政策の諸相は,国際協調を軽視し「唯一の超大国」として振る舞うアメリカ像を描き出す。他方,アメリカ外交は,例えば北東アジアの安全保障問題においては多くの日本人からすれば妥協的ともとれる,繊細な外交姿勢を示したりもする。こうした異なる像の本質にあるアメリカ外交の行動原理は何か,この点についての理解は,アメリカ外交のそのときどきの決定がもたらす世界への影響の甚大さを鑑み,今日,極めて重要である。本書は,アメリカ外交の理念・戦術・手続きを,世界各地域・外交上の主要課題と関連づけて歴史的・包括的に叙述している。本書を通じて,ソ連邦崩壊と 9・11 同時多発テロという近年の二大事件後のアメリカがどのような道を歩もうとしているのか,共和国アメリカが「帝国」へと変貌を遂げるのか否か,事実と理論に基づいて検証することができる。
 本書は,I 国内的文脈,II 西半球・西欧など各地域ブロックとアメリカの外交関係,III アメリカ外交の主要課題の 3 部(全 17 章)に加え,日本におけるアメリカ外交研究の歩み(序)と外交関連諸機関についてのコラムから構成されている。本書を通読することにより,初学者は,アメリカ外交についての体系的な知識を得ることができるであろう。専門家にとっても,各章執筆者がそれぞれ掘り下げた論点について示唆をうける点が多いであろう。各章末の参考文献も,当該分野で読み続けられるべき内外の基本書,近年その分野で話題となっている書について,各章執筆者による簡潔なコメントが付されており,たいへん勉強になる。
 I 国内的文脈(歴史・戦術・政策決定過程)は,本書に先行する現代アメリカ外交の概説書では大部分を占める内容であるが,本書では I にコンパクトにまとめられている。本書の特色は II III にある。II は,アメリカと主要 7 地域との戦後の対外関係における相互作用を扱っている。アメリカ以外の国にとっての外交政策は,近隣諸国と地域ブロックとの対外関係・対米関係をどう処するか,という点に主に限定されている。それに対して,第 2 次大戦後のアメリカ外交の特質として,全世界的な利害を有する文字通りとして世界政策として立案され,戦後世界を構築してきたことが,II を通じて,浮き彫りとなる。III は,民主主義・環境・移民・技術・NGO・アメリカ化を扱っており,外交交渉における伝統的イシューにおさまらない,アメリカ外交が世界政策という性格をもつがゆえに必然的に取り組まざるをえない新たな課題をえぐりだしている。
  坂出 健(京都大学)

阿部珠理 著
  『アメリカ先住民──民族再生に向けて』
  (角川書店,2005 年,2,940 円)
  
 題名に著者の想いが込められている。アメリカ先住民は,アメリカ合衆国の歴史を通して,植民地主義,そしてジェノサイドの波を被ってきた。その悲惨な体験の記憶は,まだ過去のものとはいえない。また,徹底的な同化政策のもとで,先住民文化は深刻な危機にさらされてきた。その一方で,数々の困難にもかかわらず先住民族は生き抜いてきた。部族ごとに辿ってきた道のりや現在おかれた状況は大きく異なるものの,カジノ産業を軸にした経済開発や,部族主体の教育制度の強化をはじめとした,再生に向けた努力がなされている。先住民による,自らの「再生」に向けた動き,そしてその背景を解き明かす力作である。
 本書は,多角的に先住民族の歴史と現代社会を映し出している。カジノ産業で大もうけをし,民主党への高額の寄付の返礼に,クリントン政権時にはその族長が VIP 待遇でホワイトハウスに招かれるにまで至ったペクオート族。博物館に勝手におさめられてきた先祖の遺骨の返還を求める運動。数々の西部劇や『ダンス・ウィズ・ウルブス』など,白人の視点から作られてきたハリウッドでのインディアン像とは対照的な,先住民が制作側に名を連ねた『スモーク・シグナルズ』に登場するインディアンたち。時代の流れとともに大きな変化を遂げてきた民族による力強い息吹が伝わってくる。
 著者は過去 15 年にわたり,サウスダコタ州スー族保留地に通い,フィールドワークを続けてきた。現地に何度も足を運び,地元の人びととの交流を深めながら,アメリカ先住民社会を観察してきた著者ならではの,あたたかく,そして厳しい眼差しが感じられる。しかし著者が,居留地でのフィールドワーク中の個人的な体験,苛立ち,そして熱い想いを直接的に著しているのはあとがきである。本文ではあくまでも,豊富な 1 次・2 次史料を駆使しながら,先住民たちが現在抱える諸問題,その背景にある歴史や社会状況を,わかりやすく丁寧に解説するという姿勢を貫いている。研究者としての問題意識と観察眼を大切にしながら,長い時間をかけて培ってきた知識をもとに,多岐にわたるテーマを追求した総合的なテキストを著すこと。これこそが,著者が生身の人間として関わってきた,先住民コミュニティに対するコミットメントを示しているのではないか。
 貧困,疾病,犯罪,人種差別など,先住民族が直面する社会問題とはすなわち,アメリカ合衆国が過去と現在において抱える闇である。そして,先住民たちによる再生にむけた主体的な努力と希望とは,アメリカ社会に生きる人たちがもつ並々ならぬ可能性を反映しているとも考えられる。したがって本書は,アメリカ先住民学の優れたテキストであると同時に,現代のアメリカ社会を末端の位置から見つめなおすという,きわめて重要な視点を提供している。アメリカ研究に携わる多くの研究者,そして学生の皆さんにも必読の書として薦めたい。
  石山徳子(明治大学)

小澤奈美恵 著
  『アメリカン・ルネッサンスと先住民
    ──アメリカ神話の破壊と再生』
  (鳳書房,2004 年,5,040 円)
  
 本書は,17 世紀半ばに米文学が大輪の花々を咲かせたアメリカン・ルネッサンス期の先住民表象を扱った,日本では初の総括的な研究書である。作家が無意識に表象した先住民をも意欲的に炙りだす。この期の文学は 17 世紀以来のピューリタン文学および対先住民戦争史抜きには語れないという認識のもとに,遡及して論じる。昨今注目されているエイプスをとおして先住民側からの声も含め,先住民は自文化優越を疑わなかったという,我々が失念しがちな視点も盛られている。
 前半部「アメリカ建国神話の破壊と歴史的記憶の奪回」は,先住民が,存在を消されるためにのみ為政者が作り上げた征服神話に組み入れられてきた経緯を,ポカホンタスやメタカム等を引きつつ辿り,ソロー論に続ける。後半部「アメリカ建国神話と悪夢」は,捕囚物語に端を発するゴシックにおけるダーク・レディ考で,フィリップ・ヤングやユングを援用している。白人作家は,1830 年から強制移住させられて先住民が東部から概ね姿を消しても,憑かれたように先住民を描き続けた。ソローは,客観的に先住民をとらえようと努めるとともに,自然を変えることを好まない彼らとの一体化を目指したが,結局はソローですら文明と自然との間で揺らぎ続けた。“economy”を鍵語に,彼にとっての理想も丁寧に論じられている。また,ポーの美女再生譚,ホーソーンの『緋文字』,メルヴィルの『ピエール』において,無垢な男性主人公をアニマ的な闇に誘い込む黒髪のダーク・レディは先住民めくと論じられる。こうした異教の匂いのする女性が,白人が先住民を征服するポカホンタス神話を暗転させ,悪夢を司る。かくして,白人作家が無意識に領土侵略の罪悪感に責められていることがアメリカン・ゴシックの核であると著者は結論する。常に冷静な筆致ながら,抑圧されてきたアニマの回帰に対する男性のおののきと陶酔も伝わってくる。
 欲を申せば,イギリスからのゴシック系譜論で八木敏雄への言及がほしかったし,ポーの『ピムの物語』論はやや冗長であった。しかし何といっても,該博さはもとより,文学精読と歴史研究を丹念に融合させる難しさを思うにつけても,また両人種に中立な視座を貫くことの難しさを思うにつけても,本書はつくづく高書である。これに続く研究書が連綿と発表されることが待たれる。
  大島由起子(福岡大学)

吉田 亮 編著
  『アメリカ日本人移民の越境教育史』
  (日本図書センター,2005 年,2,200 円)
 日本人移民の教育に関する研究には,多くの蓄積がある。本書は,アメリカ日本人移民による教育活動について,これまで個別に進められてきた研究の中から,「越境」性が顕著なトピックを選択し,一冊にまとめた初めての試みという。
 本書は全体の見取り図ともなる序章「日本人移民の越境教育史に向けて」から始まり,10 人の研究者による論文によって構成される。第 1 章では,在米日本人最初の組織,福音会の活動に注目する。福音会は日本各地の支部で,渡米する者のため準備教育や手続きの世話をし,渡米後「適応」教育や就職斡旋を行った。この会の活動の中に,日本人移民が中国人との差異化を図ることで,「白人」との対等化をした試みが見られるという指摘は興味深い。
 第 2 章では,サンフランシスコ市における日本人学童隔離の問題を中心に,日本人子弟教育への日米関係の影響が分析され,第 3 章では,戦前ロサンゼルス近郊にあったカンプトン学園を例に挙げて,日本語学校を母語学校という「単なる言語運用能力を培うばかりでなく,大和民族の言葉という重みとコミュニティ存続の一端を担う教育機関」として論じている。第 4 章では,これまでは「日本語学校」として一括りにされ,個別に研究されることが少なかった仏教会付属の日本語学校について取り上げ,仏教会の教育活動が日本人移民によって「越境」し,後には二世開教使の養成をするまでに拡大していったプロセスを明らかにする。
 一方,第 5 章では,移民送出県であった沖縄県に設立された移民二世教育機関「開南中学校」の教育に注目する。移民二世の教育は合衆国内ばかりでなく,母国日本の教育機関にも委ねられた。東京などの二世教育機関は知られているが,多くの移民を送出した沖縄にあった同学校の設立からの歩みが語られる。また第 7 章は,第 2 次大戦以前のアメリカへの日本人移民に対する様々な「移民教育論」を紹介する。
 第 6 章,第 8 章ではそれぞれ,二世に短期間母国日本を体験させる「二世見学団」と,「二世の日本留学」を論じる。後者で論じられた「日系アメリカ人の越境教育」の二世架け橋論との関係や,日本人移民排斥の歴史と絡み合った時代的特殊性との関連は大変興味深い。さらに第 9 章では,日本外務省によって 1939 年に設立された敝之館という二世教育機関について詳細に分析している。最後に第 10 章は,強制収容所に抑留された日系二世に施された教育について,「越境」の視点から考察した研究である。
 「越境」を共通項に日本人移民教育を捉え直すことで,本書はこの分野に新しい光を投げかけている。編者も指摘したように,日米にまたがる越境教育ネットワークと満州,中南米,南洋などの関連地域への影響等,今後はより広範な「越境」研究の登場に期待したい。 
  高木(北山)眞理子(東海女子大学)

柴田元幸 著
  『アメリカン・ナルシス
    ──メルヴィルからミルハウザーまで』
  (東京大学出版会,2005 年,3,360 円)
  
 本書は,著者が「大学教師」になってから発表した論文 14 編に加筆修正を施し,新たに書き下ろした終章を加えて一冊にまとめたアメリカ文学論である。19 世紀文学論である第 I 部と現代文学を論じた第 III 部は,作品の発表年代順に展開されるものの,各論は実に多くの書物への言及に溢れており,個別的な作品論にとどまるものではない。著者は絶えず既に論じた事項へと立ち返りながら,あるいは,後述する問題を予示的に提示しながら,重層的な論を展開する。第 II 部は,コロンブスの新大陸「発見」前後の言説から,18 世紀のフランクリン的「自己改造」の精神が「世界改造への意志」まで拡張され「帝国主義」へと至る経緯を論じたうえで,ポストコロニアル的視点へと向かうアメリカ論。終章は,第 I 部から第 III 部へと至る過程における文学の流れを概観しつつ,2000 年以降の<現在>の状況にまで言及した総括的な論考である。
 『白鯨』全体に認められる「曖昧な鏡」としての水のモチーフ,そこに読み取られたイシュメールとエイハブのナルシス性は,本書全体を通して反復的に参照される。「我を捉えることの不可能性」を表象するイシュメール,そして,「自己自身であろうとする強烈な意志」を貫き,自己の「他者性」を引き受ける 「鏡像」としてモビー・ディックを追い求めるエイハブ。ここで出発した「ナルシス」のイメージは,「分身」「生きたままの埋葬」というポオのモチーフに示される「境界」の混乱,ハックの「自己自身であることの不可能性」,「他者の欲望」の模倣という『シスター・キャリー』にみる「近代的自我の全否定」へと脈々と受け継がれる。
 第 II 部では,アメリカをヨーロッパが「新大陸という鏡」のなかに見出した理想的自己像と規定しているように,「ナルシス」は国家の自己イメージにまで拡大する。そして第 III 部では,パワーズの「贋金」と「写真」,「不在」から「存在」へと移行するオースターの「都市」,エリクソンが幻視したジェファソン=アメリカの所有と自己定義,ミルハウザーの「複製」論などに,不可視で観念的な<現代的自我>をめぐってますます混迷を極めるナルシスの物語が読み取れる。
 やや異色ともいえる第 II 部最終章の「ジャメイカ・キンケイドの『小さな場所』第一章を教えることについて」では,難解なテクストに見え隠れするナルシスたちを探求する著者が,自らを「ナルシス」に擬え,「教師」としての「自己」の存在論的不安を曖昧な口調で告白している。このような自己言及的構造のなかに,「読むこと」「書くこと」を真摯に見つめる<文学するナルシス>の姿を垣間見ることができよう。そして,これらの互いに反響しあう物語が読む者を魅了するとき,彼らもまた自らが「アメリカ」という巨大で捉えがたい像の飽くなき探求者であることに気づくはずである。極東の<読書するナルシス>たちを刺激する必読の書である。
  渡邉真理子(福岡大学)

後藤和彦 著
  『敗北と文学──アメリカ南部と近代日本』
  (松柏社,2005 年,3,150 円)
  
 戦後 60 年の今年,戦争を知らない世代の研究者が,「なぜアメリカ南部文学に惹かれ,それを研究対象としているのか」という切実な自問に真摯に向き合う本に出会った。「近代という名の敗北」と「父・なき・世界」との 2 本柱で構成される本書は,これらの柱を取り巻くようにして「敗北から文学へ」という導入部と「敗北の文学のために」というコーダで終結する。いかにも情緒的な表現の導入部とコーダが読者を怯ませるかもしれないが,これらの情緒は 2 本柱を指し貫く情熱となり,いつの間にか読者は著者の冷静で説得力ある議論の虜になる。アレン・テイト,夏目漱石,三島由紀夫,ウィリアム・フォークナー,中上健次らを,数多くの資料,歴史書,研究書によって裏打ちしつつ,「敗北」と「文学」の必然的な結ばれ方を追って止まない重厚な文学論である。マニュアルによって形ばかりの論文を量産している読者には,これは決して真似のできない眩しい力業であることを知らしめるだろう。
 敗北によって「国」を失った南部の末裔たちは,鬱屈した父の世代を跨ぎ超え南北戦争で戦った祖父の世代とつながり,敗戦から 60 年後の 1920 年代から南部文芸復興と呼ばれる華々しい時代を出現させた。その時代の代表格で,1950 年にノーベル文学賞を受賞したフォークナーは 1955 年夏,日本を訪れ,「戦争に負けた南部と日本は戦争の悲惨な記憶を共有しているが,南部に記憶を紡ぐ文学が大きく開花したように,日本でもきっと敗北の中から豊かな文学が醸成される日がくる」という趣旨のメッセージを若者に贈った。それは,悲惨な戦争を「記憶喪失」させるような激甚な「新しい」意識を押しつけられたのち,その忘却の彼方から,南部の物語を紡ぎ出したフォークナーの自負に満ちた戦後日本への励ましの言葉だった。しかし,フォークナーが類似性のうちに描いてみせた敗北の南部と,明治維新と世界大戦という 2 度にわたる深刻な敗北によって<近代>という意識変革を余儀なくされた日本は似ているようで異なる「戦後」を迎えていた──南部文学は「戦い破れた祖先の重すぎるほどの遺産を『何ヒトツ忘レラレナイ』とのメッセージを前面に押し出すのに対して」,日本文学はむしろ「『記憶喪失』という歴史の指令にほとんど従順にしたがっているかのように見える」(322)と著者は両者の違いを説明している。
 本書は,南部文学論の常道であった題材と論者とのホモソーシャルな美学のうちに麗しく完成しているのだが,私は同じくアメリカ南部文学に惹かれても,著者とは異なる南部を切り取っているように思う。南部は「父」を頂点とする文化の大きな一枚岩ではあり得ず,歴史の胎動を廃墟の片隅から感じ取っていた弱者もまた南部の担い手であった,と,茶托を囲んだ子供時代の夕べに,「戦時中」の話を幼い娘に語り継ぎ,あれは「終戦」ではなく「敗戦」だったのだよ,と念を押していた父の声を想起しつつ,思う。
  藤平育子(中央大学)

加藤幹郎 著
  『映画の論理──新しい映画史のために』
  (みすず書房,2005 年,2,940 円)
  
 「作品論」に新たな意味をもたらした『「ブレードランナー」論序説─映画学特別講義』と『ヒッチコック「裏窓」─ミステリの映画学』のはざまに本書は出版された。ボディとなるのは,ニコラス・レイとジョーゼフ・コーネルを論じる第三章と第四章の各論考である。それらを挟み込むかたちで,映画と二十世紀の(一筋縄ではいかない)関係が考察され,CGI(Computer-Generated Imagery)の修辞的根拠が問いなおされ,スクリーンにあらわれる夢のモチーフがたどられ,最後には十四編の短評が配される。すべてを貫くのは,魂のゆさぶりを起点とする映画体験を,あらゆる側面から開いてゆこうとする記述の態である。
 たとえば男性メロドラマのうちにジェンダー・トラブルを看破するニコラス・レイ論。著者は監督によってひそかに仕込まれた過激さを,映画史,社会文化史,ジェンダー論やジャンル論などの知見によって照らし出す。わけても真骨頂は精巧なテクスト分析であろう。画面内の一見さりげない表象や装置がプロットや主題へと見事に構造化される,そのありようを著者は目で追い,筆で再生する。『危険な場所で』の美しい盲目の女性の瞳に転移する炎,『理由なき反抗』での感情の高ぶりの指標となる階段,『黒の報酬』で妻が見つめる夫の巨大な黒い影あるいは白い食卓。二十五年以上前に他界した監督と現在を生きる著者が目配せを交わし合う瞬間である。
 あるいは本書副題(「新しい映画史のために」)にもっともふさわしく,映画史をも開かせることを主眼とするジョーゼフ・コーネルの映画の探求。箱モノ作品『オブジェ(演劇ホテル)』や『無題(鳩小屋)』を映画の隠喩として語り起こした後,コーネルが手がけた 11 編の映像作品から彼自身の本質(欺瞞を排した 20 世紀ロマン主義)が見いだされてゆく。ガラスに守られ,リールに閉ざされた永遠のなかにコーネルは独自のユートピアを夢見た。思えばどんなに荒涼・不毛たる作品世界にも,ニコラス・レイはパラダイスの希望を必ずや(どんなにかすかにでも)仄めかした。およそ結びつきそうにないこの二人もアメリカ特有の楽観主義においてやはり地続きなのか,と推考せずにはいられない。
 とまれ散文的な日常を詩的な小宇宙へ組み直したコーネルを語るにふさわしく,本章の話法は硬質で美しい。どの作品もこの目で見てみたい,と思ってしまう。いや,本章に限らず,著者のことばが励起するのは,それを読む者の映画への欲望である。と同時に著者は,意味生成の場でせめぎ合う複数の力を見極めつつも,テクストを映画の話法と技法の実践史のなかに定位し,そのダイナミズムを損なうことなく吟味する。それは,対象たるメディアムが何であれ,研究者に求められる共通の矜恃であろう。
  栩木玲子(法政大学)

北野圭介 著
  『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』
  (平凡社新書,2005 年, 756 円)
  
 「日本映画」という名称がアメリカで意味するものは何だろうか。映画作品を文化論的見地から,交戦国,あるいは 被占領国 「日本」 を映し出す資料として読む姿勢が,終戦直前から戦後期のアメリカでは主流だった。本書は,そのような既存の社会科学的,人類学的な意味付けからはみ出てしまう日本の映画作品の到来を出発点に,戦後アメリカにおける「日本」像の変化と日本映画の受容,解釈を分析する。
 新聞,雑誌記事から学術的論文まで幅広い資料を駆使しながら,筆者は,日本映画をキーワードとする言説の形成と変容の過程を綿密に追っていくが,その際に,冷戦構造から近代化論,日本人論,グローバリゼーション,そしてポストモダン的映像文化の多様化などの各時代の主流となる思想と政治体制が映画言説形成の重要な要素として言及されている。ここで興味深いのは,「日本映画を語るアメリカ人」という主体が知識人層と一般大衆観客層という二重構造を持って浮かび上がってくるところだ。それだけに,両者の関連性についてもう少し説明が欲しいところだ。
 また,映画学という新しい学問分野の形成に関わる第二章と第三章は示唆に富んでいる。ここでは 1950 年代後半から台頭するフランス流の映画批評美学から始まって,映画自体に対する鑑賞姿勢の変化が問われ,黒澤からアニメ作家宮崎駿まで包括する作家主義批評の理論体系が紹介される。さらに黒澤,溝口,大島,小津映画をめぐって,ハリウッド映画に具現されるアメリカ覇権主義に対する内部からの批判的視座という問題が提起される。
 本書ではくわしく触れられてはいないが,1968 年以降,欧米で作家主義だけでなく,記号論,精神分析的映画理論等のフランスを中心とする新しい映画批評と分析体系が発展したことと,日本映画への関心とは切り離せない。バーチやヒースらに代表される,筆者が「前衛的映画解釈理論」と名づける理論的試みはアメリカで 70 年代映画理論とよばれるものの一部である。近年,アメリカの映画学者のあいだから映画学という学問分野自体の生成,発展の歴史を批判的に振り返る試みが相次いで出てきていることを鑑みると,時宜を得た書といえるだろう。特に 60 年代以降,大学改革と拡張の必要にせまられていたアメリカの各大学で映画学が構造主義,ディコンストラクション,ラカン派精神分析などと同時に積極的に取りこまれていったことと,日本映画という「他者」の視点を想定した西洋文明内部からの批判という問題は切り離せない。
 第四章は映画学からジャーナリズムを含む日本文化論へと視点を変え,80 年代における消費社会日本のイメージ形成とカルチュラル・スタディーズの台頭の関連性が分析される。第五章は 90 年代以降,映画にかわってアニメが映像文化表現の主要な媒体として受け入れられていく過程が,「流通の地球規模化」という問題に絡んで紹介される。「日本映画」だけではなく,公汎な「日本文化」を媒介にして見えてくるアメリカの文化史を鮮やかに語る一冊である。
  古畑百合子 (ブラウン大学・院)

川窪啓資 編著
  『ホーソーンの軌跡─生誕 200 年記念論集─』
  (開文社出版,2005 年,3,675 円)
 ホーソーン生誕 200 年を記念する出版企画が相次いだこの一年であったが,そのひとつミリセント・ベル編『ホーソーンと現実世界』が掲げた編纂理念は,没後 100 年記念論集のライオネル・トリリングを髣髴とさせる,「われらがホーソーン」像の構築だった。このベル編書の巻末にブレンダ・ワイナップルが寄せた文のタイトルは,ディキンソンの書簡から取られた「作家ホーソーン,伝記の材となることから逃れて」であった。生前よりたとえば義姉や出版者や政治的盟友・対立者,また同世代作家の手によって,没後も時代の思い描く作家像に染め上げられる形で,さまざまなる「われらがホーソーン」像の中に実像を拡散されていった感があるこの複雑な人格と生をどのように伝記化しうるのか。かつて『緋文字の断層』を世に問うた日本ホーソーン協会が,二年以上に及ぶ準備を経てこのたび記念企画として結実させたのは伝記,それも通常 「伝記がとる事実の調査探索の結果を記述する方法」を排して,「作品の中に,伝記的事実がどのように反映しているか」を考察することで「事実と想像力の関係を解明する」ことを意図したホーソーン伝である。
 あえて伝記の形態を選んだ本書の意とするところを端的に示しているのは,「主に戦争のことに関して」をめぐる山本雅による章であろう。「人間の偶然は神の目的である」という警句を軸に,現実の局面ごとに切り結ばれる人間関係や状況に応じ,また作家の内面の屈折に応じて共時的観点からするならば揺れ動く見掛け・表れをみせるホーソーンの生き様が,通時的な観点から見れば作家固有の思いや観念を拠り所として構造化されていることを検証するこの章は,一見不均質・エピソード的に写るかもしれない本書全体の構成が,じつは基点となる視座に貫かれた構造を目指していることを教えてくれる。たとえば編者川窪啓資や西前孝が辿る家族史と出自への意識,松尾祐美子や成田雅彦が捉える擬似的科学への傾斜と冷笑,高尾直知が検証する中産階級家庭と共同体の崩壊感覚,松山信直が探ってみせるポーとの接近と離反をはらんだ位置取り,大杉博昭が論じる三人の女性たちとの同様にアンビバレントな関係,阿野文朗がストウ夫人との対比から浮き上がらせる連邦瓦解の予感,さらには當麻一太郎や倉橋洋子が着目する精神的母国イギリスとヨーロッパへの愛憎並存的情緒-ほんの一端のみを取り上げてみても,これらの思いや情感,観念のそれぞれが,各章で着目されている時期や局面に応じて微妙に異なった表れをみせながらも,通時的には結節点的要素としてホーソーンの生総体に構造を与えていたことを本書は描き出してくれる。児童文学の構造分析やホーソーン家の文学的血統を論じた章も学ぶところ多く,なによりも浩瀚な資料を駆使したであろう藤村希の克明な年譜から,この作家が生きた軌跡が鮮やかに浮かび上がってくる。
  林 以知郎(同志社大学)

吉田廸子 編著
  『他者・眼差し・語り──アメリカ文学再読』
  (南雲堂フェニックス,2005 年,2,800 円)
 われわれアメリカのマイノリティー文学研究に携わる日本人の多くは,自己のポジショナリティーに関して悩ましい思いを抱く。それは,アメリカ社会の他者であるマイノリティーをアメリカにとってやはり他者である日本人がどう捉えるかという難問に突き当たるからである。吉田廸子編著『他者・眼差し・語り──アメリカ文学再読』は,序文に記されているように,この問題と正から向き合って他者の語りを評することの困難を浮き彫りにし,われわれにさらなる考察を促す刺激的な論集である。この書は吉田氏の退官を記念し,青山学院大学の同僚および氏の薫陶を受けた研究者による 9 編の論文から成り,「他者,眼差し,語り」の枠組みで広範囲のアメリカ文学・文化論が展開される。特筆すべきは,冒頭に置かれた吉田論文が思考の方向付けをし,それに呼応して後の論文は独自の地平からの展開を示し,最後の村山論文が吉田論文の投げた問いにさらに問いを投げ返すという,論集でありながら全体が一つの論としても読みうるまとまりを持つことである。
 吉田氏の「沈黙から対話へ─南部文学における眼差しと語りに関する一考察」は,氏の長年にわたる研究の成果を凝集した精緻で重厚な論である。論じられるのは,他者に向ける眼差しがアメリカ南部文学でいかなる意味を持つかである。吉田氏は「他者」を家父長制と奴隷制の下で被支配者であった黒人/女性と定義づけた上で,支配者の眼差しと他者の眼差しの構図をモリスンやフォークナーの文学やその他多様なテクストから生成し,それを 20 世紀の広範囲な文化史の中に位置づけ,眼差しの交差が対立から対話へ変遷する様をたどる。さらに,白人女性の無知と黒人女性の敵意と怒りを示す沈黙の視線の交錯が理解と共感に到達する様を描いた白人と黒人の 2 女性作家の作品を取り上げ,白人作家エレン・ダグラスが第三の眼差しとして語り手と語り手の背後の読者の視線を加えさらに重層的な視線の構図を設定したことに注目し,支配者と他者の間に生じた連帯と友情が本物かどうかという作家自身の厳しい問いかけだとする。
 この論を受けて,各論はさまざまなアプローチで眼差し,他者,語りのいずれかあるいはすべてに焦点を当てる。たとえば根本治は初期アメリカ文学における自然への眼差しの変遷を,米山正文はメルヴィルにおける黒人表象の意味の変容を,細谷等は都市という他者への眼差しの世紀転換期における言説を中村亨はヘンリー・ミラーの他者への眼差しの多層性を,西本あづさは社会の眼差しと個人のアイデンティティという観点から混血作家ネラ・ラーセンの境界横断性を論ずる。さらに村山瑞穂は,日系アメリカ人が白人対黒人という人種の対立構図にどう関われるかを問うヒサエ・ヤマモト作品を分析し,他者の記憶を語ることの困難を論じ,対立を安易に解体し連帯する可能性に疑問を呈する。
 いずれの論も,他者表象と眼差しという問題がはらむ複雑性を示し,背景の文化や歴史への深い認識を絡めたスリリングな解釈を提示している。本書は,マイノリティーの文学や文化研究をする者に多くの示唆を与えることは間違いなく,この分野の必読書となろう。
  河原崎やす子(国際医療福祉大学)

松本 昇・広瀬佳司・吉田美津・桧原美恵・
  吉岡志津世 編
  『越境・周縁・ディアスポラ
    ──三つのアメリカ文学』
  (南雲堂フェニックス,2005 年,2,940 円)
 全 6 章 18 本の論文からなる本書は,アメリカ作家が扱うディアスポラの「共通項と差異」を包括的に明らかにする野心的な試みである。最大の特徴は,1980 年代後半からエスニック・マイノリティによって抵抗言説として用いられるようになったディアスポラ理論を,その内部から自己批判的に再考しようとする動向を踏まえている点だ。その視点は,第三章で新田啓子が簡潔明快に示しているように,もともとはエスニック・マイノリティの独自性と権利とを保障するために謳われた多文化主義は,いまや差異を管理する「統治の方便」,「米国のナショナリズムを維持するためのレトリック」であると批判する立場に通底する。扱われているのは,ユダヤ系(アイザック・シンガー,エリ・ヴィーゼル,バーナード・マラマッド,ソール・ベロー,シンシア・オジック,スティーヴ・スターン),アフリカ系(ポール・マーシャル,ゾラ・ニール・ハーストン,トニ・モリスン,ネラ・ラーセン,リロイ・ジョーンズ),アジア系(レ・リ・ヘイスリップ,マキシン・ホン・キングストン,ニノチカ・ロスカ,ジェシカ・ヘゲドン,ラッセル・レオン,デイビッド・ムラ,カレン・テイ・ヤマシタ,ノーラ・オッジャ・ケラー)。
 各章は,「祖国と異国の狭間で」「記憶と語り」「多文化主義への挑戦」「ジェンダー・セクシュアリティ」「アイデンティティのゆらぎ」「ディアスポラの差異」と題され,三つの民族が固有にあるいは共に,現在もなお直面している政治文化的窮状が論じられる。と同時に,民族性の回復を優先しがちな対抗文化・記憶そのもののうちに,ジェンダーやセクシュアリティ等の差異を理由にした排除や歪曲があることが丹念に解き明かされていく。ディアスポラ理論を内部からずらしていく可能性が,イディッシュ語というそもそもハイブリッドな言語を再利用する点から示されるのも興味深い。ディアスポラのもつディストピア性とユートピア性との相克は,roots/ routes の関係を慎重に追うことにより,刺激的にかつ説得力をもって提示されると思われるが,ややもすると根付くことや民族性の発見へと収斂していくであろうと予測されてしまう論もなくはない。しかし全体として本書は,ディアスポラ的現象を,ある民族集団のみにそくして定義づけたり構築したりすることの危うさに敏感であり,多文化主義批評の文脈で,もはや単純化ないしは規範化すらされてしまった感のある反本質主義的読解に批判的であろうとする意志に満ちている。なおも細分化するアメリカ文学を論じる上で,必須の一冊であることは間違いない。
  深瀬有希子(慶應義塾大学・非)

2005年12月09日 | アメリカ学会会報