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『アメリカ学会会報』第158号

巻頭エッセイと新刊紹介を掲載します。

アメリカから,アメリカへ  阿 部 珠 理

 17歳の夏初めて留学して以来,アメリカとの付き合いもずいぶんと長くなった。人種差別の色濃く残る南部に始まり,ニュー・エイジ華やかな西海岸,クラス意識の見えかくれする東部,パワーエリートたちのワシントンDC,そして先住民保留地が点在する中西部と,我ながらさまざまなアメリカを経験してきたと思う。ここ10年ばかりは,ワシントンのスミソニアン自然史博物館を起点に,サウスダコタ州の先住民保留地に通うのが習わしになっている。
 泊るのは首都ワシントンのベッド・タウン,メリーランド州モントゴメリー郡ベゼスダである。前回の研究休暇で滞在し,スミソニアンへここから通うのに慣れてしまっているからだ。モントゴメリー郡は,全米で最も平均年収の高いところであり,住民の12%が大学院修了者と学歴もずば抜けて高い。ここからサウスダコタの,全米で最も貧しい先住民保留地ローズバッドに,何度出向いても,そのギャップに慣れることはない。
 スミソニアンはモールの直中にあり,回りには官庁がひしめいている。人々はしかつめらしい面持ちで,実に足早に歩いてゆく。省庁や議員主催のパーティーに出ると,ロビイストやパワー・ブローカーなど,政治をいわゆる「飯の種」にしている人たちがうごめいていて,相手の職業や地位に異常に反応するが,やたら表層的でかつ生臭い選挙の話などに興じている。一度東欧視察団のレセプションに参加したが,ミラン・クンデラの小説はもとより,「灰とダイヤモンド」の映画に話が及ぶこともなかった。
 ワシントンの就業人口の半数は,「プロザック漬け」だと冗談まじりによく言われる。プロザックは広く使われている精神安定剤である。地位の上昇や経済的成功,達成感へのドライブがやたらと人を不安にさせ,精神を病ませるらしい。
 こんなワシントンを後にしてサウスダコタにつくと,不思議と開放感と安堵観を味わう。なだらかな丘陵をぬって保留地へ向かう景色には,見渡す限り何もない。この何もない草原にポッカリと雲が影を落しているのを生まれて初めて見た時,私はいたく感激したものだった。また平原の果てに落ちる雄大な夕陽と,その時の空の朱は,天上の色を思わせて限りなく美しい。
 しかし保留地の人間関係の網の目の中では,「美しくない」ことも経験しなければならない。外からは一団と見える保留地も,部族内分裂が深刻だ。一派に組みしない私のような部外者は,あちらこちらで,他者への非難や悪口に曝される。19世紀末には,同化派と伝統派の対立であったものは,今は持てるものと持たざるものの対立になっているように思われる。8割が失業する保留地で,定期収入が見込める仕事を持っているだけで,嫉妬と羨望の対象になるのである。就職は明らかに教育程度に左右されて,高等教育への就学者が増える一方,部族内の教育格差は開いている。
 最近は部族間の経済格差も目立ってきた。これにはインディアン・カジノの存在が大きく影響している。連邦予算の削減に際して,経済的自立の一策として始まったインディアン・カジノは80年代から増え続け,マシャンタケット・ペクォードのような超リッチな部族も誕生している。彼らのフォックスウッズ・カジノは,西半球で一番大きく,1100億円の収益をあげる。
 今後ますます,私のゆく「アメリカ」は,増え続けるのだろうか。主流社会の階層分化は,明らかにその方向を示している。だが,富あるワシントンのあのせわしなさと対照的な,貧なる保留地の不思議な大らかさが,どこかで彼ら民族の分断に歯止めをかける気がしてならない。その大らかさはあるいは,アメリカ本来の「家主」の記憶の根底にある静謐な自信から来るというのは,単に私の思い入れにすぎないだろうか。(立教大学)

新刊紹介

小田隆裕・柏木 博・巽 孝之・能登路雅子・松尾弐之・吉見俊哉 編 『事典 現代のアメリカ』(大修館書店,2004年,16,000円)

 アメリカ研究者に必携の邦語事典としては,これまでにも『アメリカを知る事典』(平凡社)などの類書があったが,本書は,政治・経済・歴史・社会からサブカルチャー・日常生活までの幅広いジャンルから110項目を厳選して取り上げ,項目ごとにその由来・歴史的経緯などを詳細に論じており,短い説明文のみが付された従来の単項目形式の辞典・事典とは異なり,きわめて読み応えのあるコンテンツとなっている。引く事典というよりは,読む事典であり,また同時テロ以降,目まぐるしく変貌する「アメリカ」を読み解くための研究入門としても利用可能である。学生には手が出ない価格設定になっているのが残念ではあるが,アメリカ研究者に必携の事典の刊行をまずは素直に喜びたい。
 詳細に項目ごとに検討する余裕はないが,興味を持った章について若干,紹介しておきたい。まずAでは,グローバリーゼーションとアメリカをテーマに,マサオ・ミヨシの概論,9.11同時多発テロに関する三浦・巽の解説・分析が面白い。経済活動以外では宗教伝道(小檜山)や財団活動(前川)などへの多面的な目配りも新鮮である。
 Dは思想史から始まり文学・社会・経済・教育分野個々の学説史が13項目取り上げられているが,みな手堅くまとめられていて,アメリカ的知の枠組みの現在を理解できる構成になっている。また,社会運動を改革運動という軸でまとめたFも斬新でフェミニズム,ゲイ・レズビアン研究から障害学まで紹介されている。
 Gも,これまで採録されることのなかった企業経営・製造業の歴史や,軍事・情報メディアの現在が分厚く記述されていて有益である。Hは日常生活に関わる情報として,食べ物と健康産業,祝祭日,消費論などが面白かった。また,Iはメディア・カルチャーの歴史を俯瞰できる構成になっていて便利。最後の日米関係を扱うJまで,本書には,日々アップデートを求められる採録項目の新鮮度や情報の信頼度だけでなく,H・Iなどは評者のトリビアルな関心にもこたえてくれている。
 また,本書の特徴として指摘しておかねばならないのは,これまでのアメリカ関係の事典には添付されていないCD-ROMが付属されていて,全文検索機能がついているのがうれしい。だが一言苦言を申せば,アメリカ研究者に多いマック・ユーザーにも配慮して,ハイブリッド版CD-ROMであったならなおよかったように思う。  貴堂嘉之(一橋大学)


亀井俊介 監修,平石貴樹 編 『アメリカ──文学史・文化史の展望』(松柏社,2005年,3,600円)

 アメリカ文学史・文化史の展望を試みる16編からなる論集である。採りあげられているトピックは,アメリカ史とアメリカ文化史の関係(古矢旬),パリントンとそれ以前の文学史(大井浩二),マシーセンの『アメリカン・ルネッサンス』と左翼文学批評(村山淳彦),性とジャンルの視点から見たマシーセン(舌津智之),ニューイングランドと中西部の歴史(岡田泰男),二作家に見る南部の敗戦後論(後藤和彦),スパイク・リーとシルコウ作品に見る「仮面」(辻本庸子),フラーとエマソンの「友情」(荒このみ),オーツの短編作品と大衆音楽(柴田元幸),アメリカ文学史におけるリンチとブラック・ユーモア(巽孝之),トマス・イーキンズの『グロス・クリニック』(佐々木隆),アメリカの映画館の歴史(加藤幹郎),ブランチ・ダヴィディアン事件とヘヴンズ・ゲイト事件に見る「前千年王国主義」の変容(平井康大),ミンストレル・ショーの音楽に見るアメリカ性(佐藤良明),フィリップ・ロスの『人間の汚点』(吉原真理),そして,日本におけるアメリカ文学史(平石貴樹)である。多彩なラインナップだが,各章が単独の論考として読むに値する力作である。
 さて,編者「あとがき」によれば,本書は監修者でもある亀井俊介氏の「長年のアメリカ文学・文化研究をどのように受け止めるべきか」という「共通課題」を持つという。亀井氏の立場は巻頭の「序文」(「一日本人研究者の軌跡」)に示され,それは「専門家の立場に甘んじることなく自分自身の視点を,そして「心」を持ってアメリカの現象を見ること」,「個々の研究者がアメリカの全体像と独自に向かい合う姿勢が含まれるべきこと」(「あとがき」)として受け止められている。
 この「共通課題」への応答のあり方は論者に任されているというが,各論者が課題にどう応えたかに着目することが本書の一つの読みどころである。大衆文化を扱う論考が多いことはそうした応答の現れなのだろう。だが,本書に関してさらに強く感じられるのは,何編かの論考において,論者自身の立場とそれに基づく主張を打ち出す姿勢が鮮明であることである。ときには論者自身の経験やパーソナルな感慨も披瀝され,またそうでない場合でも,論者の主張は個人的な実感に根ざすものであることが見てとれる。そうした強い主張は,たとえばジョイス・キャロル・オーツの短編小説に描かれる主人公の無力さを,主人公のポピュラーソングへの耽溺のせいにする批評家たちに対して,むしろそのような無力さと愚かさに共感することこそが必要だと論じられるときに(柴田論文),あるいは,日本におけるアメリカ文学史のタイプ分けを進める際に,文学は歴史そのものからは自立した「芸術的価値」であるという前提が確認されるときに(平石論文)はっきりと感じられる。個人の実感に基づく強い主張の提示は,ともすれば学術的研究で尊ばれる客観性,一般性と齟齬をきたしかねないが,本書ではそのようなことはない。学術的な問いに対して取りうる複数の立場を示したうえで,その一つを選択する際の論者の態度表明が明確なのである。一読を勧めたい。  長畑明利(名古屋大学)


横田睦子 著 『渡米移民の教育──栞で読む日本人移民社会』(大阪大学出版会,2003年,5,800円)

 栞とは元来「枝折(しおり)と記し,山道などで木の枝を折り,目印となるような場所に掛けて,帰りの道しるべを意味するものが,転じて『栞』となった」という。著者は栞のこの意味に基づき,「日本人移民が」,「アメリカで生きていくための,現実的な道しるべ(移民教育)を提供した団体及び出版物」を「栞」と捉える。そして日本人移民時代の「栞や,パンフレット類」を,移民や移民予備軍に,いわば「異文化適応教育」をなしたものとして,分析を試みるのである。
 本書は6章で構成されている。第1,2章で移民研究史やごく簡単な日本人移民史にふれ,その後に続く第3章から第5章までが,本書の中心部である。第3章,初期移民渡米期の「栞」では,図書館学上では書物,雑誌と分類されている,いわゆる渡航案内書や渡米雑誌をとりあげ,その役割はまさしく移民の行き先への「道しるべ」となる「栞」だったとして,その内容を細かく紹介し,さらに分析している。また,これら書物と同様に「意味上の栞としての役割」を果たした移民教育団体のうち,特に日本力行会を取り上げ,その初期の移民教育の詳細な内容を明らかにしている。
 次に第4章,移民渡米全盛期の「栞」では,日本人渡米全盛期に移民していった多様な人々のうち,特に1908年の紳士協約以降多くの割合を占めることになった女性に注目し,彼女たちに向けて発行された栞やパンフレット類の分析が行われる。日本女性たちに手を差し伸べた基督教女子青年会(YWCA)と,アメリカの日本人社会を統率していた在米日本人会という二つの団体は,渡米前・後,女性たちにどのような「教育」をしていたのか。特に,当時よりよい日本人移民社会の形成のために女性たちに何が期待されていたのかは興味深い。
 第5章は,排日対応期の「栞」と題されているが,その内容は,ハワイ日本人社会におけるリーダーのひとり,奥村多喜衛牧師の排日予防運動である。ここでは,実際に強い排日運動の起こった米本土西海岸の状況を「対岸の火事」と放っておけなかった奥村牧師が進めた独自の運動のために,ハワイで発行された栞が取り上げられる。
 最終章では,「異文化適応教育」を提供した各団体,そしてその指導者たちを「文化化のエージェント」と呼び,いわゆる「紙上の学校」としての出版物の「栞」と,「文化化のエージェント」としての「栞」が互いに補完しあうような形で,日本人渡米(希望)者への有形無形の「道しるべ」となっていたのだとまとめている。
 移民の身近にあった「栞」のような資料はまだアメリカなどで眠っている可能性もある。それが発掘され,分析されて移民先アメリカ側の日本移民研究者にも紹介されていけば,移民研究の深みはさらに増すであろう。  高木(北山)眞理子 (東海女子大学)

入子文子 著 『ホーソーン・《緋文字》・タペストリー』(南雲堂,2004年,6,000円)

 ある文学作品について論じるにあたり,途方もなく膨大な数の先行研究を前にして,これ以上いったい自分に何が語れるというのか,と悄然とする瞬間はないだろうか。ましてやそれが『緋文字』のような「メジャー」な文学作品の場合には。
 本書は,そのような弱気な研究者の手をぐいと掴み前へと足を運ばせる,まさに“tour de force”である。F. O.マシーセンが『アメリカン・ルネサンス』で,メルヴィルやホーソーンの作品はイギリス・ルネサンスの脈絡において把握せねばならぬと主張したのに対し,著者は「イギリス・ルネサンスの文学や文化は,イタリアに発するヨーロッパ・ルネサンスを背景として捉えるべきものである」と応ずる。「フィチーノから古代のヒポクラテス,プラトン,アリストテレス,プリニウスへと遡って」研究を進め,「メランコリー」の系譜に興味を抱くようになった著者の視点は,ルネサンスの図像,すなわち「ホーソーンのテクストに表れるエンブレムやアレゴリー,紋章,刺繍,衣装,肖像画,行列,スペクタクル,宮廷仮面劇へと広がり,〈タペストリー〉に」達する。そして「これら全ての視点が,やがて『緋文字』の世界で総合化され」,このめくるめく大著誕生と相成ったのである。
 アーサー王伝説,『ルークリースの凌辱』,ハプスブルク家の王女マルガリータの結婚の祝祭,マサチューセッツ湾植民地第一世代の『総議会記録』など,ホーソーンが目にした可能性のある資料を片端から駆使しながら,本書は『緋文字』の世界を解体し再構築する。膨大な文献や図版を手がかりに,ディムズデイルの部屋のタペストリーやパールの名前に隠された意味を解き明かす一方,本書の議論は『緋文字』を超えホーソーン文学全体の意匠に及び,「ホーソーン独自の考察と言われる〈許されざる罪〉」を〈メランコリー〉の概念から,「ホーソーンの意味する〈ロマンス〉とは何か」を〈タペストリー〉という表現様式から,それぞれ定義づける。そして「ヘスターは妻として夫プリン氏の『近く』に埋葬されるのだ」というあの衝撃の新解釈──1990年の学会口頭発表時には聴衆を落ち着かぬ気持ちにさせた著者の独創的な,あまりに独創的なあの解釈も,タペストリーさながらに議論が幾重にも織り成された本書においては,はっきりとした輪郭をもつ図像として読者の前に立ち現れている。
 20年にわたる著者の『緋文字』研究の集大成である本書を読み終えて,嗚呼それにしてもヘスターとディムズデイルが死してなお隣に眠ることさえ許されぬとは,小説の結末としてやはりどうにも受け入れ難いのではなかろうか,と嘆く読者は,著者に劣らぬ愛と情熱と真摯さをもって『緋文字』研究に身を捧げる覚悟があるのかと,自問しなければならないだろう。  田辺千景(学習院大学)


明石紀雄 著 『ルイス=クラーク探険──アメリカ西部開拓の原初的物語』(世界思想社,2004年,1,680円)

 2003年,2004年,2006年は,それぞれ「ルイジアナ購入」後の探検隊派遣決定,ルイス=クラークの探険隊出発,そして帰還,それぞれの200周年記念にあたり,これまでアメリカでは,関連図書の刊行が相次いだ。
 Finding the West: Explorations with Lewis and Clark(Ronda, Univ of New Mexico P, 2001), Arts of Diplomacy: Lewis and Clark's Indian Collection(McLaughlin, Univ of Washington P, 2003), Our Natural History: The Lessons of Lewis and Clark(Botkin, Oxford UP, 2004)などがそれだ。アメリカの西部への膨脹の序章,露払い的役割を担ったルイス=クラーク探険は,アメリカ国民には良く知られた歴史の一頁であるが,スティーヴン・アンブローズのUndaunted Courage: Meriwether Lewis, Thomas Jefferson and the Opening of the American West(New York, Simon & Schuster, 1996)がニューヨーク・タイムスのベスト・セラーを飾るなど,ルイス,クラーク探険行路の各地で行なわれた記念行事とも相俟って,この初期の国家事業への国民的関心の高さを示した。
 本書は探検隊の事業の全貌を日本へ紹介し,その位置付けを考察する時宜を得た著作である。『ルイス=クラーク探険日誌』にとどまらず,探険に参加した他隊員の日誌,書簡,公文書,伝記など一次資料,および2次資料を博捜して,探険の構想段階から完了後まで,探険事業の全体を複数の角度から立体的に立ち上げている。探険隊の目的は,大平洋に至る水路の発見を始め,新領土内の地勢,天候,博物学的調査とインディアン諸部族との「友好」関係の樹立であった。
 本書でことに関心を引くのは,探検隊の先住インディアンの習俗の観察,および彼らとの交流である。インディアンへの贈り物が,探険予算の3割を超えていたことが本書より知れるし,お土産品のリスト中にあるビーズ,虫眼鏡,手鏡,指ぬきなど,当時のインディアンの嗜好品も分って興味深い。またインディアン部族への合衆国のピースメダルの贈呈がこの探険で慣習化していくことや,ルイスがインディアンに供されたサーモンから,太平洋にそそぐ川の存在を確信したこと,さらに探険隊で重要なガイドをつとめた先住民女性,サカガウィアの兄との感動的な再会など,興味深いエピソードに満ちている。
 ジェファソンの探険に対する指示からは,彼の見事なまでに周到な性格の一面を,探険後のルイスの懊悩から彼の名誉欲の強さ,またルイスとは対照的なクラークのバランス感覚など,探険の主役たちの性格を本書から読み取ることもできるだろう。本書中の写真は,探険行路の多くを,実際著者自身が踏襲したことの証である。  阿部珠理(立教大学教授)


近藤 健 著『アメリカの内なる文化戦争──なぜブッシュは再選されたか』(日本評論社,2005年,2,200円)

 日本語あるいは邦訳された書籍で「分断」「分裂」や「保革対立」など,広い意味でアメリカの文化戦争を扱ったものは多く,昨年ではハンチントン『分断されるアメリカ』,リンド『アメリカの内戦』が実に興味深かった。前者は移民,とくにヒスパニックの増大によるアメリカのアイデンティティの危機を論じており,読み方によっては人種差別主義的な排外主義を感じる。後者はブッシュ大統領を生んだテキサス州の特殊性を分析しながら宗教右派の神学と大統領の関係などを描いている。またライシュ『アメリカは正気を取り戻せるか』は,リベラルとラドコン(ラディカル・コンサーバティブ)の対立を分析,リベラルの復活に期待する。
 評者自身は,2004年大統領選挙で社会・道徳的問題で二大政党が鋭く対立し,有権者も真っ二つに割れていることに深刻な危機感を抱くとともに,再選された大統領がこの価値観の対立・分裂をどう緩和し修復していくのかに注目してきた。こうした状況のなかで目にしたのが,近藤健氏の労作『アメリカの内なる戦争』であった。本書の副題には「なぜブッシュは再選されたか」とあったので,大統領選挙分析を文化戦争の視点で扱ったものと思い,さすがジャーナリスト出身でアメリカの政治・外交を自分の目で見てきた研究者の作品らしいと率直に感じた。しかし実際に読んでみて,その期待を満たしてくれる構成にはなっていないことが判明したが,アメリカの文化戦争の歴史的背景がよく整理されている資料性の高い研究である。アメリカの保守化の流れがよく理解できるという意味では,著者があとがきで「一般読者を念頭に…イラク戦争に至るアメリカ政治の変容,W・ブッシュ政権の体質についての一つの物語のつもり」と述べている意図は十分に成功している。
 と同時に,「アメリカ政治外交(史)の専門家にとっては本書の内容の多くは既知の知見であろう」とも述べているが,これもまた正しい。第1章は,選挙結果を分析し「モラル・ヴァリュー」を論じて興味深いのだが,後の章は,すでに多くの研究発表がなされてきた共和党の変容,宗教右翼,最高裁と続き新味に欠ける。第5章のイラク戦争の文化的背景では最新の情報が詰まっていて興味深い。「おわりに 文化戦争のゆくえ」では,再選後のブッシュが引き続き宗教右翼の要求に応じて右傾化を強めるという見方を著者は支持する。その見方に基本的には賛成だが,宗教右翼の圧力というよりもブッシュ自身の考えが保守的であるからというべきだろう。
 全体として,政治に関する文化戦争を,対象とする分野をもっと限定して保守とリベラルの価値観の対立を分析したらよかったのではないかという印象をもったが,アメリカの保守化が体系的に整理されている本書の史料的価値が大きいという事実は変わらない。  上坂 昇(桜美林大学)


横江公美 著『第五の権力──アメリカのシンクタンク』(文春新書,2004年,700円)

 政策をあたかも新商品を開発するかのように生産し,それを綿密に練られた販売戦略にもとづき流通経路にのせ,ワシントンにおける政策論争に次々と新しいアイディアを供給していくシンクタンク。本書は,立法,行政,司法,そしてメディアに続く「第五の権力」と謳われるまでに成長したアメリカにおけるシンクタンクの現状を,最新情報を織り交ぜながら概観した,アメリカ政治の現場からの報告である。
 日本にもアメリカ型のシンクタンク設置の必要性が指摘されて久しい。しかし本書を読めば,シンクタンクが特殊アメリカ的風土に根ざした組織であり,その日本への導入が,いかに困難な事業かが見えてくる。研究活動をする組織ならば,日本にもいくらでもある。しかし,本書が明らかにしているように,研究活動はシンクタンクにとって,その活動の一部に過ぎず,むしろ研究成果を売り込んで,実際に政策として結実させることが最も重要な評価基準となる。
 本書第1章では,シンクタンクが,共和・民主両党の別働隊として機動的に活動し,政策研究と政治の狭間で効果的に影響力を発揮している様を描いている。次いで第2章では,政治的任命制度に代表されるアメリカの政治制度がシンクタンクの活動を支え,政策と人材が有機的に結びつき,ある種のサイクルを描いていることを指摘する。第3章では,有力シンクタンクをいくつかの類型に分類し,その代表的なものを様々なエピソードを交えながら紹介している。本書で,もっとも読み応えがあるのが続く第4章である。この章は,シンクタンクの活動をビジネスになぞらえ,「研究」,「資金」,「広報」,「人材」の四つの要素を充実させ,それを有機的に組み合わせない限り,シンクタンクの運営はできないことを様々な実例を挙げながら解説している。最終章は,社会保障改革,国土安全保障省設置など,イッシュー毎にシンクタンクの影響力を考察している。
 著者が「あとがき」でも述べているように,本書はアメリカ現代政治の潮流を「シンクタンク」というスコープを通して描こうとしたものである。本書はその目的を概ね達成しているといえよう。しかし,シンクタンクが「第五の権力」として影響力を発揮している点に対する批判的な視点が若干欠けているとの印象は否めない。現在のアメリカでは,大所高所から時代精神を論じることができるような 「パブリック・インテレクチュアル」の不在が指摘されている。過度の専門化は,なにもシンクタンクのみに見られる現象ではなく,一般の研究者の間にも見られる現象である。しかし,その傾向を先鋭的に反映しているのはシンクタンクの研究者であるともいえる。知識の過度な専門化による弊害という現象をどのように考えていくのか。本書を読みながら,アメリカの知識人の現状を改めて考えさせられた。  中山俊宏(日本国際問題研究所)


川澄哲夫 著 『黒船異聞──日本を開国したのは捕鯨船だ』(有隣堂,2004年,1,700円)

 川澄哲夫氏の『黒船異聞』は,主著である浩瀚な『資料日本英学史』や『中浜万次郎集成』といった膨大な資料の集積物を刊行してきた川澄氏が,いわば一種の軽妙な隠し技を見せたともいえる,きわめて魅力的な「読み物」である。それは,川澄氏が取り扱う時代背景とも深く関係する。いうまでもなく,日本史上で最も激烈なドラマが展開された時期──幕末である。日本の開国が関わるこの時期,そして西欧近代と鎖国日本が激しく正面衝突したこの時期は,それだけでも現代のわれわれの心を捉え込んでしまう。ただし川澄氏はこの政治的激動期の幕府要人や志士たちに目を向ける前に,数奇な運命をたどって日米の橋渡しをすることになった一人の冒険青年,中浜万次郎に照準をあわせ,「日本を開国したのはアメリカの捕鯨船と日本の漂流民だ」というキイ・ワードのもとに,この関心事に関わるありとあらゆる資料を収集し編集して,上記のような主著を刊行してこられたのである。そして万次郎から英語の手ほどきを受けた福沢諭吉をはじめとする英学者の群像を一大資料にまとめられている。しかし川澄氏の独壇場は「資料」に限定されるものではない。たとえば数年前に「高知新聞」に連載された「ジョン万次郎物語」に窺われる独自の視角と文体は,この『黒船異聞』にも生き生きと再生され,読者は「日本開国」の現場に否応もなく立ち会わせられる事になる。その視角の一例として,川澄氏がアメリカの作家メルヴィルに注目している点がある。メルヴィルはその主著『白鯨』で日本という言葉に20数回言及しているが,『中浜万次郎集成』でも「すでに捕鯨船が鎖国日本の敷居にまで迫っている」(24章)という一文が意味深く引用されている。さらに川澄氏は『黒船異聞』で,50章の,「捕鯨船は日本の難破船に乗って大海を漂っている,おかしな人間どもを拾ってゆく」という一文を引用する。このように,漂流民・万次郎のみではなく,同時代のアメリカ側の資料やテキストにも目を配り,それらを同時系列的に活写するという離れ業は,他の「万次郎伝」にはあまり見られぬものである。また文体についていえば,これまた『白鯨』のイシュメイルの語りを思わせるような,縦横無尽にしてユーモアに溢れた語り口であり,その中であの危機的な時期がまるでパノラマのように展開される。こうして「日本開国」が万次郎やペリーそして吉田松陰や通辞ウィリアムズなどの登場人物の具体的なエピソードとともに進行してゆく。それらがよどみなく展開してゆくのは,川澄氏が日本側のみならず,アメリカ側の資料を効果的に織り合わせているからであり,きわめて臨場感に溢れるものになっている。こうして日本の「近代」が「一発の砲弾を放つことなく」導き出されることになるが,その道程に捕鯨船と漂流民が介在していたことを,あらためて理解させられるのである。  牧野有通(明治大学)

2005年08月02日 | アメリカ学会会報