« アメリカ学会第39回年次大会プログラム | フロントページ | 公開シンポジウム「日系アメリカ人と日米関係の将来」 »
『アメリカ学会会報』第157号
巻頭エッセイと新刊紹介を掲載します。
ケイ,ギルマン,メイマー,らいてふ
──フェミニズムの連鎖──
武 藤 脩 二
シカゴ・ルネッサンスの一翼を担ったフロイド・デルは今ではあまり読まれないが,「熱烈なフェミニスト」と自称していたことはもっと忘れられているだろう。デルは『世界建設者としての女性』(1913)でさまざまな分野での指導的フェミニストを紹介しているが,シャーロット・ギルマンやエマ・ゴールドマンなどの他にエレン・ケイの名を挙げている。また『リトル・レヴュー』の創刊者マーガレット・アンダーソンも,若いときエレン・ケイを読んだと自伝に書いている。エレン・ケイはスエーデンのフェミニストで,その著書のいくつかを英訳したのはメイマー・ボースウィックという,かの建築家ライトの愛人でパートナーである(デルが紹介しているのは他の訳者による『恋愛と結婚』)。
ライトはヘミングウェイの生地オークパークでエドウィン・チェイニーの妻メイマーと恋仲になり,1909年にドイツに招聘されたとき,メイマーは途中で合流した。帰国後スキャンダル塗れになった二人はライトの故郷ウィスコンシンの丘にタリエセンという住居兼設計事務所を建て同棲生活を始める。その後数年の間にメイマーはエレン・ケイの著書を翻訳したのである。『婦人の道徳,その他の論文』(1911),『恋愛と倫理』(1912),『女性運動』(1912)など。他の訳者と共にメイマーはエレン・ケイをアメリカに紹介したのである。
メイマーとケイの関係は長い間不明だったが,近年ケイ宛の書簡が発見されて,二人の交流が明らかになった(Alice T. Friedman,‘Frank Lloyd Wright and Feminism.’ Journal of the Society of Architectural Historians 61‐2 [2002])。メイマーは夫と子供二人を捨ててライトのもとに走ったのだが,修士号を持った「新しい女」であったとはいえ,お堅いオークパークに代表される当時のアメリカという背景は拭いきれない。ライトとヨーロッパにいたとき偶々手にしたケイの本──自由恋愛による結婚と離婚を唱導している──に感動し,ケイの家を訪れた。ケイはメイマーを「アメリカの娘」と呼び,自著の翻訳権を与えた(ケイは他の人にも翻訳権を与えた)。帰国後もメイマーはケイに手紙をよく書いた。それが発見されたのである。
手紙によって明らかにされたことの中でも興味深いのは,シャーロット・ギルマンが数度タリエセンを訪れていたという事実である。ケイが『児童の世紀』(1900)で論難した『女性と経済』(1899)の著者ギルマンがケイの翻訳家メイマーと親密な関係だったのだ。またデルもタリエセンに来ていることが手紙に書かれている。タリエセンはシカゴのモダニズム建築と文学とフェミニズムのサロンとなっていたのである。しかし1914年,発狂した召使にメイマーたち7人が惨殺された。
もしもメイマーが生きていたら,ライトが帝国ホテル建設のために来日したときに同行し,ケイの英訳者,そしてケイの思想の実践者として日本のフェミニストたちに歓迎されたことだろう。ケイは日本でも大正期の女権運動に大きな影響を与えたことは周知のことで,平塚らいてふも与謝野晶子も「日本のエレン・ケイ」と呼ばれた。そしてケイの著書は多く英訳からの重訳で,英訳が出版された直後に本間久雄らによって翻訳された。日本のケイはかなりの部分メイマー経由だったのだ。
『児童の世紀』は日本でも広く読まれたから,ギルマンの名はケイを通して間接的に知られていたはずである。第二次アメリカ・フェミニズムが日本にも波動してから久しいが,ギルマンがケイとの関りで論じられたのは教育学者によってである(森田尚人「ケイ『児童の世紀』」村田泰彦編『家庭の教育』講談社,1981)。アメリカ文学・文化の領域では,ギルマンはケイ(やライトのパートナーとは知られていなかったメイマー)との関連では注目されず,もっぱら「黄色い壁紙」の作者,『女性と経済』の著者として論じられているように思うのだが,どうだろう。
(中央大学)
新刊紹介
砂田一郎 著
『アメリカ大統領の権力─
変質するリーダーシップ』
(中公新書,2004年,760円)
本書の著者は,ヴェトナム戦争時から米国の政治を注視し,執筆を重ねてきたヴェテランの研究者である。長年の蓄積の上に書かれた本書は,平易で読みやすいだけでなく,幅の広い深みのある著作となっている。
本書で著者は,クリントン政権(1993‐2001)とブッシュ政権(2001‐)の大統領職のあり方を米国の歴史的文脈の中で分析し,それを通じて21世紀のアメリカ大統領制の行方を問う。2001年9月のテロ攻撃後のブッシュ政権の政策を「戦時大統領制の再来」と位置づける著者は,「大統領の恣意がきわめて強く働いた対外戦争」を批判し,「ブッシュ大統領の保守主義グループの連邦政治支配」は長く続かず,いずれ民主党が復権すると予測する。
著者は,クリントン,ブッシュ両政権の対照性に関心をもっているが,同時に米国の大統領制の変化にも注目している。著者によれば,20世紀の大統領制は強い大統領権力を特徴とし,その基盤は1930年代のローズヴェルト大統領の時にできたという。この「現代大統領制」のもとでは,大統領は,自己の政策課題を立法化させようとする「主要な立法者」になる。「現代大統領制」は,第二次世界大戦後に制度化され,60年代に確立して,ジョンソン政権でその頂点に達した。しかし,70年代に入ると戦争権限法などにより大統領の議会への影響力は弱くなり,人々の大統領への期待も低下し,さらに冷戦の終焉後は,大統領が国民をリードする機会は,軍事や外交面でも減少していったという。では,今後の米国の大統領制はどのようになるだろうか。著者は,クリントンが行ったような三角型戦略(大統領が党派対立を超えた立場で,社会の多様な諸利益を集約する触媒の役割を果たす)に21世紀の大統領制の型を見出す。強大な大統領制は20世紀の現象で,21世紀の大統領は,権力分立制の中の大統領職という本来の姿により近くなるだろうという。
本書は全部で6章(国家元首としての権威,軍の総司令官としての権力と戦時大統領制,大統領選挙,大統領の権力とリーダーシップ,大統領制という組織,21世紀の大統領制)からなっている。初学者に有用な基礎知識が示されているだけでなく,米国の大統領制や政治について読者に考えさせる多くのヒントを与えている。
1996年の大統領選挙の時に,エドワード・ケネディ上院議員は,96年は60年にも匹敵する変化の年であると述べていた。60年にはテレビ,96年にはインターネットが大統領選挙に大きな変化を及ぼしたという。次作では,情報技術革命が米国の政治をどのように変化させてきているのかについて著者の分析を期待したい。
加藤洋子(日本大学)
西崎文子 著
『アメリカ外交とは何か─歴史の中の自画像』
(岩波新書,2004年,780円)
本書はアメリカ外交の単なる通史ではない。アメリカ外交のなかに息づく「理念」を歴史的文脈の中に見出そうとするものであり,しかも,その歴史的文脈は単線的なものではなく,「絶え間ない論争の歴史であった」とする。また,現在のアメリカが「隘路」であるという問題意識を下敷きとして,過去から現在への道筋をあぶり出している。
アメリカの歴史認識には,アメリカの選民意識や優越性という絶対化への指向と,それに反する異議申し立てという相対化の伝統があり,これがせめぎ合う形で歴史的自画像が形成されてきた。そして,このような歴史認識が外交上の主義につながり,たとえば,「孤立主義」もアメリカの選民意識にみられる孤高性の体現として理解されると,著者は論じる。
そのような明快な解釈枠組を設定して,アメリカ外交を,時代を追ってたどっているが,本書の特徴は,政治外交領域での議論のみならず,文学,社会思想,映画などにみられる思潮をも取り入れ語っていることである。詩人ホイットマン,社会学者リースマンなどを配置することで,必ずしもすべての場合において外交とのつながりが明らかに議論されているわけではないが,外交を時代的文脈の中で理解する効果的な舞台装置が設定されている。
「異議申立て」という歴史的文脈も印象的に語られ,戦争批判を行ったジャーナリスト,ランドルフ・ボーンやヴェトナム帰還兵ライデンアワーなどの論説や活動が織り込まれ,本書の叙述を色濃いものとしている。また,著者自身の時としては潔いとも思える解釈が盛り込まれており,読む者に心地よい刺激を与えてくれる。マクナマラの「見当ちがいの悔恨」,カーターのヴェトナム政策への「やや厳しすぎる」評価,ケナンの「変貌ぶり」など,著者の深い洞察力と知見を示すものであろう。
冷戦後のアメリカについて,著者はフランシス・フクヤマとハンティントンの論説を重ね,一世紀前に社会進化論を唱えたジョサイア・ストロングに共通性を見出し,また,ジョージ・W・ブッシュ政権においてウィルソン再評価の動きがみられ「ウィルソン・コンセンサス」が成立したと論じ,歴史的連続性があることを指摘している。このように現在の「隘路」に到る経緯が歴史的文脈にあることは,充分に語られている。但し,本書の後半では,「序章」で提起された選民意識,優越意識といった自画像への直接の言及は少なくなったように思われた。優越的自画像は現在のアメリカ外交を表す「単独主義」にどのように結びつくのか,たとえば,「単独主義」は優越的自画像の裏返しなのかなど,もうひとつ議論が欲しいと思われた。ともあれ,アメリカ外交を歴史的文脈,自画像,論争,思潮という側面から重層的に提示した著者の見事な仕事を称えたい。
篠原初枝(早稲田大学)
島田法子 著
『戦争と移民の社会史
─ハワイ日系アメリカ人の太平洋戦争』
(現代史料出版,2004年,3,200円)
言うまでもなく,太平洋戦争は1941年の日本軍によるハワイのパールハーバー奇襲を契機に始まった。そして,その瞬間から敵性外国人となった一世とその子孫を含む日系人は,当時のハワイにおける最大グループであった。にもかかわらず,ハワイの軍事体制下に発動された日系人の統制は,西海岸の日系人のように立ち退きや収容所抑留を強制するようなものではなかった。なぜか?この問いかけに対し,シカゴ学派の影響を受けた従来のアメリカの研究者は,「アロハ精神」と呼ばれるハワイの人種的寛容の伝統を根拠としてきた。そして,それゆえに日系人の主流社会への同化と民主化,エスニック文化の変化,日系人社会のリーダーシップをめぐる世代交代が戦中戦後にかけて実にスムーズに遂げられたとしてきた。
しかし,果たして「アロハ精神」をもって日系人の戦争体験の全てを説明できるだろうか? 著者は,英語文献だけに依存し主流社会側からの視点のみに立脚する先行研究の偏った分析を批判する。それは,ハワイの日系人の戦争体験を解釈するには,日系人が残した日本語の史料を検証し,日系人の視点から彼らの戦争体験を構築し直す必要性を説くことに他ならない。著者は,日系人へのインタビュー記録,個人の日記や手記,日系人コミュニティで発行されていた日本語新聞などの同時代の史料を掘り起こし,日系人による戦争体験の「語り直し」を試みる。本書は,新たに日系人の様々な経験を明るみにしながら,従来のハワイの日系人史の解釈を大胆に修正する大作である。
本書の構成である研究の枠組みを説明する序章,本編八章,そして全体を総括する終章からは,実証的かつ総合的な研究が展開される。第一章は日系人の真珠湾奇襲経験を紹介する。第二章はアメリカ化を推進した「非常時奉仕委員会」,二世女性の生活の変化と「女性戦時奉仕協会」の活動,そして二世の政治参加に焦点を当て,戦時中の二世の抑圧的な同化運動に対する一世の評価が低かった点を指摘する。第三章は「ハワイ大学必勝義勇団」,二世部隊,そして女性部隊を扱い,「積極的な犠牲」を伴った二世兵士の戦時協力の根底には主流社会の人種差別を糾弾し,アメリカの民主主義を推進する意図があったことを論じる。第四章は日本語学校について,第五章は仏教寺院について,続いて第六章は神道について,それぞれの抑圧,封鎖,解体,そして戦後の復活の過程をたどり,日系人の諸制度および一世のリーダーシップの復興や文化変容の実態を提示する。併せて法廷闘争により民主主義が保証された重要性を指摘する。第七章は戦後の日本文化復興の一形態として一世の「勝った組」現象を解釈する。そして第八章は沖縄出身者の戦争体験を取り上げる。
本書のすみずみに響き渡る日系人の「語り」は,「単純でも単調でもなく,大変興味深い」(115頁)。その声はパールハーバーを契機にハワイで起こった日系人の「文化戦争」が,従来の解釈とは裏腹に,葛藤,屈折,そして人間の逞しさに満ちていることを伝えている。
田中 景(県立新潟女子短期大学)
荒このみ 著
『アフリカン・アメリカン文学論
──「ニグロのイディオムと想像力」』
(東京大学出版会,2004年,4,800円)
ラルフ・エリスンを包括的に論じる研究書は意外と少ない。本書が指摘するように『見えない人間』はアメリカ文学キャノンの中心にあるべき作品なのだが,多くの批評家がその位置づけに躊躇してしまう。アメリカ文学という大きな流れのなかで捉えれば,エリスンの持つアフリカン・アメリカンな部分を軽視してしまう可能性があり,「黒人文学」といった限定された領域で論じれば,エリスンのアメリカ的精神の表現を見落とす危険性がある。その点,本書は『見えない人間』をラルフ・ウォルド・エマソンの「個人主義」と「自己信頼」の思想に結びつけつつ,多数のアフリカン・アメリカン作家による作品と重ね合わせ,そこからエリスンのアメリカ的価値を見出すという,多角的で貴重な研究書となっている。
第一章では「人種」をテーマにしながらもそこに囚われず,常に「個人」を意識していたエリスンの姿勢が浮き彫りにされている。リチャード・ライトが共産党という組織の枠組み内で人種差別構造からの解放を求めたのに対して,エリスンはあくまでも個人の自由と解放を求め,アフリカン・アメリカンのアメリカ人としての存在証明を目指した,と著者は指摘する。アメリカ人とは必ずしも白人である必然性はないと示すジョージ・S・スカイラーや,黒人の文化こそがアメリカ文化であると断じるW・E・B・デュボイスらを論じたうえで,エリスンの作品を分析する著者の展開には説得力がある。
第二章では可視・不可視性をテーマに,さらに多くの作品が考察されている。アフリカン・アメリカンは,肌の色ゆえに可視性が顕著であるのにもかかわらず,アメリカ社会からは「見えない」つまり存在が認められていない。肌の色やパッシングなどの問題が,実は存在証明を探求するアメリカ的なテーマであることを著者は明らかにする。圧巻は,チャールズ・チェスナット,ネラ・ラーセン,エントザキー・ションゲなどさまざまな時代の黒人作家を自在に行き来しながら通底するテーマを論じ,さらにはアメリカ社会における「黒さ」,「白さ」の持つ意味をメルヴィルなどから示しているところである。
第三章ではエリスンがエマソンの思想を継承していると論じられ,さらには,黒人がアメリカ社会で生き延びるためには,民主主義の理念が精神的基盤となることが示される。20世紀の「グレイト・マイグレーション」をテーマとした作品をいくつも取り上げ,「黒人のアメリカ化」を検証した考察はとくに印象深い。
終章では,エリスンのアメリカ文化を成立させたのは白人だけではないという主張が確認されている。
本書がエリスン論に終わっていないところも注目に値する。アフリカン・アメリカン文学に広く見られる「アメリカ的精神」を示しながら,アメリカ文学あるいは社会とは何かを問い直したのである。そして,アフリカン・アメリカンの現実を抜きにしては共同体としての「アメリカ」を語ることはできないことを明らかにした。ともすれば狭い範疇で論じてしまいがちなアフリカン・アメリカン文学を,アメリカ文学の不可欠構成要素として明確に位置づけた著者には心から敬意を表したい。
奥田暁代(慶應義塾大学)
増永俊一 著
『アレゴリー解体
──サナニエル・ホーソーン作品試論』
(英宝社,2004年,2,800円)
本書は〈アレゴリー〉〈進歩の神話〉〈職業作家〉という三つの観点から,アメリカの過去を題材とする宗教的アレゴリー色の強い作家という従来のホーソーン像を解体しようとするものである。アレゴリーは事物と観念が一致し,解釈の余地を残さないはずのものであるが,ホーソーンの作品ではその構図が崩れ,多様な意味が生じる。これが著者のいう「アレゴリー解体」である。その原因は「19世紀アメリカを生きた一作家の複雑な眼差し」にあり,その眼差しは,第一には,「若いグッドマン・ブラウン」論(1章)で述べられているように象徴主義への傾斜から生まれてくる。さらにそこに19世紀アメリカの現実(社会的事象と文学の市場性)が関わってアレゴリーの純一性が失われ,意味が一段と多元化していくのである。
本書の主眼は,このような作家性と時代性の絡まりを検証し,そこから19世紀的な〈進歩の思想〉に対するホーソーンの批判を読み解くことにある。「解体」という題名から誤解されるかもしれないが,かつてのデコンストラクション批評の面影を微かに残しながら,綱渡り的な読み方とは無縁の非常に落ち着いた筆致で論が展開されている点,また,文学作品の歴史性を重視した論調であるという点で,近年の研究動向を意識しつつ手堅くまとめられた研究書となっている。
作品論は8章あるが,特に,短篇を論じた章はテクストの表現と時代の関わりが丹念に検討されており総じて説得力がある。中でも,読者受けを考慮して〈家庭〉という主題やセンチメンタリズムといった19世紀当時流行の要素を取り入れる一方で,クエイカー教徒を迫害するピューリタンの子どもの残酷さの中に寛容の精神や進歩思想に対する懐疑を織り込んだとする「優しい少年」論(5章)や,フロンティアでの埋葬とその不履行に関して,従来の宗教的な贖いの寓話説や深層心理学的解釈では掬いきれなかった歴史的・社会的意味を読み取り,作品全体を「近代アメリカの挫折の寓話」と解釈する「ロジャー・マルヴィンの埋葬」論(6章)は最も読み応えのある論考である。また,短篇論ではないが,児童文学が19世紀前半に持っていたナショナリスティックな性格に言及しながら,作品に内在する資本主義批判を探り,椅子の折れた脚に時代へのアンチテーゼを読み取る『おじいちゃんの椅子』論(7章)も興味深い。
ただ,毒と薬の両義性を19世紀に流行した同毒療法と結びつけて読む「ラパチーニの娘」論(2章),見せしめの刑罰が17世紀に有していた公的な警告という意味が,ヘスターによって個人的・内面的な矯正に変化する過程に,19世紀における懲罰の変質の反映を見る『緋文字』論(4章)は,そこで取り上げられている社会的事象をもう少し掘り下げて論じて欲しかった。しかし,本書によって改めてホーソーンの言語表現の巧妙さ,奥深さに触れることができるのは確かであり,広く推薦したい。
西谷拓哉(神戸大学)
佐々木 隆 他編著
『表象と生のはざまで──葛藤する米英文学』
(南雲堂,2004年,8,000円)
43名の気鋭の研究者が古今東西の英米文学作品を,まさにボーダーレスに論じた論文集が本書『表象と生のはざまで』である。750ページを優に越える大著であり,論じられている作品群のジャンルや時代のどれをとっても,そこに恣意的な「限定」という要素は見出せない。ちなみに扱われているアメリカ作家をいくつか紹介してみよう。トニ・モリスン,イーディス・ウォートン,トウェイン,ホーソーン,フランシス・キング,ジョン・バース,ウォーレス・スティーヴンズ,フォークナー,ヘンリー・ジェイムズ,ベロー,マラマッド,アップダイク,ユードラ・ウェルティなどなど。
あえて時代的な配列を無視して本書で扱われている順番に沿っていくつか拾い上げてみたが,実はここで挙げた作家も本書で論じられている作家の半分にも満たない。扱われているイギリス作家を含めれば,名前を列挙しただけで紙面が尽きてしまうであろう。加えて,論じる対象は小説,詩,演劇,絵画に限らず,『フォレスト・ガンプ』などといったハリウッド映画までもが分析の視座として利用される。このような大著に統一的方向性を与えようとすることの不合理さを編者もおそらく意識していて,従来の批評秩序の転倒というある種の反逆精神を匂わせた大胆な手法でまとめ上げている。このことは,本書の副題に「『米英文学』という呼称のぎこちなさをあえて引き受けてみる」という決意と,「アメリカ文学の新しい時代からイギリス文学の先行する時代へと時間的に遡及する形で配列してみた」という編者の言葉に読み取れよう。
このような多くの筆者から成る大著を同一の鑑賞温度を持続しつつ読破することは極めて困難である。しかし本書に限っては,こちらの鑑賞温度を自然と高めてくれるような論文に出会うことが多かった。例えば,へスターの元夫の老医師ロジャーと姦通の罪を背負った牧師アーサーとの間におけるホモセクシャルな要素を指摘した山下昇氏の『緋文字』論,さらには19世紀半ばにミシシッピー川の風景と風俗を描いて流行したパノラマ画や風俗画とミシシッピー川を舞台にしたトウェインの一連の作品との間に描写方法の符合がみられる点を明らかにした佐々木隆氏の論文などには新たに教えられる点が多かった。
付言しておくが,本書は同志社大学名誉教授の岩山太次郎氏の退任記念論文集であり,氏の指導を受けた研究者の論文を中心に構成されている。そのことに思いを致すと,同じ学窓を巣立った研究者たちが,これだけ多様で地に足のついた文学研究の世界を切り開いていることに改めて驚かされる。研究の勘所を自らの関心や批評理論を押し付けることなく後進の指導にあたった岩山氏の学問への謙虚さと誠実さが本書を通して伝わってくる。
石原 剛(早稲田大学)
岡田皓一 著
『非常事態とアメリカ民主政治』
(北樹出版,2004年,2,700円)
魅力的なテーマである。ほぼ10年前,カリフォルニアでの大地震と阪神淡路大震災が相次いで発生し,アメリカでのFEMAの存在や,日米の対応の差異が話題となったのはまだそれほど過去のことではない。しかしながら,緊急事態にいかに迅速に対応するかということと,市民の行動の自由を確保するということとの間には当然ながら緊張関係が存在する。9.11テロ事件直後に問題となった「愛国者法」に想起されるように。
本書は,数人の大統領に焦点を当て,その時代背景,そしてそのときに起こった非常事態への対処の検証からその問題に接近している。この場合大統領とは,選挙という民主主義を具現化する制度によって国民からの信託を(少なくとも形式的に)受けているにもかかわらず,その自由を時として制限しなければならない立場に追い込まれる,上記の緊張関係に内在するパラドクスを象徴するかのような存在に見えてくる。
本書の半分程度の分量で詳細に取り上げられているのはリンカンの大統領命令による奴隷解放予備宣言,戦時下の言論・出版自由制限などを含めた南北戦争時における,「準独裁」とまで形容された統治形態である。立法府優越の思想の下に成立した合衆国憲法は大統領を比較的弱い存在に位置付けているとはいえ,それが模範でもあった19世紀半ばにおいて,アメリカ自体が分裂した非常事態,加えてそれに対処するために大統領権限の未曾有の拡大を試みたリンカンの存在はやはりこの主題を論じる上では最大の分水嶺であったのだろう。
リンカンの戦時統治は,人身保護礼状停止問題がトーニ最高裁に違憲判決を下された例からもわかるように批判も多い。しかしながら問題の本質は非常事態と「法の支配」原則とに対立状況が生じることであり,それが進化すれば国家の停滞は必至であるからそれを防ぐために「超法的な支配の力」すなわち政治の力によってその葛藤は克服されなければならない。殊にリンカンは終始連邦分裂の阻止すなわち合衆国の政体擁護に最大の努力を費やした。これは国家なくして憲法すなわち法の支配は存在しないとの彼の思想から,国家の維持という至上課題の必要に対して立憲制の中での独裁力の行使を試みたのであり,全体主義の中の独裁者ではなく古代ローマ共和制の民主政擁護のための独裁官に近い存在であったと論じられる。
第一次大戦中のウィルソンは大統領としてはリンカン以上の行政権力の集中を実現したが,戦時反逆罪法の強化などの措置は,リンカンが大統領職の単独行政行為を追求したのに対し,ウィルソンは議会による委任立法を根拠とするなど大統領職の特性を立法府との強調に調和させて危機を乗り切ろうとした点で対照的であり,これはウィルソンの大統領を「首相」と位置付ける思想の賜物であった。他にニクソンのヴェトナム北爆再開問題を例に核時代の軍総司令官としての権限拡大,フランクリン・ローズヴェルトが経済危機への対処に内乱,対外戦争の非常時権限を援用した例などが論じられる。
これらの問題に関して様々な法的解釈が広範に紹介されている。リンカンの伝記的な部分やリンカンの時代の日米関係の記述などがあり,もっと非常事態と大統領権限の相克のテーマに絞った構成をとった方が全体として引き締まったかもしれないが,それはそれで大統領研究として読めば有用であろう。
「危機が恒常化した時代(the age of permanent crisis)」と形容された冷戦は過去のものとなって久しいが,同時多発テロ事件以降のアメリカは,殊に2004年選挙の経過,結果を鑑みた場合,再び「危機が恒常化した時代」を迎えていると感じずにはいられない。そのような時期に深く考えるべきテーマであろう。シュレジンガーのWar and the American PresidencyやギャディスのSurprise, Security, and the American Experienceといった話題の新著とも共通した関心があり,それらと併せて読める。
阿南東也(愛知県立大学)
同志社大学人文科学研究所 編
『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都
ステーションを中心に,1869年~1890年』
(教文館,2004年,4,500円)
本書は,アメリカン・ボード宣教師の活動を,1869年より1890年まで取り上げたものであり,同研究所編『来日アメリカ宣教師』(現代史料出版,1999年)の姉妹編に当たるものである。「序」によると,その狙いは,ボードや宣教師,そして日本側の対応が,決して一枚岩的なものではなく,対立や相互作用を繰り返して,「キリスト教伝道のダイナミズム」を生み出して行ったことを明らかにする点にある。
収録された論文は,外国人居留地から開始されるキリスト教伝道の拡大,伝道に対する政府や行政機関からの圧力,教育や医療事業における公的機関との競合,女子教育や音楽教育における成果を,日本側の資料に基づき,地域(ステーション)ごとに丹念に追跡している。また,ボード側の資料も組織的な解読がなされており,共同研究の成果を生かしたものとなっている。
そこでは,献身的な宣教師と従順な日本人(特に,女子)学生が,教育や西洋文化を媒体として交流を深め,また,音楽・医療等の普及を通じて日本社会にも影響を与える様子が描かれている。この時期は,開港期からナショナリズムの高揚期を前にして,おおむねキリスト教と日本社会の蜜月期であると言えるだろう。
本書から,数々の史実が明らかになるのであるが,いくつかの疑問点も残る。それらは,(1)「自給論」に対して,ボードからの支援を主張した新島が,晩年において,財界に対して働きかけたことをボードはどう考えていたのか,(2)京都ステーション(同志社)が「特異」であるとすると,宣教師たちの意図は,神戸ステーション(神戸女学院)では実現されていたのか,そして,(3)日本側と常に摩擦を抱え,京都ステーションでは,主導権を握られていたにもかかわらず,経済的・人的支援を継続する会衆派の姿勢は,その教義とどのような関係にあるかということである。
さらに,『アメリカン・ボード宣教師』というタイトルにも拘わらず,地域の事情が中心となった「宣教史」であることがあげられる。政治的状況,ボードの方針や財政状況,教育事業の成果に比べて,宣教師個人の姿は,『来日アメリカ宣教師』におけるほど浮かび上がってはこない。
最後に,本井論文においては,同志社が「ミッション・スクール」であったのは,1888年までとの見解が示されているが,事柄がそれほど単純でないことは,『来日アメリカ宣教師』でも示唆されていることである。是非とも,1890年以降,本書の続編に期待したい所である。
吉永契一郎(東京農工大学)
風呂本惇子 編著
『カリブの風──英語文学とその周辺』
(鷹書房弓プレス,2004年,3,000円)
カリブの紺碧に海に民族の悲惨な歴史を読み取り,その海を「あの灰色の納骨堂」と呼んだのは,詩人デレック・ウォルコットである。編者が序文でウォルコットの詩「海が歴史だ」の一節を引用していることからも窺えるように,本書にはそうした詩人の精神が脈々と息づいている。読み応えのある15編の論文を収め,興味深いコラムを随所に盛り込んだ本書は,カリブ海域に秘められた「苦悩と抵抗の歴史」を浮き彫りにするものだ。
3部から成る本書の特徴は,従来の研究方法を踏まえた上で,今まであまり注目されることがなかった内からの視線に重点がおかれていることだ。まず外の世界であるアメリカがカリブをどう見てきたかを探る第1部では,革命を成功させたハイチが南北戦争前のアメリカにとって自らの姿を映す「複雑な鏡」(西本あづさ)であり,気がかりな存在でありながら,「空白の領域」(大和田英子)になった経緯が示される。第2部では,帝国主義の文化支配の下でカリブ側からの文化的抵抗が二つ提示される。一つは,セゼールの『テンペスト』やC・L・R・ジェームズの『白鯨』論のように,帝国主義文化の諸形式を書き替えや「読み替え」(小林憲二)によって内部から変容させていくものである。もう一つは,「共通の歴史体験を基盤にして強い精神的絆で」(楠瀬桂子)人種差別などと闘うパン・アフリカニズムの運動である。
プリンス論(三石庸子)ではじまる第3部は,フィリップス論(加藤恒彦),ダギュア論(山本伸)を除き,マール・ホッジを皮切りに1970年以降に出現したカリブ系女性作家たちに関する論考。例えば,抑圧された過去とポストコロニアル的状況の現在との接点を追求するブロッドバー,イギリスとその影響下で生きた母親とから解放される過程を描いたキンケイド,トルヒーヨ政権下でのハイチ人虐殺の意味を問うダンティカについての論考で,それらはそれぞれ岩瀬由佳,戸田由紀子,佐川愛子によって展開される。ホッジの小説『クリック・クラック・モンキー』を分析した石田依子論文や,アルヴァレスの小説『ガルシア家の娘たち』を検証した井上正子論文を含め,第3部のすべての論考から感じられるのは,かつての植民地支配や政治的動乱がもたらした傷痕が歴史に刻印されていることだ。
本書は,そうした状況から様々な声が発せられる点に注目する。それらの声は過去の呪縛からの解放や癒しを求める声である。中地幸(ガルシア論)の言葉を借りれば,それらは「歴史の中で語られなかった過去を語り直し,失われた声を再生」することで,主体性を回復させる声だと言えるだろう。かつて「空白の領域」だった場所に「カリブの風」が起こり,その風が,以前は西洋から他者として見做され見えない存在だったカリブの人々の声を運んでくるように読める点で,本書は面白い。本書が21世紀の新たな研究方法を示唆する画期的な書物であることは,間違いない。
松本 昇(国士舘大学)
鈴江璋子・植野達郎 編著
『英米文学のリヴァーブ』
(開文社出版,2004年,3,500円)
アメリカ・文学・研究。今,この八文字で表される仕事をする者たちに突きつけられていることが3つある。二十一世紀世界を先導する力を持つに至った<アメリカ>という記号の指示機能の重層性を世間に知らしめること。<文学>という領域の有用性を証明せよという社会からの突き上げに応答すること。<研究>という作業の効率性を即時的に数値化せよという文科省などからの要請に対処することである。
『英米文学のヴァーブ』と題された本書は,社会から投げかけられるこの3つの要請に応答するモデルの一つとして,文学研究者たちからの声を収録している。<境界>という統一テーマをめぐってなされる考察は「ある事をあたり前であるとする見方が生まれてきた由来,その見方を成立させている力」(植野達郎“はしがき”)についての洞察へと収斂していくように企画されている。イデオロギーと権力とをめぐる社会と文化の言説を一つ一つの論文の中に読み取っていくのが読み手の仕事であるが,本書で扱われた素材を背表紙に記されている通りにリストアップしてみる。ヘンリー・ジェイムズ,フィールディング,ホーソン,ケイト・ショパン,オーウェン・ウィスター,フォークナー,グロリア・ネイラー,村上春樹,フィッツジェラルド,スパーク,カール・サンドバーグ,オーツ,アラン・ブラウン,『トゥルーマン・ショー』。
以上12個の固有名詞の奥には,越境という概念を支える文脈が幾重にも交錯しあっている。トポロジカルな越境,社会の規範の越境,ジェンダー・人種の越境,生死や正気と狂気をめぐる越境,日本とアメリカとの境界や自己と国家の境界に存在する越境への誘惑等々。「まず境界の意味を考えよう,そして境界内に留まるか,乗り越えていくか,または境界の存在そのものを超越できるのか,まず,そこで語られる物語に耳を傾けよう」(鈴江璋子“あとがき”)という呼びかけを,今,文学・文化研究者仲間にだけではなく,社会全体へむけて響かせてほしい。
タイトルに使われたリヴァーブ(Reverb)という語は,本来,電子音楽でエコー効果を出すための音響装置のことである。本書が提示する問題意識がジャンル・地域・意識の境界を超えて響くようにという思いが込められている。しかし,その元になった動詞reverberationには,自動詞とならんで他動詞もあることに注目したい。「鳴り響く」だけでなく,「鳴り響かせる」それも“to have a severe and upsetting effect”という影響力を持って言葉は世界に伝わっていく。ベネディクト・アンダソンは,16‐18世紀の南北アメリカでは,「新」と「旧」とが,前後という時間配列ではなく,同時代的に理解されたことを指摘している。同時性を確認する最も効果的な方法は<声の響き>によるものだ。アメリカという国家は独立宣言以来,様々な声を響かせてきた。21世紀の今,アメリカが全世界に届かせようとする響きに対して,我々はどのようにして耳を傾けるのか。本書もこの文脈で読まれるべきであろう。
下河辺美知子(成蹊大学)
2005年04月21日 | アメリカ学会会報
Copyright © 2004 The Japanese Association for American Studies. All rights reserved.