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『アメリカ学会会報』第156号(2005年2月)
巻頭エッセイと新刊紹介を掲載します。
働 く 意 味 の 崩 壊 !?
竹 田 有
手元に『朝日新聞』からの切り抜きがあります。一つは「経済気象台」という匿名コラム(9/14/04)。ある有名ファミリー・レストランで1日12時間労働,1ヵ月にたった2日の休み,手取り13万円という条件で働き,半年で10キロやせたという卒業したての若者が,就職相談室を訪れ,「こんな会社に後輩を入れないでくれ」と訴えています。もう一つは「声」の欄での「『成果主義』にあえぐ息子よ」という投書(10/20/04)。電機メーカーに就職した大卒の息子さんが毎日残業,土・日も出勤し,この新婚夫婦の夕食は真夜中の2時か3時,父親は「頼むから会社やめてえな。このままやと死んでしまうで」と嘆願したそうです。別の投書(6/19/04)によれば,スーパーが深夜勤務の求人をしたところ,予想に反して大学生ではなく,乳幼児や小学生を抱えた30代の主婦が応募者の殆どでした。ある人は子どもが寝静まった11時から翌朝6時まで働き,帰宅して夫と子どもに朝食と弁当を用意し,その後家事をこなす一方で短い睡眠をとります。この徹夜生活が週に3日あるそうです。
バブル崩壊後の10数年間での,リストラ,賃金カット,パートや派遣や一日契約社員などの非正規雇用の急増,過重労働,成果主義の導入という状況下では,上に紹介したような人々のあえぎと苦悩は,特殊な例外ではないでしょう。そして,この日本の現実は日本の「お手本」アメリカの現実でもあります。
ジル・フレイザーの『窒息するオフィス』(岩波,原題はWhite-Collar Sweatshop)は,好況の1990年代における,働きすぎ,企業利益が上がる中での報酬と福利厚生の切り下げ,リストラに怯える不安感が支配する職場の不健全さを告発しています。マーケティング担当管理職のジェマは,帰りの電車の中で何度もオフィスに電話して伝言をきき,携帯から次々と電話し,帰宅し夕食後の7時半ごろからはボイスメールをチェックし,電話をかけ,ファックスの処理をし,「家族と話す時間は殆どありません……夜は疲れすぎているのです。いらいらするし,くたくたになっています」と嘆く。仕事が会社から家庭にあふれ出し,家庭生活と職場生活に殆ど境界がない状況では,「9時から5時の」勤務は過去のユートピアといったところでしょうか。また,「ある日10人をレイオフしろという電話」を受けたレナードは,「もし私がやらなかったら,私がクビになる」という立場におかれ,「搾りに搾りました。みんな自分を消耗品のように感じ始めています」と述べ,今はレイオフした者から訴えられています。数多くの人員削減を生き残ってきた部長職のある女性は,自分の経験で最もつらい記憶として,社長から「君がまだ仕事に就いていられることをどれほど感謝しているかが人びとに分るように,もっとよく笑うようにしなさい」と指示されたことを挙げています。解雇をのがれ「シンドラーのリスト」に入ったとしても,精神的苦痛は確実に続くのでしょう。
「働きすぎ,低すぎる報酬,雇用の不安定」という新秩序は70年代からの大変革によって生み出されました。第二次大戦後におけるアメリカの覇権の下で経済が成長し,賃金が上昇し,労働組合が存在を許されていた中で成立したニューディール労資関係は30年の寿命を終えたことになります。市場の諸力が殆ど制約を受けず,人間の商品化と労働疎外が極限まで進行する現在,ハイレヴェルのスキルをもった約2割の人びとが賃金を増やし,新秩序に適応しているそうですが,残り8割の者との格差は広がる一方です。経営者がいとも簡単に人員を削減し,報酬を切り下げ,組合を破壊するのは資本主義の赤裸々な自己表現であり,この意味で戦後の30年はアメリカ史の中での逸脱と言えるかも知れません。
それでは,働く権利が保証され,労働を通じてなにがしかの充足感を得ることは見果てぬ夢なのでしょうか。働くことは労苦なのでしょうか。(奈良教育大学)
小西中和 著
『ジョン・デューイの政治思想』
(北樹出版,2003年,3,800円)
『ジョン・デューイの政治思想』という題名だけで,本書を敬遠したがる読者もあるだろう。『経験と自然』が象徴する難渋なデューイの思想。しかもその政治思想となれば読むには相当な覚悟が必要ではないか……実際本書も,最初の章を読む限り,哲学的な主権論や国家論に関心をもつ者向けの難解な書と映る。けれども,読み進んで行くと程なく大衆民主主義を巡るウォルター・リップマンとデューイの論争,統治のエリートの不可欠を論じるリップマンと公衆の統治への参加を主張するデューイの対立が描き出される。読者は,他ならぬ自身の問題が論じられていると実感し始めるだろう。更に進んで多民族社会と国家統合の章では,多文化主義を巡るダイアン・ラヴィッチとアサンテとの論争が,デューイとカレンのかつての対立点を下敷きにして解釈される。現代の論者の依拠する前提が,部分の関係に固執するとの理由で,デューイのトランズアクショナル・アプローチの視点から,相対化されるのである。アメリカ研究者の多くは関心を抱くに違いない。
しかし,第5章「中国認識と非西欧型近代化」は更に興味深い。周知のようにデューイ夫妻は,1919年の初春3ヶ月足らずの日本滞在に続いて,実に2年間を激動の中国で過ごした。何故にかくも長く留まったのか。本章はこの問いに取り組み,意義深い説を提示している。時は第一次大戦の直後である。デューイは西欧型の近代化,西欧文明のゆきづまりに危機感を抱いていた。その彼には,物心二元論でいち早く近代化を遂げた日本よりも,思想からの転換を伴い,何百年かを要するであろう中国の発展の方が,遥かに興味を引いたのだという。デューイが注目したのは,中央政府も国民精神も欠く中国の村々や近隣で受け継がれていた,民衆保護と対立回避の伝統であった。政治面では,かつてのアメリカの13州にも似た連省自治に期待を寄せた。連省自治は孫文に批判され,また共産中国は中央からの統一国家として誕生した。しかし,最近の中国史では連省自治への評価が高く,見直されているという。西欧近代への危機感と,中国の独自な発展への関心の故にデューイ夫妻が長く中国に留ったとの論は,紹介者には新鮮で心から納得できた。
リベラル社会主義を論じた最後の二章は,経済恐慌が到来し,マルクス主義と全体主義が台頭した1930年代のデューイの思想実践を描く。彼は,恐慌の根本原因と自ら看做す富の集中の是正を目指し,その方法としては実験的知性を提唱した。ラディカリズムを実践しつつ,左右の暴力主義を否定するためである。しかし彼は,政治には力の行使が必要な点を認めており,その知性化をこそ推進したのだとの説明には,久しぶりにリアルなデューイに触れた思いであった。こうした一書をものにされた著者に心から敬意を表したい。
なお,著者には大変失礼ながら,本書の大方の読者には,まず第4章か第5章を読まれることを強くすすめたい。
立川 明(国際基督教大学)
廣瀬淳子 著
『アメリカ連邦議会
━━世界最強議会の政策形成と政策実現』
(公人社,2004年,3,800円)
全7章から成る本書の目的は,「アメリカ連邦議会が何故独自の政策形成が可能なのか,それを議会制度と活動実態の両面から明らかにすること」と,連邦議会の1970年代以降の変容をふまえて「現在のアメリカ連邦議会の姿を伝えること」(4頁)である。
第一の目的に関して,議会制度を概観した第2章はよくまとまっている。所々だが,日本の国会制度との対比も盛り込まれており,「第108議会」といった時の「議会期」が「会期」とどう違うかの説明(50頁)などは,国立国会図書館に勤務する著者ならではの記述である。
また,立法過程(3章)や予算過程(4章)についての解説は,定番であるOleszekのテキストの邦訳が古くなっており(青木栄一訳のものは1982年刊),著者が同テキストの最新版に依拠しているだけに貴重である。他方,この二章の解説は制度面の細かな説明が続き,「活動実態」がどの程度読者に伝わるか疑問である。
これら立法・予算過程のルールは,具体的な事例に即して説明した方がわかりやすかったかもしれない。本書の第1章は9.11テロ事件に関連して連邦議会で成立したいくつかの立法の審議過程を紹介しているが,著者も認める通り(19頁),これらの立法の成立過程は,通常の議会の立法過程とは著しく異なっている。また冒頭に事例を配置する構成自体は良いのだが,専門外の読者のために,近年の連邦議会の上下院での共和・民主両党の議席数など基本的データを提示した方が親切だろう。
第二の目的である,1970年代以降の議会制度改革の原因とその帰結(5・6章)については,著者はアメリカの議会研究者の研究に依拠しすぎて,著者自身の見解を明確に示していないように思われる。本書にはそもそも結論の章がなく,また各章で明らかになった内容を要約する記述が章の最後にないことが多い。議会制度改革についても,103議会での議論と104議会で実現した改革の内容については詳細に記しているが,改革をめぐる「政治力学」(146頁)については,アメリカの研究をいくつか要約した上で,「大規模な議会改革は複数の要因が複合的に作用して実現される」(149頁)と述べるに留まっている。また「アメリカ連邦議会研究と理論の動向」と題した第7章も,数多くの研究を引用しているがそれらの「概観」(200頁)に留まっており,近年の連邦議会研究の最大の焦点である政党の影響力の有無についても(212頁),著者独自の見解は示されない。
総じて本書には,「アメリカ連邦議会を理解するために必要なテーマは一通り網羅した」(232頁)が,「あくまでもこれらのテーマについて概観しただけにすぎない」(233頁)という著者自身の「あとがき」における評価が当てはまるように思われる。にもかかわらず,アメリカ連邦議会について単著を出すという難行を果たした著者には心から敬意を表したい。
武田興欣(青山学院大学)
長沼秀世 著
『アメリカの社会運動━━CIOの研究』
(彩流社,2004年,4,800円)
私が長沼氏の論文を初めて読んだのは学部学生の頃であり,その内容は,確かCIOの政治・経済観に関するものであったように記憶している。それからかなりの歳月が流れたが,長沼氏は,わが国におけるアメリカ現代史をリードするパイオニアのひとりとして,労働組合の動きを社会運動全体のなかに位置づけるという姿勢をもち続けた。長年の研究を集大成した本書にはそのフレームワークの大きさが表れており,しかも,CIOの執行委員会・大会議事録,組合機関紙,パンフレット,マニュスクリプトなどの一次資料を駆使し,緻密な実証研究の重厚さがひしひしと伝わってくる。
本書は2部で構成されており,第1部はCIO運動史そのものを扱い,第2部は,CIOに関わる社会主義や労働党運動,さらに公民権運動へのつながりなどを検証したものである。第1部3章では,1935年のAFL大会によりCIOが成立し,38年11月にAFLから正式に離れて独立する経緯が考察され,第4章は,CIOが積極的な政治活動を展開して重要な運動勢力となった姿を明らかにしている。
また第1部6・8章では,CIOの南部組織活動である「オペレーション・ディクシー」を取り上げ,これまで利用されてこなかった末端活動家のマニュスクリプトなどを精査し,困難を抱えた「南部作戦」の実態が印象深く描かれている。さらに第7章では,CIOに隠然と向けられた共産党・共産主義者の関わりに対する批判から,ついにCIOが共産系組合の追放を決定する経緯が詳細に検討され,第2部4章で検討されている「進歩党」との関連が,マッカーシズムやマーシャルプランに象徴される冷戦の開始とともにダイナミックに論述されている。
第2部2章では,アメリカにおける社会主義の不振をめぐる議論が再検討されており,古典的なゾンバルトの議論,リプセットやマークスの「比較論」などを取り上げ,様々な角度から考察が行われている。長沼氏は無闇にペシミズムに陥ることなく,斬新で多面的な検討を展開しており,それは,ニューヨークで1930年代に結成されたアメリカ労働党を取り上げた第3章にもよく表れている。
そして最後の第2部5章では,「オペレーション・ディクシー」と一定の関わりをもった,南部の労働者・農民を対象とする成人学校である「ハイランダー・フォーク・スクール」の活動が考察されている。これまでわが国では,この南部CIO学校の実態はほとんど明らかにされておらず,共産系組合の追放や「オペレーション・ディクシー」の放棄に表れたCIOの姿勢とともに,公民権運動へと社会運動の焦点が移行していく変化の諸相を,長沼氏は指導者のマイルス・ホートンに焦点を当てながら初めて検証したのである。
このように,本書全体には長沼氏ならではの斬新な論点と緻密な実証性が表れており,CIOの中央と末端双方を分析し,さまざまな資料や研究を総合して組合員数の把握を試みていることなどを含め,従来の労働運動史研究を高い次元に引き上げたといっても過言ではないであろう。
河内信幸(中部大学)
久保文明・赤木完爾 編
『アメリカと東アジア』
(慶應義塾大学出版会,2004年,3,400円)
本書は,慶應義塾大学出版会が刊行中の「現代東アジアと日本」シリーズの第6巻として出版されたものである。既刊の『日本の東アジア構想』,『中国政治とアジア』,『東アジアとロシア』,『海域アジア』に継ぎ刊行され,特に「冷戦」後のアメリカと日本,中国,朝鮮半島との関係に焦点を当てた論考が多く収録されている。
第1部「アメリカの東アジア関与の諸相」は,第二次大戦終結から朝鮮戦争後までを対象に「アメリカのアジア関与の原型」を考察した第1章,ベトナム戦争期から現在までを対象に米国内の政党政治や世論の変容,保守派の台頭と対外政策の関係を考察した第2章,冷戦後の日米関係をアメリカの東アジア戦略と日米安保関係を中心に論じた第3章,ワシントンの観点から日米同盟の強化に関する提言を行った第4章,1995年の外交関係樹立および2001年の通商協定締結に至る米・ベトナムの関係の変遷を考察した第5章,東アジアの諸国家の力と多様性を概観しアイケンベリーらの類型的な東アジア安保秩序に関する構想を紹介した第6章から構成されている。第2部「中国と朝鮮半島」は,冷戦後のアメリカの中国政策の展開を天安門事件の影響,関与政策,台湾,最恵国待遇付与・WTO加盟,中国脅威論などの観点から概観した第7章,日米のミサイル防衛計画と中国の核・ミサイル開発,米中戦略関係を考察した第8章,最近の米中関係からアメリカの宗教界や人権団体,労働組合の中国観と中国側の反論を考察した第9章,アメリカの保守系シンクタンクの最近の対中政策に関する提言を非保守系シンクタンクの見解との比較も視野に入れ概観した第10章,冷戦後の朝鮮半島に対するアメリカの政策を概観した第11章,安全保障ジレンマという枠組みから冷戦後の米朝・米韓関係の変遷を分析した第12章から構成されている。詳細な目次と著者については,出版元のホームページを参照されたい。
このような多様なテーマを扱った章構成であるため,本書は最近のアメリカと日本,中国,朝鮮半島との関係についてきわめて豊富な情報を提供してくれる。章によりアプローチの仕方にはばらつきがあるものの,この点は本書の最大の長所と言える。ひとつ気になる点は「東アジア」の範囲の捉え方である。編者の一人が執筆した章の中では,「東アジア」の対象として東南アジア等も含めるといった言及はあるものの,全体として本書全体で「東アジア」をどのように捉えるかという議論は少ない。またこの問題とも関連するが,もうひとつ気になる点は,「東アジア(東南アジア等も含めた)」の経済発展や相互の経済関係に関する専門的な議論が少ないことである。安全保障問題や政治的関係に重点が置かれるのは仕方ないとしても,ここ10数年の「東アジア」の驚異的な変化を考えると,経済問題を扱った単独の章がないのは惜しまれる。
寺地功次(共立女子大学)
藤岡 惇 著
『グローバリゼーションと戦争
━━宇宙と核の覇権めざすアメリカ』
(大月書店,2004年,2,200円)
本書は,書名の表す通り,1990年代から推進されている経済的グローバリゼーションという現象が,宇宙兵備と核戦力におけるアメリカの覇権を背景として戦争と分かちがたく結びついていること,冷戦後の時代とは,クリントン政権の「新自由主義的グローバリゼーションの時代」から,ブッシュ政権の「帝国主義的グローバリゼーションの時代」への展開として把握すべきことを指摘した研究である。グローバリゼーションという言葉は流行語となっているが,その意味・意義が明確にされているとは言いがたい現状において,本書は経済学の立場からする貴重な分析であると言える。
本書は三部構成をとっており,第一部では冷戦期のアメリカが「修正帝国主義の時代」として捉えられる。東西分割世界を前提として,米国は国連系諸機関や世界銀行・IMFなどを使って,西側多数国の合意を調達する形で利害を通すようになった。核ミサイルが開発されて国境は無意味化し,「グローバリゼーションの軍事的起原」が生まれた。初期には軍事技術の民需波及が経済成長にも貢献したが,特にレーガン軍拡期以降は軍民分離が進んで便益が消滅し大企業・富者からの「富の滴りおち仮説」も破産した,と述べる。
第二部では,クリントン政権の時代が扱われる。東側世界の解体によって米国は日欧を主敵とする地球規模での拡大戦略へと転じ,軍事IT技術が民需に開放されて一人勝ちのバブルを謳歌した。「軍事革命」による宇宙支配と情報・諜報支配を背景に経済覇権をめざすが,世界の貧富の差は拡大し成長の二重構造も著しくなり「壮大な『市場の失敗』の時代」を迎える。
第三部では,ブッシュ政権が扱われる。ラムズフェルド国防長官らミサイル防衛(MD)推進派の「宇宙覇権国家構想」とチェイニー副大統領ら「石油資源への覇権」追求が合体した上に,ネオコン主導の19世紀型「帝国」モデルが構想され,9.11事件を「大変な好機」(ブッシュ大統領)として「新帝国主義」への転換が推進される。アフガニスタンとイラクへの侵攻によって欧州・露中系の石油資本を排除し,ドル体制の覇権を護った。しかしこの「アメリカ帝国」構築は世界史の大勢に逆行する方向であり,帝国建設のコストが暴騰していく結果,経済的疲弊は避けられない。
以上の本書の描く構図は明快である。また著者の問題意識は,「宇宙への兵器と核の配備に反対する地球ネットワーク」の諮問委員を務めて国際反核会議や反戦行動に参加する実践的行動に裏打ちされている。本書はMD時代のグローバリゼーションの鳥瞰図を描いた刺激的な著作であるが,前書きで予告されている続刊においては,世界銀行やWTOなどの具体的政策に関する解明や,イラク占領に見られるように,宇宙覇権モデルの軍事力では勝てない,支配される側の民衆の抵抗の意味が提示されることを期待したい。
島川雅史(立教女学院短期大学)
渡辺 靖 著
『アフター・アメリカ』
(慶應義塾大学出版会,2004年,2,500円)
ボストンの歴史文化を知ろうとすれば必ず突き当たるのが,ボストン・ブラーミン(WASP)とボストン・アイリッシュの対立・拮抗である。ボストンはアメリカの植民,独立革命,産業革命,文芸思想,奴隷解放運動などにおいて指導的役割を果たし,オリヴァー・ウェンデル・ホームズがボストン・ブラーミン(のちの「正統ボストニアン」)と呼んだ集団を生み出した。一方,19世紀半ば,アイルランドの飢饉以降,大量のアイリッシュがボストンに押し寄せてきた。カトリックの貧民ということもあって,WASPと緊張関係が生じた。
正統ボストニアンはビーコン・ヒルなどの高級住宅地を根城とし,アイリッシュ・ボストニアンはサウス・ボストンを生活圏とした。こうした人種文化地理の相違対立は,政治の分野ばかりでなく,(スコッチ・アイリッシュのジェイムズ兄弟までも含んで)文化の分野でも微妙な影を投げかけてきた。20世紀になるとロバート・ロウエルの詩や,映画化されたエドウィン・オコナーの「最後の喝采」にもそれぞれの内部変質が見られる。
こうした過去を抱える「上流/中上流の」ボストン・ブラーミンと,「下流/中上流の」ボストン・アイリッシュが,第二次大戦後のアメリカの社会でいかに生きてきたか,その実態を文化人類学のフィールドワークとして「民族誌的な比較分析」によって細やかに摘出してみせたのが本書である。
ブラーミン,アイリッシュそれぞれの10数家族をインフォーマントとして選び,多くの側面から情報を得て,分析している。そこに現れるのは,ブラーミンの場合,「独自性や卓越性の基盤となっている諸々の特質が,次第に断片化・風化しつつ」ある「ピラミッドの平坦化」現象である。文化的伝統を守ろうとする心理と,時代に即していこうとする心理との間の拮抗がある。旧弊な生活様式やプライドからの解放を歓迎する者もあれば,「あてもなく,彷徨っている」者もいる。他方,ボストン・アイリッシュは戦後になって「ようやく一級市民になれた」が,かつてのカトリック教会やボスを中心とした地域共同体の意識と生活が希薄化し,「合理的」,自己中心的,実利的となっていることを憂える声も聞かれる。
どちらの世界でも〈文化の政治学〉が先鋭化している。こうした現象を渡辺氏は,戦後アメリカ全体の経済的ダーウィニズムの強化による,無境界化,多様化,流動化,断片化などの大きな潮流の中で捉えている。本書はボストンの微細な分析総合をしながら,同時にアメリカ全体をあぶり出している。
本書は,川島浩平著『都市コミュニティと階級・エスニシティ』(2002年)と並ぶ優れた業績である。またホームズらまさしくボストン・ブラーミンが登場するマシュー・パールの小説『ダンテ・クラブ』(2003年)も邦訳され(鈴木恵訳,2004年),ボストンが一段と身近になった。20世紀アメリカは19世紀のボストンWASP文化を貶めることによって成立した。21世紀がボストンの冷静な見直しで始まるのはきわめて意義深いことである。
武藤脩二(中央大学)
有賀 貞 著
『アメリカ ヒストリカル・ガイド』
(山川出版社,2004年,1,800円)
本書は,日本にとっての政治,経済,軍事面での重要なパートナーであるのみならず,全世界から「帝国」として注目されるグローバルパワーを主題とし,「ヒストリカル・ガイド」というタイトルが示唆するように,歴史的な知識と解釈を基軸とする概説書である。
アメリカに関する入門書は少なくないが,その中にあって本書の特長を挙げるなら,堅実な歴史的記述と解釈を踏まえた上で,今日的状況の描写と説明に力を注いでいる点にある。その意味で本書は,有用な歴史の概説書であると同時に,優れて現代アメリカを読み解く書であるといえる。
この点は紙幅の配分にも窺うことができる。全体の半分以上が20世紀以降に,その半分以上が20世紀後半に割り当てられ,現在に近づくにつれて記述が厚く,詳細になる。第二次世界大戦以後の時代は大きく外交,社会,政治,文化などの領域に区分され,それぞれに一つの章が与えられる。すなわち第7章では冷戦時代のアメリカ外交が解説され,「差別廃止の成果と限界」と題する第8章では公民権運動,女性運動,アファーマティブ・アクション論争などが取り上げられ,第9章では「あらたな保守主義の台頭」がレーガン革命を焦点として論じられ,第10章では非ヨーロッパ系移民の増加と多文化主義論争が説明される。終章では冷戦後に焦点が当てられ,経済,文化,政治,9・11テロ,民族と社会,イラク戦争の順で解説がなされ,現代アメリカの全体像が描出される。
内容的な特色としては,序章にも注目しておきたい。ここでは地勢的な特徴が説明された後,「新世界」の国,宗教を重んじる国柄,ナショナリズム,安全な国など,著者独自の視点からアメリカの特徴付けが試みられ,以下に続く記述への導入の役割を果たしている。
以上,内容面での全体的特色を指摘したが,本書の随所に施されている細やかな気遣いにも注目したい。その一つに定義の問題がある。たとえば著者は「合衆国」対「合州国」など,これまでしばしば指摘されてきた問題に言及し,それぞれの言葉の意味を吟味した上で,著者の立場を明示する。日本人としてアメリカにどのような姿勢を取るべきかは冒頭で議論される。また紙幅の制約にもかかわらず,図,写真,挿絵などが豊富かつ多彩に配置され,読者の理解を助け,注意を喚起する上で大いに力を発揮している。巻頭には16枚ものカラー写真が掲載され,古くはモールスの電信機から,最近ではグラウンド・ゼロでの犠牲者追悼式まで,アメリカ史上のエポックに関する情報が視覚的に提示される。各章末に挿入された合計20のコラムは,歴史上の人物,文学作品,事物,事件などを取り上げ,本文の記述に幅と奥行を与えている。巻末には本書を読みこなす上で便利な,詳細な索引と年表,そしてさらなる学習を促すための参考文献が付されている。
本書はアメリカに関係する学問を志す人にとっての入門書として,概説書として必読の一冊である。
川島浩平(武蔵大学)
古川博巳・古川哲史 著
『日本とアフリカ系アメリカ人
━━日米関係史におけるその諸相』
(明石書店,2004年,6,800円)
本書は,「日本人とアフリカ系アメリカ人との係わりに強い関心を持ち,ここ15年ほどのあいだに日米両国を主とする各地で,共同で関連資料の収集や調査に従事してきた」(本書「あとがき」)古川博巳・哲史親子による共同の労作である。古川博巳氏は,かの「ブラウン判決」から間もない1954年6月に,神戸に生れたユニークな研究団体「黒人研究の会」の創立以来の中心メンバーであり,黒人文学研究その他の分野で多くの業績を残してきた。子息の哲史氏は,現在,関西の大学でアフリカ史やアフリカ系アメリカ人史を教えている。日米関係史を,日本人とアフリカ系アメリカ人がどのように係わりあってきたのかという興味深い観点から辿った本書は,この両者の関係がどれほど長くかつ深いものであったかを教えてくれ,評者も学ぶところが多かった。
500頁を超える大部の本書は,第1部「近世における日本人の〈黒人〉見聞」,第2部「幕末期より第2次世界大戦まで」,第3部「米国の日本占領期より20世紀末まで」の3部23章,および,関連年表と索引から成り立っており,クロード・マッケイと片山潜との交友,ラングストン・ヒューズやデュボイスの来日の様子など,実に興味深い事柄が数多く紹介されている。大変な作業を要したことが伝わってくる労作である。
他方,誤記,不注意な表現,意味不明の個所なども色々と目についたが,以下では,評者に大変気になった点を2点だけ指摘していきたい。
第1点は,第3部第10章「日本における関連出版物と研究動向」の扱いである。この章は,著者を含め「黒人研究の会」の会員や多くの研究者が,日頃から苦労して収集してきたわが国における黒人関係書を羅列しただけであって,研究動向の分析がきちんと行なわれている論文とはいいがたい。本章は,巻末の関連年表と同じく,年表風に巻末におかれるべき性格のものではなかったろうか?
もう1点は,日本人とアフリカ系アメリカ人の出会いの意味の分析が著しく弱い点である。第3部第5章では,誰がいつ頃どの黒人大学に在籍していたかが丹念に紹介されているが,その一方,1961年に黒人大学ではない南部の大学に籍をおき,南部や黒人問題について思索をめぐらせた作家の安岡章太郎については,本論の中で論及されないばかりか,『アメリカ感情旅行』も『アメリカ夏象冬記』も,文献中に載せられてはいない。わが国の広い読者に大きな影響を及ぼしたと考えられる本多勝一の『アメリカ合衆国』も本論に取り上げられず,わずかに書名があげられているだけである。もう少し,意味づけの分析に力を入れ,それにふさわしい資料や史実に配慮したならば,本書の文化史的な価値はもっと大きなものになったと惜しまれる。
大塚秀之(神戸市外国語大学)
Brian Masaru Hayashi
Democratizing the Enemy: The Japanese
American Internment
(Princeton & Oxford: Princeton University Press, 2004)
本書は,第二次大戦中の日本人・日系アメリカ人の強制立退き・収容政策の再評価を目指したもので,ポストリドレス,ポスト9.11時代を画する記念碑的な研究である。「テロとの闘い」を背景に強制立退き政策を支持する感情的な議論がアメリカ社会を跋扈しつつある現在,従来の,明らかに人種をめぐる議論に偏った「リドレス史観」から解き放たれ,この政策をより広い,国際的な文脈の中で捉えようとする本書のもつ意味は大きい。
筆者も指摘する通り,この政策を従来のように国内的要因(人種主義)だけで論じることには無理がある。政策決定者の立場に立てば,「軍事的必要性」の議論を,単に敵の攻撃の可能性を読み過ったと解釈し,それをアメリカ社会の人種主義や戦時の集団ヒステリーによるものだと切り捨てるだけでは議論は不十分で,人質の必要性や西海岸への特攻攻撃の懸念など,当時この国で生きていた人々であれば当然視界に入っていたはずであった要因も考慮に入れられなければならない。同様に,被収容者についても,彼らの行動をアメリカ政府に対する「適応」や「抵抗」としてのみ読み解くことも十分ではない。二つの国のいずれが勝っても微妙な立場に立たされること,捕虜交換により戦後日本に送還される可能性があったことなど,複数の要因が彼らの行動を決定していた,というのも正しい指摘であろう。このような認識に基づき,本書では,収容所内のヨーロッパ系アメリカ人の行政官,コミュニティ・アナリストとして送り込まれた社会科学者と日本人・日系アメリカ人の被収容者,三つのグループそれぞれの言動とその決定要因,互いの関係性が詳細に跡づけられる。
強制収容政策の決定は,「人種」を「文化」と融合させ,「日系アメリカ人」を敵である「日本人」と同一視したことによりなされたが,収容所の行政官や社会科学者は「人種」と「文化」(=「忠誠」)を峻別していた。彼らの目的は収容所の治安を維持すること,再定住を推し進めることであり,その為に,日本政府の教化の影響を受け,日本へのアイデンティティを強めていた日系アメリカ人を「民主化する」ことが目指された。当初は収容所内の自治も巧く機能していたが,被収容者の一部が公然と日本を支持するに至って対立が生まれたことから,当初の行政側の意図に反し,忠誠登録へ,更に厳しい措置をとらざるを得なくなった経緯が明らかにされる。犠牲になったのは日本人ばかりではない。収容所近辺の住民も,この政策関連の水利権や土地開発など未解決の問題を積み残される。被収容者にとってこの経験は,政治的,文化的に日本との決別,米国への順応(民主化か?)を意味したが,行政官や社会科学者の中にはこの経験や文化人類学的方法をその後のキャリアの中で活かした者もあった。
一次史料を駆使した詳細な分析はすこぶる説得的であるが,一方で,著者の議論が米国の「民主主義」への好意的な評価を前提としているように思われる点に,評者が一抹の不安を覚えるのもポスト9.11時代故であろうか。
村川庸子(敬愛大学)
松尾文夫 著
『銃を持つ民主主義
━━「アメリカという国」のなりたち』
(小学館,2004年,1,500円)
ブッシュ(二世)政権の先制武力行使主義をめぐっては,日米両国を中心に多くの議論が行われてきた。その中で本書は,それが建国以前から「アメリカという国」に組み込まれてきたDNAによるものであろうという仮説を立て,歴史的かつ広範な検証を試みている。
著者は,1945年7月19日夜(太平洋戦争敗戦の27日前),郷里の福井市で,ルメイ将軍率いるB29爆撃機部隊による「夜間無差別焼夷弾爆撃」に会い,九死に一生を得る。本書は,この原体験から始まって,ジャーナリストとしての多くの現場経験や要人との貴重なインタビューを随所に散りばめて,臨場感と説得力をいやが上にも高めている。
その圧巻は,リベラル派オピニオンリーダーの一人で,『孤独な群衆』の名著で知られた社会学者デービッド・リースマン教授(当時ハーバード大学)との対談であろう。著者によると,教授は,ニクソンが初めて大統領に就任した1967年に早くも,「保守化ムード」の潮流を指摘,それに乗る「新しいタイプのリーダーが保守派に生まれている」として,レーガン・カリフォルニア州知事の名前を挙げた。その後のアメリカ政治の動向は,ほとんど教授の鋭い予測通りになったという。
著者は,ブッシュ政権の先制武力行使主義と,ルメイ将軍の無差別焼夷弾爆撃が共通のDNAで結びつけられていると考えているだけではない。遠く遡って,ピルグリム・ファーザーズも「それなりの武装集団」でもあり,「武力行使というDNAは,間違いなく彼らとともにプリマスに上陸していた。そして,現在にいたるまでアメリカ民主主義と武力行使は表裏一体の関係となる」というのである。
ただ,評者の任務として,一言苦言を呈させてもらうと,私の読後感の一つとして,「武力行使」は建国以前からアメリカのDNAに組み込まれてきたのだから仕方がないという諦めの気持ちを読者に与えるのではないかという感想を持った。アメリカ人の間から,このようなDNAへの批判が強まって,その発現が抑制されていくことこそ重要なのではないか。
それに関連して,著名な政治哲学者ジョン・ロールズが生前,「ヒロシマへの原爆も日本各都市への焼夷弾攻撃もすさまじい道徳的な悪行であって,そうした悪を避けることが政治家たる者の義務として求められていたし,しかもそれは,ほとんど犠牲を払わなくても回避可能な悪だった」と述べていたことを紹介しておきたい。
蓮見博昭(恵泉女学園大学[名])
ウェルズ恵子 著
『フォークソングのアメリカ
━━ゆで玉子を産むニワトリ』
(南雲堂,2004年,3,800円)
ウェルズ恵子著『フォークソングのアメリカ──ゆで玉子を産むニワトリ』(南雲堂)は,長年にわたる地道な調査にもとづくアメリカのフォークソング研究書である。フォークソングとは文字通り民衆のあいだで伝承されてきた歌であり,特にそれらが「働く人々の唇の上でどんなふうに生きた」(16頁)か,ということに焦点をしぼった研究となっている。章ごとの割りふりは,「カウボーイ・ソング」(2章),「レイルロード・ソング」(3章),「黒人労働歌,ハンマー・ソング」(4章),「炭鉱の歌」(5章),「ゴールドラッシュの歌」(6章),「女工の歌」(7章),「船乗りと七つの海の歌」(8章),「木こりの歌」(9章)となっている。
最近のこのような研究では,文化研究的アプローチが多く,人種・性・階級などに焦点を当てつつ抑圧と差別の構造を炙り出していくのがほとんどお決まりの図式になってきた。だが,本書はそういう姿勢を取らない。もちろん,いかに労働者が人種的・性的・階級的な面で差別をこうむったかもしばしば語られるが,それもあっさり触れられて終わるだけとなる。たとえば,「ミンストレル・ショーのために作られたナンセンス・ソングが,自分のだめなところを笑いものにする視線を普及させ,人間の愚かさを受け入れ楽しむことをアメリカ民謡の一つの伝統にした」(209頁)という記述はその一例で,歌詞の効果に注目するだけで終わる(だから,スティーヴン・フォスターが話題にのぼっても,南部をほとんど訪れずに南部の歌を無数に作り,ミンストレル・ショーに提供していたことは語られない)。つまり,著者は歌そのものをできるかぎり多く紹介し,その背景を説明することに徹しているのであり,こういった歌がいかにロマンティックな雰囲気をかもし出すかということが随所に言及され,強調されてもいる(瀟洒な装丁も含めて)。そのように歴史を「ロマンティサイズ」することは,文化研究側からすればナイーヴとされかねないが,本書への批判としてそれは当たらないだろう。繰り返すが,本書の目的は別の所にある。さらに,資料的価値にこだわった貴重な基礎研究と呼ぶこともできるだろう。文章も,平明で実にわかりやすい。
著者は「あとがき」で「フォークソングというアカデミックでない分野を手がける不安」(371頁)について言及するが,そこまで言う必要はない。たとえば,人間の根源的な発語の特徴を見極めるだけでもフォークソングの研究は文学の研究には大いに寄与するはずであり,大衆的なバラッドの語りの特徴を踏まえなければ,ポーやディキンソンがどこまでわかるかはおぼつかないからである。
(誤植:「ミシシッピ・ジョン・ハント[102頁]→ミシシッピ・ジョン・ハート」)。
飯野友幸(上智大学)
日本ソロー学会 編
『新たな夜明け
━━「ウォールデン」出版150年記念論集』
(金星堂,2004年,3,600円)
本書は,日本ソロー学会が国の内外へ向けて日本におけるソロー研究の現状を示すべく,豊富な図版・資料を用いて多角的にソロー像を示した論集である。全体は6部22章から成り,『ウォールデン』の再評価はもちろん,ソローの他の著述にも注目し,アメリカ現代作家や様々な文化事象にも言及する一方で,日本とソローとの多様な関連についても積極的に考察する。
本書が広範な論考を擁する例の一部を簡単に紹介しよう。例えば第1部「『ウォールデン』への招待」,第2部「『ウォールデン』を読む」では,『ウォールデン』の4つの版に対する極めて詳細な比較・分析がなされ,冒頭の章「経済」にみる生活術と当時女性の領域であった家政学との相関を指摘している。あるいはローレンス・ビュエルに立脚して,パストラリズムと超越主義とに貫かれた作家の環境意識を考察し,さらに測量技師ソローが,開発・所有を目的とする「地図化」にいかに対処し,殊に沼地を擁する原生地の「地図化」と「反地図化」との抗争・葛藤をいかに文学的想像力へと昇華させたかを洞察する。
上記の問題系は,第3部「ソローが見た世界」,第4部「ソローが歩いた地」の間にも間テクスト性を切り結ぶ。すなわち,ソローがアメリカの未来を託した沼地は,ウィリアム・バード,ジョージ・ワシントン,ハリエット・B・ストウによる大湿地の負の要素と対比され,アメリカ旅行文学の系譜を引く『コッド岬』はレジャー目的のツーリズムの対極として配置される。さらには『ウォールデン』から『コッド岬』に至る自然描写の変化は,19世紀前半のカメラ・オブスキュラ崩壊の影響とともに,ジョン・バーバーの版画における主客を繋ぐ中間的風景描写法へと接続される。
第5部「ソローと現代作家」では,フロスト,カポーティー,フォークナー,ローレンス&リーとの関連,第6部「ソローと日本」では,宮澤賢治や野澤一とソローとの比較考察がなされると共に,日本におけるソロー受容史年表,はたまた,およそ100年にも及ぶ画期的なソロー著作邦訳書誌を収録している。
かくして本書では,テクストの深い読解と先行研究の確かな理解とによって構築された刺激的論文が目を惹き,新たな読みへの可能性を啓発させる場面が少なくない。論者の内省的で洒脱な語りが研究の深遠さや対象への慧眼を際立たせる論考もある。他方,表層的とも取れる随筆的記述や既往の情報紹介に等しい論述,また作家/作品間の比較の手法が必ずしも有効でない論考もあって,高次の先鋭的研究ばかりとは言えない。
しかしながら,論集の主人公ソロー自身の多面性に鑑みれば,それを論じる側にも多様なアプローチが生じ,各論考の厚みに差異が生じるのも,あるいは当然なのかもしれない。いずれにせよ,いまだに我々を惹きつけて止まないソローの魅力を改めて感じさせる一冊であることは間違いない。
白川恵子(同志社大学)
2005年02月03日 | アメリカ学会会報
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