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『アメリカ学会会報』第154号(2004年7月)
巻頭エッセイと新刊紹介を掲載します。なお、いずれ掲載を予定しているのはこちら。
巻頭エッセイ
島田真杉「兵士の慰霊と記憶のポリティクス」
アメリカ学会の翌週,梅雨の合間のよく晴れた日に,学会にも参加していたテネシー大学の研究者を京都観光に誘った。同大学の Center for the Study of War and Society の所長だから,金閣寺や清水寺だけでは面白くない。祇園のすこし南,急な斜面沿いにある霊山護国神社を目玉にした。竜馬や慎太郎など,明治維新のヒーローの墓がたくさんあり,ファンには知られているところだが,太平洋戦争に関連する記念碑も数多く建立されている。すぐ傍の清水寺の喧騒が信じられないほどの静けさが,ここにはあった。
彼は,かつて Rutgers で研鑽を積んだ研究者で,第一次,第二次大戦の時期を中心に戦争がいかに記憶され記念されてきたかをテーマにしている。私のほうは,このところ第二次大戦期の戦争動員や戦争宣伝を手がかりに国民意識の根源を探っている。墓碑や記念碑が散在する本殿裏の急斜面を登りながら,私は維新の顛末や太平洋戦争期の動員,戦後の遺族会のことなど,いささかおぼつかない話をした。彼は広島と大阪で原爆に関する展示や太平洋戦争中の市民生活についての史料をすでに見ていたから,私はあえてこういう場所に案内してみたのである。極東裁判で無罪を主張したインド人判事の記念碑や,戦友会が建てたいくつもの慰霊碑を見て,彼は,戦死者の慰霊に関して日本が抱える問題の複雑さ,さらに慰霊に対する国家の関わり方の日米間における大きな違いを実感したようであった。
第二次大戦中の米国の場合,政府は戦死した兵士の遺族に送る戦死証明に次のような追悼文を付していた。“He stands in the unbroken line of patriots who have dared to die that freedom might live, and grow, and increase its blessings. Freedom lives, and through it, he lives ---- in a way that humbles the undertakings of most men.” 肉親が個人として愛する人の死を悼むに加えて,ここでは国家が兵士の死をアメリカ文明の将来への貢献として謳い上げている。そもそも,第二次大戦の際の選抜徴兵法は,自由な社会では軍事的役務に就くことが義務であると同時に特権でもあるとし,それが広く国民の間で分かち合われなければならないと謳っていた。
そうした義務と特権を実践した兵士のうち,およそ 40 万人余りが戦死した。遺体の半数以上は戦後に米国へ戻されたが,相当数は海外の 14 の専用墓地に埋葬された。そのうちの 10 はノルマンディをはじめとして欧州に,残りは,アジアやアフリカの,「文明」からそれほど隔たっていないところにある。ノルマンディ墓地の場合,9000 人を超える兵士が埋葬され,1500 人あまりの行方不明者の名が別に記されている。これら墓地の位置の選定に,さまざまな政治的配慮が働いたのはいうまでもない。墓地は連合国の勝利に果たした米軍の役割,そしてその際の犠牲の大きさを現地の人々にたえず思い起こさせるものとされ,また米国と当該国との友好関係の証しともされている。
戦死した兵士たちは,このようにして死後も政治的な役割を演じ,そして,上の美文の表現を借りるならば,「そのことを通して生きつづける」のだが,しかし彼ら自身の戦いの目的や記憶の中に,政治の問題は含まれているのだろうか。私はこれまで,兵士の意識を知りたいという気持ちから,軍が大戦中に実施した兵士の大規模な調査の報告を読み,また兵士が家族や友人に書き送った手紙をたくさん読んできたが,そこから読み取れる意識と,戦死証明に付された文との間にはずいぶん大きなズレがあると思われる。だからといって,あの美文は嘘っぱち,と切り捨ててもはじまらない。それはそれで力を発揮したと,また影響力を持ち続けていると思われるから,その間をつなぐもの,その仕組みと論理を見つけなければならない。いま,そういう目で,第二次大戦期の史料をあれこれ探している。その成果をもって,テネシーの研究者と渡り合いたいものである。(京都大学)
新 刊 紹 介
有賀 貞 著
An International History of the Modern World(近現代世界の国際関係史)
(研究社,2003 年,3,000 円)
本書は,アメリカ外交史や日米関係史の研究・教育に長年携わってきた著者の手によるテキストブックである。その基礎は,1995 年以降著者が担当してきた,英語による国際関係史の講義ノート・学生への配布資料にある。この種の英語テキストは枚挙にいとまがないが,本書は,英文アドヴァイザー(Tom Hill 氏)の協力を仰ぎつつ,日本人である著者が英文を用いながら,独自の視点による歴史叙述を展開するという特色を持つ。
本書は 16 世紀以降を「近現代」と捉え,約 500 年に及ぶ時間の大胆な眺望を試みる。しかし本文全 18 章のうち,16~19 世紀は冒頭の 3 章を占めるにすぎない。つまり,「近現代史」とはいうものの,「現代史」つまり 20 世紀史が中心的位置を占めている。だがそこからは,私たちが「20 世紀」や「冷戦」を見直す際には,少なくとも 16 世紀にまで遡及して考え方の枠組みをつくりあげる必要があるのだという,著者の強烈な主張が読みとれる。
20 世紀以降を扱う残り 15 章の構成は,第一次・第二次世界大戦期に 7 章,冷戦期に 7 章,ポスト冷戦期に 1 章と非常にバランスがとれている。しかも,各章は 10~13 頁の範囲におさまっている。ただし冷戦後を扱った最後の 1 章だけは他の倍の紙数(22 頁)を費やしており,2 章に分割したほうがバランス上望ましいように思われる。さらに 19 世紀までの記述をもう 1 章増やせば全 20 章となり,授業での活用もより容易になるかもしれない。
もう 1 つ本書の特徴は,おそらく長い時代を扱うことからくる,アメリカの扱い,ないしその占める位置の相対性である。冷戦期,あるいは 20 世紀についてはアメリカの認識や行動をめぐる記述の比重が増すが,それでもやはり本書がアメリカ外交史の枠を超えた「国際関係史」を志向していることは明らかである。だからこそ逆に,同じ著者による,同じ手法のアメリカ外交史を手にしてみたいという気持ちを抑えきれない。
本書は大学などで,英語,国際関係史のいずれのテキストにも用いることができる。しかも独自の工夫として,章や節の見出しに日本語訳がつけられ,さらに各段落単位で日本語の小見出しと要約が添えられている。この小見出しと要約を目で追うだけで,国際政治の流れがじつによく把握できる効果がある。
もちろん小見出しや要約は内容を理解する手がかりにすぎない。やや長めの英文を読ませ,内容を要約する練習を積ませようとする際には,かえって便利すぎるかもしれない。だが本書をきわめて有意義な学習の友とするか否かは,結局のところ読者しだいであろう。かつて評者には,大学の英語の授業でテキストを渡されるやいなや,クラス総出で「訳本」入手に血道を上げた思い出がある。だがあえてそれを棚に上げていえば,本書を前にした学生諸君が,効率的な小見出しと要約に依拠しつつ,自力で近現代国際関係史を理解するよう望みたい。松岡 完(筑波大学)
秋元英一・菅 英輝 著
『アメリカ 20 世紀史』
(東京大学出版会,2003 年,3,400 円)
本書冒頭にある,「20 世紀がアメリカの世紀であった」という点には恐らく異論は少ないであろう。しかし,「20 世紀」が,一体どのような歴史的時代であったか,ということになると,話は全く別である。
本書では,アメリカ政治・外交史とアメリカ経済史をそれぞれ専攻する両著者が,20 世紀アメリカ(「米西戦争と門戸開放宣言」から「イラク戦争とフセイン政権の崩壊」まで)の政治軍事外交と社会経済の両面を 8 つの時代(ほぼ 10 年毎)に区分し,それぞれの章の前半を政治・外交について,後半を社会経済の動向について記述するという,いわば「二眼レフ構造」によって捉え,各時期の出来事の持つ,時代や世界との関わりと現在への繋がりを立体的に描き出そうと試みている。両著者の視点と本著の射程は,「軍事・外交および経済面でアメリカがヘゲモンとなるプロセスについて,19 世紀末のアメリカの帝国への発進から説き起こして,グローバリゼーションの急進展する 20 世紀末までを叙述(する)」(p. iii)とされている。
各章には,各年代の出来事や課題,そして「アメリカ的生活様式」に関する事項が数多く盛り込まれ,良い意味での「教科書的」な叙述となって,この分野の優れた入門書としての役割を果たしている。また,これまでの類書には少なかった,各時代におけるフェミニズム,環境保護,郊外化(都市・住宅)などの動きが手際よくまとめられている。
しかし,政治・外交史の動向と経済社会の潮流とは必ずしも同じ時間のスケールで捉えられるものとはいえない。そこから,幾つかの章では,前段と後段の叙述に違和感が生じている。それは,恐らく両著者が,「へゲモン」の内容を,ジョゼフ・ナイ教授のいう「ハードパワー」に限定したために,アメリカを 20 世紀の,そして世界の,アメリカにした,もう一つの次元である「ソフトパワー」の領域について明示的には取り上げられていないことによるものと思われる。「コーデル・ハル」は 9 箇所に登場するが,「ハリウッド」への言及はない。「アポロ計画」は,アメリカのヘゲモンの確立とは無縁の出来事だろうか。消費文化やポップ・カルチャー,さらには,先端科学技術や巨大企業文化(アルフレッド・スローンからビル・ゲイツまで)もまた,「アメリカの世紀」を構成する重要な要素ではなかろうか。
20 世紀のアメリカが,その成功故に否応無く直面することになった「力の逆説」は,正に 20 世紀という時代のヘゲモンが「核やドル」とともにイメージや情報,メディアや価値に深く関わるものであることを示している。そして,知的エリートのみならず「普通のアメリカ人」が,どのように,20 世紀の自らの経験を通じて,そうした「力の逆説のなかに生きていること」についての自己理解と,それに基づく自己定位を重ねてきたのか,こうした点を明らかにしてこそ,「20 世紀史」の名に相応しいプロジェクトとなったのではないかと思われる。杉浦章介(慶應義塾大学)
油井大三郎・遠藤泰生 編
『浸透するアメリカ,拒まれるアメリカ━世界史のなかのアメリカニゼーション』
(東京大学出版会,2003 年,4,000 円)
本書は,「アメリカニゼーション」の起源・展開・対外的浸透をめぐる 13 のケース・スタディーズからなる。これらを「内的」「境界的」「外的」の三種のアメリカ化に類別して検討を加えた点に,まず本書の構成上の工夫がうかがえる。
第一部「内的アメリカニゼーション」において注目すべきは,ここに収められた 5 編の論文がすべて,人種的マイノリティーズを取り扱っている点である。したがってアメリカ化は,ここではもっぱら「民族集団」のアイデンティティにとっての危機としてイメージされている。そこには,従来のこの分野の中心課題であったヨーロッパ系移民のアメリカ化とは,大きく異なった「浸透と拒絶」「同化と異化」のダイナミズムが提示されている。
第三部「外的アメリカニゼーション」5 編は,それぞれに 20 世紀以後のアメリカの対外的影響力がおよんだ異なった国・地域(メキシコ,中国,フィリピン,ドイツ,フランス)とその影響力の異なった形態(資本,イデオロギー,思想,秘密工作,経済・軍事援助,大衆文化など)を取りあげる。その結果,手堅い実証性に裏づけられた各論文には,選択対象の国ごと,影響力の形態ごとに,アメリカの対外的な部分的像が映し出されている。しかし,それらはあくまでも部分像にとどまり,「外的アメリカニゼーション」の全体像や一般理論がそこに提起されているわけではない。現在までに,ハード・パワーとしても,ソフト・パワーとしても飛び抜けて卓越した国際的影響力をもつにいたったアメリカの対外的全体像を提示するためには,おそらく別に一書が必要とされよう。
三部構成の本書中,とりわけ興味深いのは,ニューメキシコ,プエルト・リコ,ハワイにおける「境界的」事例を取りあげた第二部である。それは,アメリカの「中核」でも「外部」でもない,まさに両者の境界への関心を呼び覚ますことによって,アメリカ・ナショナリズム論の新しい展開を予示している。これらの地域は合衆国の版図に繰り込まれた時点で,いずれも固有の伝統文化を保持する「先住社会」を有していた点が注目される。ここでのアメリカ化は,移民集団をめぐるそれとは異なった展開を示し,「アメリカンネス」に対抗する独自のアイデンティティを生みだしたとされる。
「境界的アメリカニゼーション」という魅力的スキームを眼前にすると,メキシコやフィリピンの事例は,「外的」というよりはむしろ「境界的事例」として取り扱われる可能性もあるように見えてくる。同じく,国内のマイノリティーズのアメリカ化もいわば内なる「境界的事例」の様相を示しているようにも思われる。
最後に,本書のすべての論考を一つの視点が貫いていることを指摘しておきたい。すなわち,「アメリカ化」とは,「内的」「外的」「境界的」を問わず,けっして多数者から少数者への,浸透する側から浸透される側への一方行的影響関係にとどまらないという点である。少数者の選択は「浸透」の態様と結果に大きく関わる。浸透の結果,アイデンティティの変容を迫られるのは,浸透される側ばかりではない。アメリカ化を,他動的であると同時に自動的・自己再帰的でもある相互的過程としてとらえ,このいわば相互浸透と相互拒絶という問題枠組みを設定し,各ケースを通して,その動態を実証した点で,本書の貢献は多大であるといえよう。古矢 旬(北海道大学)
久保文明 編
『G・W・ブッシュ政権とアメリカの保守勢力━共和党の分析』
(日本国際問題研究所,2003 年,3,500 円)
G・W・ブッシュ政権に対する批判の渦巻く中,表層の批判に終始するのではなく批判の対象となっているブッシュ政権の本質を究明しようとするのが,本書での編者の意図である。実際,そうした編者の意図に呼応する章は読み応えのある内容になっている。
共和党の変容と外交政策の関係が概観されたあと,「保守」をキーワードとして,政策形成,思いやりのある保守主義,議会共和党,保守主義台頭の歴史,宗教的保守派,先制行動ドクトリン,同盟関係,国土安全保障戦略という,ブッシュ政権の内政・外交の多様な側面で保守性が論じられている。今アメリカで何が生じており,それにどのような組織や人的ネットワークが関係しているのかという時事的描写が克明になされる一方で,その背景にある保守的思想がアメリカ社会の価値観にまで掘り下げて議論されており,なぜここまで世界中に反感を引き起こすブッシュ政権の政策が,アメリカ政治の文脈においては支持されうるのかを解明する鍵を提供してくれる。と同時に,編者は「いかなる連合も永遠ではあり得ない」として,戦略的な保守多数派の内側にある揺らぎを指摘している。
長期的な視野に立つとき,「戦略的」に党派的対立が形成されている現状が,必ずしもアメリカ社会にとって望ましい方向性とは言えないことも読み取れる。例えば,廣瀬論文は 2000 年選挙で顕著に現れた有権者の政策「選好」の両極化が,結果的に党派的対立の強い議会を作るという理論を紹介しながら,穏健派の消えた議会の現状を分析している。こうした政治の両極化が進む中でアメリカ社会が必要としているのは,中山論文が指摘するように「左右両勢力の間の相互作用をときほぐしつつ,メタ物語を語ること」なのかもしれない。
その模索の一つとして新田論文が焦点をあてたのが,ブッシュが早くから呈示してきた「思いやりのある保守主義」で,吉原論文,廣瀬論文,蓮見論文もこの点に触れている。クリントン政権が第三の道として福祉政策での転換を示したように,旧来的な二項対立では答えの出ない問題に対し,政府と市民社会が責任を共有する形で解決を図ろうとする試みには,イデオロギーを超えて期待が寄せられている。ただし,公的資金を受けて宗教的保守派がその一端を担おうとする動きが持つ政治的な意味は,見逃すことはできない。
ブッシュ政権の保守性に起因する今日の問題は,ネオコン批判として矮小化することはできない。アメリカ社会とは,リベラルであれ保守であれ,自己の正しさに対する強い思い入れとして,本質的に保守性を備えているのではないだろうか。本書は,ブッシュ政権の本質はもとより,私たちにアメリカにおける保守とは何かを再考させることで,アメリカそのものの本質に迫る業績だといえよう。大津留(北川)智恵子(関西大学)
矢ヶ﨑典隆・斉藤 功・菅野峰明 編著
『アメリカ大平原━食糧基地の形成と持続性』
(古今書院,2003 年,3,500 円)
本書は,人々が余り注目してこなかったロッキー山脈東部に横たわる大平原が,20 世紀後半に経験した激変を,地理学のフィールドワークによって明らかにしている。大平原はそれまでバッファローや先住民,西部劇に登場するカウボーイの地として,または厳しい自然環境に立ち向かった西部農民の苦境の地として知られてきた。しかし地下水に恵まれた大平原はこの水を利用することにより,近年,アメリカ有数の灌漑農業と畜産複合地域へと飛躍的な変貌を遂げている。
この地域の灌漑農業の発展に関心をもった研究者によって 1992 年頃から地理学調査が開始され,8 名の日本人と 3 名のアメリカ人研究者の共同研究をまとめたものが本書である。かってアメリカ大砂漠と呼ばれていた大平原には,オガララ帯水層と呼ばれる世界最大の地下水が存在しているが,深井戸掘削技術の発達により地下水の大規模利用が可能となった。1970 年代頃からセンターピボット灌漑の普及により,それまでも栽培されていた冬小麦やソルガムの収量が急増し,さらに半砂漠のためこれまで栽培できなかったとうもろこし,アルファルファ,大豆も栽培されるようになった。これらの飼料用農作物を使って,次に,肉牛を肥育する大規模なフィードロットが出現し,さらにその肉牛を現地で食肉に解体して,必要な部位ごとに冷凍箱詰めする牛肉加工工場が豊富な水を利用して建設された。その他に養豚や大規模酪農経営も見られるようになり,人口の希薄な大平原がアメリカ最大の世界の食糧基地へと変貌を遂げた。これにともない地方都市での人口増加がおこり,ヒスパニックや東南アジア系の人口の流入が見られる。
本書には地理学のフィールドワークにより図表や写真が豊富に掲載され,現地調査にもとづく研究の成果が遺憾なく提示されている。アメリカの学会では近年,現地調査にもとづく研究が軽視されているので,その意味でも貴重な研究成果と言えよう。他方において,現地調査のために見過ごされてしまった問題点はなかったか。オガララ帯水層に全面的に依存する大平原の経済は,地下水位の低下や枯渇に必然的に左右される。有限の地下水を出来るだけ長期に,有効に利用しようとする持続的な努力がなされている点については,本書も詳しく説明している。しかし農業の乱開発にともなう土地の流亡や肥沃土の喪失が農業の持続性のために大きな問題である点については触れられていない。また適正規模を遙かに超えて拡大した農業や畜産業がもたらす諸問題は,今回の BSE 騒動が示すように,小回りが効かなくなったアメリカ農業の姿を象徴しているように思われる。篠田靖子(名古屋学院大学)
海老根静江・竹村和子 編著
『かくも多彩な女たちの軌跡━英語圏文学の再読』
(南雲堂,2004 年,3,800 円)
本書は,巻頭の序文にあたる「フェミニズムの『文学力』宣言」に記されているように,文学とフェミニズムが両方とも「地盤沈下」したという現状においても,あえて筆を取った 16 人の勇敢な女性たちによる「フェミニズム文学研究書」,フェミニズム(ス)という視点から,様々な「文学的」テクスト(小説,詩,演劇,歌,映画など)を読み解いたものである。とは言っても,4 編ずつの論考を収録した 4 つの章の最初には,それぞれ「小序」がつけられていて,非フェミニスト,あるいは非文学研究者の読者にも,親しみやすいように工夫されている。第 1 章では,独立革命後から 20 世紀初頭までに「建国プロジェクト」に様々なかたちで関わっていったアメリカの女性たちによるテクストが取り上げられ,第 2 章では,19 世紀末から第 2 波フェミニズムが始まる 1960 年代までのアメリカに登場した「新しい女」たちによる,また「新しい女」たちを描くテクストが論じられている。この 2 つの章が,アメリカの(女性)文学史を年代順に追ったものだとすれば,第 3 章では,もっと地理的に広い範囲を対象とする「英語圏文学」(旧英領植民地出身の女性作家やアメリカの日系作家たち)が扱われる。そして最後の第 4 章には,最近になってやっと批評用語として認知されてきた「セクシュアリティ」──「性欲望や性幻想や性行為などを大きく含みこむ概念」(竹村)──の力学が,テクストにどのように(巧妙に)組み込まれているかが検証されている。
わたしにとってはどの論文も興味深く,勉強になったが,中でも印象深かったのは,日本の女の表象を扱った大脇論文であった。特に 20 歳まで日本で暮し,その後渡米して英語で創作活動を続ける Kyoko Mori が,事も無げに日本の女を「他者化」するというのは,アメリカ(や他の異国)で生きていくことをあえて選択した日本の女たちによく見かけられる現象とは言え,今回,本書で遭遇したことによって,その現象についてあらためて考え直す機会を与えられた。人は誰でも(多かれ,少なかれ)誰かを「他者化」する。それを避けることはできない。しかし,それが何のためなのか,あるいはその「他者化」の虚構性を認識しているかどうかが問題であろう。たとえば,それが単に「全能感」を得るためだけにおこなわれたり,またそれを「真実」だと信じて疑わない場合,さらにその「他者化」をする人物が「権力」を持つ場合は,多大な被害をもたらしかねない,とわたしは今,毎日実感している。そんなわたしは,本書が自らに課した目的を達成したか,人間/主体を構成している文学/テクストの力の有用性と,またその文学/テクストの「政治性」に異議を申し立てるフェミニズムの「対抗政治性」の有用性を提示することに成功したかと問われれば,はっきり Yes と答えるだろう。渡部桃子(東京都立大学)
大井浩二 監修
花岡 秀・貴志雅之・渡辺克昭 共編
『共和国の振り子━アメリカ文学のダイナミズム』
(英宝社,2003 年,3,800 円)
本書は編者の一人花岡 秀氏の「あとがき」によると,『大い(大井)なるアメリカ文学』を目指して,共和国文学について数々の業績を世に問われている監修者大井浩二氏の「古希のお祝いの方法模索」から生まれた。しかし型どおりの記念出版ではなく,きわめて鋭い問題意識に貫かれた時宜にかなった論文集である。共和国と帝国の激しい振り子がむしろ片方に振れきった観のある現在,本書のテーマは今深刻に問われねばならないだろう。
大井氏の「はしがき」は,「1776 年に生まれた美徳の共和国は」「帝国に堕する危険を建国の最初から孕んでいた」と指摘し,共和主義イデオロギーが「基本的に WASP の男性」のものであり,「アメリカ的想像力」は帝国主義という「シーザーの亡霊」にとりつかれてもきたとするが,20 章各論はその運命とどう切り結んできたか,アメリカ文学のダイナミズムを明らかにするとされている。
勿論この壮大な目論見は簡単に実現できるものではないかもしれない。第 I 部「異文化へのまなざし」は本書の時代やジャンルの枠を超えようとする構成の典型となっている。改めて〈避難所〉としてのアメリカの原点を論じるウイリアム・コベット『移民の手引き』論から始まり,シャム双生児の文化表象史を民主主義的怪物性へと回収する,達意のポー「ウィリアム・ウイルソン」論,ジェイムズ『アメリカ人』論と続く。更に世紀転換期マイノリティ作家の自伝の伝統をユダヤ系女性作家メアリー・アンティン『約束の地』からジュリアス・レスター『ラヴソング』(1988)まで辿る好論が来る。ただ各論の繋がりや時代とジャンルがあまりに多様で,振り子との関係性と異文化の中身も曖昧となる点は惜しまれる。
しかし第 II 部「フェミニズム,ジェンダー」は統一感があり,特にこれまで看過され周辺化されてきたテキストに着目する『ドクター・ゼイ』論やニューイングランドの 4 人の女性作家を〈労働文学〉という新しい切り口で論じた「織機の間の知性」は印象深い一編であった。共和国の美徳を謳い上げる典型的テキスト『広い,広い世界』論もあり時代的にも 19 世紀半ばから世紀転換期をカヴァーして収斂性もある。
第 IV 部「テクストの迷宮」第 V 部「文学,資本主義,イデオロギー」も,テキストのクーデターを分析する『ビリー・バッド』論や,南部文芸復興と農本主義を再考した「南部の憂鬱」等手堅い秀論が多いが,タイトルのネットが拡すぎる感は否めない。振り子は歴史と共に振れるのであってみれば,やはり時代・ジャンル・地域の混淆は,もう少し整理されたほうがよかったのではないだろうか。
それに対し第 III 部「物語るメディア/メディアとナラティヴ」は,映画や写真というメディアの語りの特性に焦点化され本書の意図は見えやすい。『舞踏会へ向かう三人の農夫』論は全編で最も秀逸に,一つのテキストに振り子の全運動を読み込もうとするものである。恐らく時空を異にする被写体と鑑賞者を,「同時性と言う秘密の回路で」結合し,「相互干渉しシンクロ」させる写真と文学の複合体は,フォードに表象できるアメリカ文化の特性とも共振するはずで,読者に振り子が時の神クロノスのイコンであったことを改めて想起させる。以上のように本書は,文学研究に新しい示唆を与える意欲的な試みである。伊藤詔子(広島大学)
常山菜穂子 著
『アメリカン・シェイクスピア━初期アメリカ演劇の文化史』
(国書刊行会,2003 年,3,200 円)
17 世紀にピューリタンたちが,神の書いた台本を演劇的に実践する共同体として,自らのアイデンティティを立ち上げた人々だったとするならば,19 世紀の人々は,大衆化されたシェイクスピアを通して,もっとも危険な二つの領域──人種とジェンダー──をめぐる言説を再編した。本書は,シェイクスピアというメタファーを通して,19 世紀から 20 世紀初頭にかけて,奴隷解放運動家や女優,俳優,作家等が,既存の言説に対して自己の主体位置を抵抗的に見出していくさまを辿る。
第 1 部第 1 章「新大陸のシェイクスピア」は,19 世紀大衆文化におけるシェイクスピアの位置付けと高級化への流れを論じ,第 2 章「丘の上の地球座」では,初期ピューリタンの説教に見られる演劇的想像力を検証する。第 2 部は具体的な人物とテクスト,同時代の演劇文化について,著者が「隠喩的」と呼ぶ読み込みが行われる。個々の事例を通して,「アメリカ国家と文化が形成される段階」でシェイクスピア作品に込められた「概念のエッセンス」が「意識的・無意識的に模倣され変形」していった変容の過程に光を当てる試みである。
第 3 章と第 4 章では,『オセロー』が,アメリカの人種問題と,黒人が「白人社会で認められたいと切望する心理的葛藤」のメタファーとして,取り上げられる。黒人奴隷解放運動家フレデリック・ダグラスから,オニールの『すべて神の子には翼がある』で主役を演じた黒人俳優ポール・ロブソンまで,白人の作り上げたステレオタイプ的黒人像に迎合しながら,その裏をかく「トリックスター的オセロー」が「白人領域の乗っ取り」を試みる。また第 5 章と第 6 章では,『ロミオとジュリエット』を演じる女優たちが,公的領域と私的領域を横断し,巧みな二枚舌で「真の女性」の「ふり」をしながら,ジェンダーのカテゴリーを掘り崩していく。
このように本書は,シェイクスピアに,アメリカにおける文化的抵抗の磁場を読み取るが,同時にそこに,植民地から帝国主義的領土拡張に乗り出した,アメリカの文化帝国主義をも読み取る。第 7 章は『テンペスト』のキャリバンからプロスペロに転身したアメリカが,『アンクル・トムの小屋』から『王様と私』まで,黒人からアジア人へと,キャリバンを読み替えていく過程を読み取っていく。
演劇的想像力が,行為遂行的にアメリカという国家アイデンティティを構築するとともに,抵抗的主体位置も生み出していくダイナミックな過程を,豊富な資料と精緻な議論でとらえた好著である。外岡尚美(青山学院大学)
吉田純子 著
『少年たちのアメリカ━思春期文学の帝国と〈男〉』
(阿吽社,2004 年,2,500 円)
本書は,アメリカ小説のなかで,とくに著者が「思春期小説」と名づけた「思春期の若者が近代社会の諸制度と格闘しながら成長するさまを描く作品」を論じたものである。まず著者は,アメリカ文化の典型的な男性像である無垢な孤高のヒーロー「アメリカのアダム」をふまえつつ,アメリカで理想とされるのは地位や権威を持ち,女性(および女性的なもの)を支配する独立独歩型の男性であり,経済的,社会的変化や戦争といった合衆国の大きな変動の中で,この「理想の男性像」の達成がますます困難となり,「自分の男らしさは十分ではない」という不安を男性の中に呼び起こしてきた,と論じる。『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』を例にとって,以上の論点が分りやすく整理された序論は,説得力もあり読み応え十分である。
続けての各章で,著者はそれぞれの時代に男性が直面する「男らしさ」不安がどのように表象されているのか,『オズの魔法使い』『類人猿ターザン』『ゲド戦記』などのテクストについて論じていく。
本書は,まず文学批評で見落とされがちなヤング・アダルト小説の案内,批評として貴重である。それぞれの章が独立した批評として読めるが,思春期にある男性主人公と,「男らしさ」不安との葛藤,というテーマで全体が統一され,フェミニスト批評の蓄積を踏まえた洞察が随所にみられる。『オズの魔法使い』を,ドロシーを中心に読むのではなく,かかし,ライオン,ブリキの樵,オズの魔法使い,という四人(?)の「男らしさ」不安と回復の物語として解読する第 2 章,および,力が支配する殺伐とした私立男子校を舞台とするロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』を,『ライ麦畑でつかまえて』との比較もふくめて論じた第 4 章は,評者にはとりわけ興味深かった。
あえて難をいえば,著者が,思春期の主人公(たとえば『ライ麦畑』のホールデン・コールフィールド)の不安や権威への反発を「男らしさ」神話が原因であると断定し,その断定の理由について説明がない所があるのがやや残念である。また,フェミニスト作家であるアーシュラ・ル・グゥインの『ゲド戦記』を,ジェンダーの図式で読み解くのはある意味,作者の意図にそった読み方であり,いささか素直すぎる気がするし,ル・グゥインの,よりジェンダー・コンシャスなエッセイや SF 小説『闇の左手』などにも言及がほしいところ。キャサリン・パターソンの『もう一つの家族』を論じた第 7 章も,同じく作品の提示する図式に素直すぎるように思えた。英語もおぼつかないヴェトナム人少女の差し出す水を受け取ることがきっかけとなって,主人公の少年が,戦争の英雄と言われていた祖父や父への失望をのりこえ,ヴェトナム女性と結婚しておだやかに暮らす叔父の生き方を認めていく,というストーリー展開は,他者による主体の獲得および新たな男性性モデルの登場,と評価できなくもないが,むしろ従来白人女性の担ってきた「男を癒す大地の母」役割を,ヴェトナム女性に肩代わりさせただけ,というようにも読めないだろうか。
とはいえ日本ではあまり論じられることがないコーミア,パターソン,ウォルター・ディーン・マイヤーズらの現代作家について論じた先駆性および,批評としての完成度を高く評価したい。また本書を契機にこれらの作家たちの研究,翻訳がさらに進むことを期待したい。杉山 直子(埼玉大学)
加藤幹郎 著
『映画とは何か』
(みすず書房,2001 年,3,200 円)
20 世紀のアメリカ文化のなかで,映画というメディアが突出 した重要性を担ったことに関して,異論は少ないだろう。それにもかかわらず,先頃アメリカ学会の招きで来日したジョナサン・アウアーバック氏も問題提起していたように,半世紀あまりのアメリカ研究史のなかにあって,映画研究は奇妙なまでに欠落してきた。スクラーやスロトキンの壮大な研究でさえ,映画分析の手法そのものに関する限りは,プロット分析とテーマ分析,そして大衆娯楽の社会史といった一定の枠組みのなかに自らを閉ざしてしまった感を否めない。
本書は,アメリカ研究と映画研究とのあいだの不可思議な断絶によって,どれほど多くのものが見失われてきたかを如実に物語る。そこには構造主義的テクスト分析からジャンル論,物語学的修辞分析から精神分析批評に至る多彩な手法が随意に必然性をもって動員され,「映画とは何か」という根源的な問いかけに,きわめて自然に収斂していく。わけても本書を魅力的なものとしているのは,マイナー映画や合衆国議会図書館のペーパープリントにまで至る,気の遠くなるほどの知識の集積に裏付けられた映画史的視点である。それは単なる博識にとどまらず,新たな意表をついた歴史的文脈を織り紡ぎ,そして映画史的愉悦が一つ一つの分析に光を投げかける。「映画とは何か」という問いかけに一生をかけるという確固たる決意をもった研究家/批評家であってこそ到達できる孤高の境地であり,それゆえに必ずしも映画がすべてではないアメリカ研究者の映画論の目標には,そもそもなりえないと言えるかもしれない。
しかしながらそのようなかたちで,アメリカ研究と映画研究のあいだのある種の分業体制に回帰することを本書は許さない。初期グリフィス研究という映画研究の最先端の難題に取り組んだ第 V 章は,先住民表象というアメリカ研究の大論題に接合することになる。同様に黒人映画作家オスカー・ミショーを論じる第 VI 章はアフリカン・アメリカンのマイナー文化という論題に真正面から切り込み,『ショアー』を列車表象史のなかに布置する第 III 章は,ホロコーストと記憶の政治学という,またしてもアメリカ研究者が避けて通ることのできない問題に新たな展望を開く。『映画とは何か』は「アメリカとは何か」を問う書である。
「それを見たにもかかわらず,そこで何ものかが不可視にとどまっていたことを指摘し,それがなぜ見えていなかったのか,その原因をテクストと歴史の双方に探ること」(18-19)──研究者が自らの使命をこれほど簡潔明瞭に力強く意識化することは希有と言わねばならない。そしてテクストと歴史の双方に探るという企図がいっさいの妥協なしに貫かれるがゆえに,映画研究とアメリカ研究とのあいだに立ちはだかっていた壁は崩れ去るのである。本書が映画研究者とアメリカ研究者の双方にとっての共通の必読書となることにより,どれほど豊穣な可能性が開かれていくか,それを思わずにはいられない。宮本陽一郎(筑波大学)
2004年11月01日 | アメリカ学会会報
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