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『アメリカ学会会報』第155号(2004年11月)

巻頭エッセイと新刊紹介を掲載します。

歴史の手触り
松本悠子
 今夏,重い腰を上げて,コーネル大学まで史料収集に出かけた。夏休みといっても10日ほどしか予定がとれず,図書館に通うためだけにアメリカへ行くというのはもったいない気もして,躊躇していたのである。しかも,お目当ての史料があるということで目ざしたコーネル大学は,予想以上の山のなかで,美しいキャンパスだが,まさになにもない。ここまで来て図書館で成果があがらなかったらどうしようと,宿に着いた瞬間から少々弱気になっていた。
 翌日,その心配は早くも的中した。みたいと思っていた家政学関連のコレクションのうち,20世紀初めに出版された本を検索すると,ことごとく図書館本館にはなく,アネックスの奥深くにしまい込まれている。アネックスから本を取り寄せるには1日以上かかり,短期間に出来るだけ多くの史料を見たい私は焦った。では,図書館の誇るコレクションが,何故しまい込まれてしまったのであろうか。答えは簡単である。電子化が進んでいて,コレクションの主要な本は,ウエブサイト上で,つまり日本でも読めるから,本は片づけられてしまったのである。
 はるばるコーネルまで行った私には口惜しいことだが,史料を世界で共有できることは,素晴らしい。日本のアメリカ史研究者も,もはや,史料が手近にないから,あるいはアメリカに行けないから,という言い訳はしにくくなってきた。しかし,電子化の進展を,手放しで喜んでもいられない。以前,私は,歴史研究には知力も大切だが,めざす史料のためにアメリカまで出かけ,ほこりっぽい図書館のなかで何冊も重い本を探し出し,一日マイクロフィルムと格闘するための体力と熱意が何より重要だと学生に言っていた。だが,これも今は昔。このように第一次史料へのアクセスが容易になると,体力よりも,ある特定の史料を何故使う必要があるのか,どのように使えば最も有効なのかをこれまで以上に深く考える力が必要になる。
 このようなことを今さら強調することは,アメリカ史あるいは西洋史以外の研究者の方々には意外かもしれない。しかし,「横のものを縦にする」時代は過ぎ去ったものの,これまでの我が国の西洋史研究には,どこかに甘えのようなものが残っていたような気がする。ところが,世界中で,ある程度史料の共有が可能になると,その史料を使って日本で研究することの意味を考え,日本から世界へ発信する仕組みを作り出すことが必要になってくるのである。
 さらに,電子化による史料の共有にのみ頼っていてよいものであろうかと,負け惜しみでなく,少し不安にもなる。コンピューターの画面では,本の装幀や紙の質を知ることは出来ない。私自身,本の手触りから,その本の出版された時代の息吹や埃(?)を感じ取ることが出来たように思った経験が何度かある。この貴重な感覚もまた,歴史研究者にとって必要なことではないであろうか。我が国の大学の図書館の将来を考えても,電子化は避けがたい。しかし,少なくとも歴史研究者にとって,中身の情報だけでなく,本それ自体が史料であることを,図書館にも理解してもらう必要があろう。
 たしかにコレクションの一部が見られず気落ちしていたが,全く無駄足だったわけではない。10日間では調べ尽くせないほどのマニュスクリプトの箱に囲まれて,鉛筆を動かしながら,やはりまだ体力は必要なのだと,何かほっとした気持ちになった。家政学の史料として集められた家計簿のコレクションから20世紀初頭の農村の女性たちの「声」が聞けたような気になり,歴史研究には「手触り」が必要だとあらためて感じたのである。
(中央大学)


阿部 齊さんの学風を偲び

 日本におけるアメリカ政治研究の中心,阿部齊さんが去る9月12日,脳出血で逝かれた。今年,70歳で本学会の名誉会員になられたばかりで,まだまだお仕事を続けて頂きたいお年とお元気さであったことを顧み,何とも痛惜の思いを禁じえない。
 阿部さんの学風を一言で言えば,政治,ことにアメリカ政治についての,理論と実証との統合の上になった研究成果を,生硬にならないように読者に伝えるという姿勢であった,と言えよう。
 それは,阿部さんの処女作であるが,今日もなおその重要性を失っていない『民主主義と公共の概念』(1966)にも見事に現れている。その序説は公共の観念について論じたいわば理論の部であるが,多元性と統合というアメリカ政治の基本的課題を提示する。そして,第1章以降で,多くの資料を用いて,植民地時代から歴史的に,その課題に取組み実証してゆく。理論,実証を通じ,読者に現代的,現在的関心をそそる名著と言える。
 阿部さんが,その論稿を書いている頃,余談ではあるが,阿部さん,有賀弘さん,私の三人が,夏休み合宿し議論し,しばしば深更におよんだことがある。その議論を土台に阿部,有賀さんが原稿を書き,やがて『政治─個人と統合─』(1967)として刊行された。そこでも,阿部さんは利害の多元性と統合とを中心に,政治過程面を説得的に論述している。
 その後,阿部さんは『アメリカ現代政治』(1986,2版1992)に代表されるように,現在の政治を理論と実証とをもって分析し,論説される。実は阿部さんにアメリカの友人から最近送られたThe 9/11 Commission Reportを京夫人より頂き,阿部さんはこうした資料も使って,アメリカの政治を論じたのだという実感を抱いた。 阿部さんが特に関心をもたれた性差別・男女平等,自然保全の国立公園についての,京夫人の協力による実践的研究,実地調査については,周知のところであろう。 阿部さんは,温厚篤実,控え目な方ではあったが,言うべき時には,言うべき事をはっきり言われた。その点自他に対して誠実なお人であったことを偲びつつ,ここに謹んで哀悼の意を表する次第である。
2004年10月4日
(東京大学名誉教授)


新刊紹介
 
紀平英作 編
『帝国と市民━━苦悩するアメリカ民主政』
(山川出版社,2003年,3,200円)

 本書は,アメリカ合衆国が「民主主義を国内基本政治原理としながら帝国化」の道を歩みつつあった時期として,とくに第2次世界大戦の終結から1950年代までの時期に注目し,その複雑な様相を,国民国家との間で微妙な緊張をはらむ「市民」という目線から捉えた意欲的な論集である。とりわけ本書は「市民」を,規範的な社会階層を超えた枠(職業,人種・民族,ジェンダーなど)で,また「市民」と国家の関係を世界史的連関のなかで捉えることをねらいとしている。
 本書は,1950年代アメリカ民主政の歴史叙述の可能性を論じた序論に続けて,4部構成となっており,各部には①冷戦の開幕とアメリカ社会,②帝国の構造,③市民権改革の光と翳,④戦後アメリカと女性,というタイトルが付されている。各部の所収論文(題名)は,①第二次世界大戦後アメリカの大学を襲った反共の嵐と言論の抑圧・窒息(挫折した「戦後平和」への期待),②長い独裁政治から脱却したグアテマラのアルベンス政権を崩壊に追い込んだCIAの秘密工作(海外介入の論理と実態),原爆被害の実態や医療情報が統制された結果,歪んだ原爆イメージがアメリカ市民に定着した経緯(核時代における国家と国民),③市民権改革が冷戦下の安全保障問題の一部として捉えられたことが黒人公民権問題の展開に与えた影響(市民権改革の始動),「下から」の隔離廃絶をめざした直接行動が本格化した時期の黒人公民権運動の複合的な性格と歴史的意義(「ボイコット」から「座り込み」へ),④家庭至上主義や順応主義の圧力のもとで女性が沈黙を余儀なくされた時期とされる1950年代における女性知識人の模索(終わりからの出発)を,それぞれ論じている。
 いずれの論考も内外の最新の研究動向を総合し,あるいは著者独自の研究成果を問う内容であり,読み応えがある。また,市民的自由・諸権利と国民国家の緊張関係という従来の研究領域を踏まえつつも乗り越えて,大学と国家,情報と市民,外交史と人種関係史の融合など,新視点からの問題提起をめざしている点も高く評価したい。惜しまれるのは,各部のタイトルと個別論文の関係が第3部以外は自明とは言えないなど,アメリカの帝国化と「市民」をめぐる諸問題を相関的に問う本書の魅力的な意図が,必ずしも分かりやすく示されていない点である。極めて意欲的な史論である序論も,初学者を含めて本書のタイトルに惹かれた読者を各論文に誘うという点で,少し工夫が欲しい。このように読者に咀嚼の労を若干強いる面はあるが,「帝国と市民」をめぐる,優れて関係史的で問題提起的な論集であり,一読を奨めたい。
中野 聡(一橋大学)


篠原健一 著
『転換期のアメリカ労使関係
━━自動車産業における作業組織改革』
(ミネルヴァ書房,2003年,3,500円)

 今日,アメリカ合衆国の組織化されたブルーカラー労働者はどのような状態におかれているのか,本書はこのような疑問に対して,労使関係の側面から一つの回答を与えてくれる。アメリカ自動車産業の大量生産様式における労使関係はかつて世界で最も先進的なモデルであるといわれ,その労使関係の特徴は団体交渉と労働協約による職務の厳格な規定と先任制に基づく組合による職場コントロールであった。しかし,1980年代以後,アメリカ自動車産業が国際競争力を低下させる中で,そのモデルが大きな転換期を迎えている。労使関係の職場レベルでの前提となるのが現場の作業組織であるが,その作業組織の改革の具体的な研究が欠けている,これが著者の本書を執筆した問題意識であり,著者はそのような問題意識のもとで日米の先行研究を検討するばかりでなく,現地調査を踏まえて,転換期にあるアメリカ自動車産業の労使関係の現状とその問題点を論じている。まず,著者は先行研究での問題点として,現場の作業組織の重要性が指摘されていながら,職場の先任権についての本格的な研究が少ないこと,そのために今日の作業組織の変化の先端であるチームコンセプトと先任権との関係についての議論が表面的なものに止まっていると批判し,その上で,著者は第5,6,7章で,先任権の史的展開を労使協約など原資料の詳細な分析を通じて,その先任権の構造,先任権制度と職長の役割・権限を,現地調査を踏まえつつ検討することで,80年代以後の作業組織改革の本質を解明しようとしている。
 著者は,80年代以降,日本の作業組織のあり方が大いに注目され,アメリカ製造業の職場のあり方を「日本化」しようとする企業が増え,そのなかで,とくに労使に関心が高かったのがチームコンセプトであったことに注目する。言うまでもなく,大量生産現場における現実の労働管理と支配を可能としたのが職長の存在であり,職長による現場の生産労働者の管理と支配,恣意的な解雇と昇進に対抗して組合は長い間闘ってきた。その組合の闘いの柱をなしたのが組合の先任権の拡大であった。著者は,チームコンセプトの導入により,職長の権限が縮小し,それが管理監督的な役割からチームの援助やアドバイス的な役割へと質的に変化したことを明らかにしている。GMのランシング工場では組合側からチームコンセプト導入の「交換条件」として先任権の拡大と職長権限の制限が提案されたという興味深い事実を明らかにしている。
 評者がこの著書を読んで感じたのは,アメリカにおける80年代以後の組合の「譲歩交渉」と呼ばれた労使交渉が,日本の場合にみられたようになし崩し的に経営にとって都合のよい作業組織つくりではなく,先任権の拡大を目指しながら,職長による恣意的な決定権限にブレイキをかけながら,労働者の権利を主張し,組織労働者が闘う姿勢を崩さなかったということである。
庄司啓一(城西大学)


中條 献 著
『歴史のなかの人種
━━アメリカが創り出す差異と多様性』
(北樹出版,2004年,2,400円)

 人種という概念を,生物学的な事実ではなく,特定の歴史状況のなかで社会的に構築されるイデオロギーのひとつだとする認識枠組み。それは,早くは1960年代に現れた科学的人種主義批判の研究群に散見されたが,とりわけ1990年代以降,アイデンティティー政治の論争を背景として,爆発的に生産される「人種」研究の多くが依拠するところとなった。若い読者を想定した入門書として書かれた本書は,ここに蓄積された膨大な近年の研究成果を独自の観点から整理・解釈した労作である。
 本書は相互に関わる二つの性格を併せ持っている。ひとつは,社会構築主義の方法論を手がかりに「人種」の歴史を読み直そうという史的考察であり,いまひとつはそうした知的営みが,今日の政治状況の中で持つ意味合いを探ろうとする社会批評に近い議論である。
 まず前者について見ると,南部史を具体的な素材として,人種概念の歴史的特殊性が検討されている。ここで強調されたのは奴隷制廃止を境に「(人種の)歴史を切断」することだった。すなわち,自由が到来したことで,「人種」は初めて奴隷制社会に固有の地位・身分から離れて,独立の抽象概念として「世界を認識する枠組み」になったという。権力関係の変化にともない「人種」の概念構成も異なったものとなるという非連続説だが,著者は同時に,人間を分類し序列化する「人種の言葉」それ自体は,現在に至るまで不平等な社会構造に説明を与え,その中で再生産されているという問題を見逃さない。この点については,人々が日々繰り返す慣習的行為や「日常の存在を描写する語彙」の中に「人種が生きる」というB・フィールズの議論が特に重視されている。もとより,著者は法や制度,国民国家統合といったよりパブリックな政治・権力が「人種」を創り出すという一般的な議論を展開してもいる。この「上からと下から」の人種形成論は,幾分乖離して見えなくもない。両者をつなぐ媒体(例えば祝祭やマスコミ,大衆文化等)の果たす役割についても今後検討されるべきだろう。
 社会批評としての考察の中核をなすのは,「被抑圧者の同定」の問題である。著者は,「黒人」の主体や自意識もまた歴史性を有するものだと見る必要を説く。ブラック・ナショナリズムが「超歴史化された一元的『黒人』を措定」するとき,ジェンダーなど黒人性に内在する多様性やダイナミズムが隠蔽されてしまうからだ。しかし,だからといって著者は,社会構築物としての人種アイデンティティーを脱構築しようとするポストモダンの議論には安易にくみしない。共通の差別経験から「人種」を軸に結束する被抑圧者の抵抗を「本質主義」だと批判することは,カラー・ブラインド派の現状肯定に加担することになりかねない。逆に本書は,「『人種なき人種主義』の社会状況にあって,人種をあえて可視化していくことの重要性」を訴える。「人種」は「社会的に創られた」ものであるが,決して「虚構」ではないのである。このように本書の内容は単なる「入門書」の域を超えている。人種を考える我々が,今どの地点に立っているのかを指し示す,洗練された思想の書である。
中野耕太郎(大阪市立大学)


北野秋男 著
『アメリカ公教育思想形成の史的研究
━━ボストンにおける公教育普及と教育統治』
(風間書房,2003年,10,500円)

 本書は著者の20年にわたる研究活動をまとめた学位論文(2002年3月)に加筆・修正したものであり,「本書の構成と研究課題」を提示する序章に続いて,10の章が次に示すような3部構成になっており,終章で本書のテーマである「公教育普及と教育統治」についての総括と今後の研究課題が示されている。
 第1部 独立革命期における公教育思想の形成
 第2部 ボストン・エリートにおける公教育思想の形成
 第3部 新たな教授学思想の起源
 ここで描かれるのは,独立革命期から1830年頃までの,ボストンのエリート階級(ジョン・アダムズ,サミュエル・アダムズ,ウィリアム・チャニング,フランシス・ウェイランドなど)による公教育思想の形成過程と制度化された公教育である。著者が本書の特色としていくつかあげている中で,人間形成の理論と公教育思想の関係性への着目(自由で自立的な人間の内面形成と主体的な国民・市民の形成がどのような関係として把握されているか)とともに,当時の教授理論や教科書の検討をふまえて,教室での教師-生徒関係を軸とした教育実践とその変遷が分析されているのが,筆者には特に興味深かった。
 本書は思想史研究,ボストン研究,公教育史研究,教授学・教育実践研究など,さまざまな関心から読まれ得るし,そのように検討されて然るべきであろう。個々の論点や論証の説得性の濃淡にいくつか疑問がないわけではないが,これらを個別にではなく総合されたものとして一つの像を提示したところに著者は本書の意義をとらえているのではないだろうか。著者が先行研究について示唆している通り,この20年にアメリカ教育史研究の風景は変わってきたし,教育における「近代」性の論議についてはフーコーをひくまでもないだろう。20年にわたる教育思想と制度の実証研究の上に,近代教育のテクノロジー研究をここ数年深めてきた,その全体の接合が成功しているか否かが問われると思う。さまざまな人物や事項が,複数の章で違った分析視角から検討されている構成を考えると,人名索引や事項索引があったら,読者が自分の関心からさらに読み込む助けとなっただろう。教育史学会や日本教育学会で精力的に発表を続けてきた著者が,アメリカ学会でも新しい研究成果を発表してくれることを期待したい。
中村(笹本)雅子(桜美林大学)


小谷真理 著
『エイリアン・ベッドフェロウズ』
(松柏社,2004年,1,900円)

 褪せないひと,というのだろう。10年以上前の評論を集めながら,こんなにスリリングに読めてしまうのだから。SFアニメ『TAMALA2010』になぞらえつつ「エイリアン文学」を解説する序論につづいて,名著『女性状無意識──テクノガイネーシス』(1994年)にいたる明解な作品読解を存分に堪能できる第1部は,91~92年にかけて雑誌連載されたSF評論をまとめたもの。これが本書のほぼ三分の二を占める。そして,その後もより軽妙により広範に,サブカルチャーを読み解きつづける小谷氏の作品論を集めた第2部と第3部は,95~98年に雑誌掲載されたもの。もちろん全編にわたり改稿されていて,コタニストにとってまことにタマラない評論集だ。
 序論「はじめに」冒頭で,フェミニストSF学者マーリーン・バーの言葉を借りながら,「エイリアンなる隠喩」とは,中流白人男性的規範から「逸脱した存在」をあらわすものとする。そしてその言葉通り,「ロボット」「サイボーグ」「ネイティヴ」「ペット」「ゴーレム」「昆虫」といった逸脱のキーワードとともに,パット・マーフィー,タニス・リー,ナオミ・ミチスン,マージ・ピアシイなどなど,20を超える女性SF作家の諸作品が見事に料理されていくさまは,達人の腕さばきを見る思いだ。そればかりか,カークとスポックの同性愛をつづるファン小説「K/Sフィクション」や,性転換者ケイト・ボーンスタインの自叙『ジェンダー・アウトロー』,金持ちディレッタントにして女装麗人スティーヴン・テナントの生涯といった逸脱的ジャンル作品までが俎板に載せられると,「エイリアン文学」とはエイリアンをあつかった文学にとどまらず,発生学的にも異質な文学のことだったのかと,ハタと膝を打つ。
 そもそも「エイリアン」という隠喩は,先のバーの引用にもあるように,決定不可能性がその本質とされる。つまり,エイリアンとは隠喩というレトリシティそのものの隠喩だった。それゆえに古来ドミナントな文化によって周縁化された存在は,みなエイリアン化されて忠誠を誓う。ところが,小谷氏のあつかう女性作家たちは,「異星愛」からエイリアンたちを愛し,ベッドフェロウとして支配的レトリシティを受けいれ,(作品という)ハイブリッドな子までなしてしまう。ここにいたって,隠喩というレトリシティそのものの隠喩であるところのエイリアンたちは,近代以降の小説のテーマである愛とか支配とかいった問題を根もとから覆す。支配の手段を愛すること(鞭を愛すること),そしてそれを作品として顕在化することで,「隠喩」の潜在的支配イデオロギーを暴いてしまうからだ。論考の中に各作品の隠喩的意味を探るという姿勢が強く出てくるのも,そのような事情からだろう。とにかくこれから小谷氏がどちらに向かうのか,そういう興味もそそられる研究書だ。
高尾直知(中央大学)


Noriko Kawamura Ishii
American Women Missionaries at
Kobe College, 1873-1909
(Routledge,2004年,8,038円)

 アメリカ研究,アメリカ史の国際化が,アメリカ本国のアメリカ研究者,アメリカ史家にとっての大きな課題とされはじめてから,もうかなりの時間が経過した。しかし,その課題の大きさゆえか,あるいは,グローバル化がますます進む今日的状況のゆえだろうか,その追求の熱は冷めるどころか,一層強まってきている。そういえば,来年のバークシャー会議のテーマも,“Sin Fronteras: Womens Histories, Global Conversations”である。その中で,かつては抹香臭く,うさん臭い(マルキシズム的観点からすると)テーマとして,神学校につながる研究者以外からはあまり顧みられなかった宣教師やキリスト教伝道の研究が,一般のアカデミズムに属する研究者の中で,徐々にではあるが,関心を集めてきている。宣教師は何と言っても,グローバルなエージェントとして先駆者の一であり,宣教師的アプローチはアメリカの他者への接近の型の一つである。残された資料も豊富で,トランスナショナルなアメリカ研究,アメリカ史という意味で,有望なテーマなのである。キャサリン・ホールがCivilizing Subjectsを著わしたように,イギリス帝国の研究においても宣教師が重視され始めている。
 アメリカの研究者が海外伝道の研究をする際,最大の難関となるのは,宣教師の赴いた先の言語の習得であろう。どうしても,英語の文献に頼りがちになり,伝道を受けた側の観点が描ききれない。この点,「伝道地」出身のアメリカ研究者が大いに期待されるところである。本書は,著者がジョージ・ワシントン大学に提出した博士論文を土台とする,神戸女学院に関わった宣教師,日本人に関するケース・スタディであり,アメリカン・ボード側の資料と神戸女学院に残る卒業生関連資料の両方を用いた,上述の期待に応える労作である。
 第1章は,序論で,先行研究の概観のあと,本研究の2つのテーマ,すなわち,かつてパトリシア・ヒルがThe World Their Householdの中で展開した,伝道事業の専門化というテーマが,宣教師レベルで実際に進行していたことを論証すること,そして,伝道事業の研究には,ネイティヴの側の物語が必要だという,ペギー・パスコらの指摘に応えることが紹介される。第2章は,アメリカン・ボードにおける婦人伝道局の設立と役割を特に,神戸女学院を支援した中部婦人伝道局(WBMI)を中心に描いた上で,1873年から1909年に同女学院に着任した宣教師の経歴を検討し,専門化の傾向を指摘する。第3章は1873年から83年までの神戸女学院草創期の宣教師の仕事を明らかにしながら,その福音主義的,伝道第一の姿勢を指摘する。第4章は,1883年から1909年の時期に,ナショナリズムが高揚する日本において,高等部を設立しようとした,専門化傾向の強い宣教師たちの奮闘が描かれる。第5章は,神戸女学院の卒業生が,ミッションの教育をいかにその後の人生に利用したかが分析される。資料の残る卒業生数が少ないのが残念だが,それでも経年変化の様子はとらえられている。第6章では1910年から27年までの,宣教師の支配力が弱体化する時期が扱われる。
 テーマの目新しさには欠けるものの,神戸女学院卒業生の洗礼率や夫の職業などをはじめとして,丹念に一次資料から拾われた情報が貴重な,堅実な研究書である。
小檜山 ルイ(東京女子大学)


林 文代著
『迷宮としてのテクスト
━━フォークナー的エクリチュールへの誘い』
(東京大学出版会,2004年,6,200円)

 本書はフォークナーのいくつかの短編を分析した第一部「フォークナー的迷宮についての覚書」と,代表的な三つの初期長編小説を論ずる第二部「迷宮としてのテクスト」からなる。前者では謎,探求(追跡),変身といったキー概念が準備され,それらは派生的モチーフを暗示しながら第二部へと読者を導く。
 冒頭林氏は,「南部作家」というレッテルにとらわれずにフォークナーを読み,そうすることで独自色を出したいと明言される。そのために氏は工夫を凝らす。例えば第一部では,日本であまり取りあげられなかった初期の短編が俎上にのぼる。「ニンフォレプシー」や「ブラック・ミュージック」がそれで,「丘」や『メーデー』といったおなじみの作品よりも扱いが丁寧。特に「ブラック・ミュージック」については,第二部へのつなぎとして「探索」というテーマを導き出すため,多くの枚数が費やされる。
 「紋切り型解釈」を避けたフォークナー理解に至ろうとする林氏は,「南部」を離れた視点からフォークナーをアメリカ文学の流れのなかに置こうとする。そこで現代作家ピンチョンや,逆に19世紀作家ポーの作品がフォークナーの世界と接点を持つことが示される。「高所から眼下を見下ろす」(『競売ナンバー49の叫び』)行為,また「謎の人物を読み解こうとする探求者」(「群集の人」)といったモチーフをふたりの作品から引き出し,フォークナーとの類似的問題意識を説く。フォークナーの代表的長編を「エントロピー」を用いて読み解くために,林氏は第二部でもピンチョンについて言及している。
 第一部で提示されたモチーフは第二部で発展的に論じられるから,スタート点から出発した弧が,やがて円に仕上がってゆくのを読者は感じる。だが円は「始め」があって「終わり」へと導くものではない。本書も同じ。作品に頻出する「対立するものの同時的配置」に着目する林氏にすれば,作品に横たわる謎をめぐり,安易な解明と答えを引き出すことは肯んじ得ないからである。フォークナーの世界とは,読者にとってウンベルト・エーコのいう「リゾーム的迷宮」,迷路を抜け出ると次の迷路につながってゆく「潜在的に無限であるような迷路」なのだ,と氏は考える。だから本書を読了したとき読者が感じるのは,氏の議論が完結することによって逆に謎が深まった,という思いだろう。
 「南部作家」という便利なツールを拒否,昨今のかまびすしいイデオロギー読みをも排し,虚心坦懐に作品を読む。そのためならテクストの「謎」を見つけ食らいついて離さないぞ,というスッポン的(妄言多謝!)不撓不屈の闘魂──氏の言葉では「楽しみ」──こそが本書の真骨頂である。しなやかで明晰な推理能力,かつ推理結果を整然と秩序立てながら読者の首肯を誘う豊かな言語能力とがあいまって,本書は出色のフォークナー研究書に仕上がった。
杉山直人(関西学院大学)


平石貴樹・宮脇俊文編著
『レイ,ぼくらと話そう』
(南雲堂,2004年,2,500円)

 作家レイモンド・カーヴァーが日本に紹介されてから20年を経て,ついに単行本としては初の本格的な論文集が刊行された。奇しくも村上春樹が翻訳した全集(中央公論新社,全八巻)も今年七月に完結し,カーヴァーを読み直す絶好の機会が訪れたといえるだろう。 
 本書最大の特徴は,従来の「ミニマリズム文学」という枠組みを超えて,意欲的なアプローチに基づいた論考が数多く並んでいる点である。たとえば,カーヴァーの作品に漂う「閉塞感」をネイティヴ・アメリカンの世界と結びつけることで,白人労働者階級の微視的な事象にとどまる作家のイメージが覆される(宮脇俊文)。また,ロバート・アルトマンによる映画化とその群像劇の手法を手掛かりに「グローバル時代のスモールタウン」を読み解く解釈(巽孝之)は,9・11を媒介にピンチョンとカーヴァーの「点対称をなす双世界」を見通す論考(千石英世)と呼応しつつ,カーヴァー作品における極小と極大が渾然一体となる様を描き出している。
 一方,小品「シェフの家」における登場人物の心情を丹念に追うことで作品の形式的必然性を導きだす読解(平石貴樹)や,作品を貫く「食べる」というモチーフが「関係の崩壊の一見微笑ましい予告編」として機能することを分析した論考(柴田元幸)は,作品の内的世界をストイックに掘り下げることで豊かな成果を生んでいる。また,カーヴァーが「愛」と「死」を謳う際の「倫理」に美しさを見いだし(渡辺信二),「思い通りにならない人生」をおくる登場人物に「子供の影」が致命的に重要な役割を果たしていることを看破する(後藤和彦)論者の姿勢は,作家の人生に肉迫すると同時に読者の態度をも問いただす。
 さらに,編集者と作家の濃密な関係をテキストに重ねあわせる洞察(青山南)や,最晩年の小説に新たな文学的萌芽を夢見るエッセイ(篠原一)も,作品への繊細な眼差しが際立っている。
 なかでも,クイア・リーディングの可能性を示唆しながらそれを最終的に「誤読」であるとして退ける三浦玲一の論文は,とりわけ刺激に満ちている。論者は作品に頻出する不定代名詞somethingに着目することでテキストがはらむ「無意味さ」を指摘する(言うまでもなく,この言語の空洞化は我が国におけるカーヴァー受容の媒介者,村上春樹の小説に対する批評にもなっている)。ここで問われているのは「作品に描かれる人生の真実」ではなく,「何故カーヴァーの作品には人生の真実が描かれているようにみえるのか」という語り口の問題である。作品が誘惑的に引き起こす転移に抗い,かつ批評理論をも相対化せざるを得ない論者の身振りにこそ,レイモンド・カーヴァーという作家に対峙する困難が象徴的に現れているようにみえる。
 いずれにせよ,かくも充実した論考が並ぶ本書──冒頭にはラリイ・マキャフリイとシンダ・グレゴリーによるカーヴァーのインタビュー(鈴木淑美訳),それに巻末には詳細な年表(深谷素子編)も収録されている──は,今後カーヴァーを論じるさいに欠くことのできない一冊となるだろう。──It's really something.
大和田俊之(実践女子大学)


新田玲子著
『クラフツマン・サリンジャーの挑戦
 サリンジャーなんかこわくない━━
   テキストの重層化とポストモダン的試み』
(大阪教育図書,2004年,9,500円)

 全500ページを越える大作である。これまでの日米両国でのサリンジャー批評が見逃してきた「サリンジャーが本来意図した〈作品の意味〉を明らかに」し,「クラフツマン・サリンジャーの技巧に注目」するばかりか,サリンジャーの「ポストモダン的性格」まで明らかにせんとした意欲作である。
 「まえがき」ではこれまでのサリンジャー批評が「サリンジャーの著作活動全体に対する視野が欠如している点」や「議論が表層に終始している」点を根拠に批判される。たしかに本書はサリンジャーの著作活動全体(さらにはベローやカーヴァーやレーヴィットといった他の作家への言及までも)を網羅している。サリンジャーの作品は実は「重層化」されており,目に見える「表層」だけを読み取るのでは不十分であり,「深層」を読み取らないことには「作品の意味」(=著者サリンジャーの意図)は読み取れないのだという。
 その「深層」を読むために著者が導入するのが独自の「解釈記号」である。たとえば「タバコ」は「心と心が触れ合うコミュニケーションの可能性」を示唆するのであり,タバコに火をつけるのはコミュニケーションしようと心を開いている状態,逆に消すことはそのコミュニケーションが終わったり,不調なことを示すのだという。このようないくつかの「解釈記号」を鍵にサリンジャー作品の「深層」が探られるのであるが,実はこれらの「解釈記号」は「外国語と同じで,ひとたび使い方を理解すれば,解釈記号によるどの深層も機械的に翻訳できるようになる」のだそうだ。そのような読解方法があるとは,たしかに著者が再三主張しているように,これまでのサリンジャー研究が明らかにせずにきたことであろう。まずはその「外国語」を学ばない限り,サリンジャーの「深層」へは近づけないわけで,そのような手法を導入した点において本書はたしかに画期的である。
 たとえば,それぞれの「解釈記号」の意味じたいがあくまで仮定にすぎないのに,その「解釈記号」を根拠に作品を読解するため,議論じたいに拠り所がないように感じられたり,「解釈記号」がサリンジャーによって「導入された」という表現にもあるように(そして「クラフツマン」という表現からもわかるように),そういった記号をサリンジャー自身が意図を持って作中に埋めこんだのであれば,それは「解釈記号」という呼び方は不自然であるとか,「著者の意図」を探ることより作品の読みの多様さを尊ぶような読者には当然違和感が感じられるであろうことなど,欠点がないわけではない。
 ただ,サリンジャーのテキストが重層的だ,というのは非常に重要な発見であると思われるし,その「深層」が「表層」とは違うものを表しているならば,作品の解釈,評価にも大きな影響を及ぼすだろう。内外のサリンジャー研究者からの反応が楽しみな一冊であることは間違いない。
秋元孝文(甲南大学)

2004年11月05日 | アメリカ学会会報