会報182号(巻頭言) << TOPページ <<  会報183号(巻頭言)

会報183号(新刊紹介)

横山佐紀著 著
『ナショナル・ポートレート・ギャラリー その思想と歴史』
(三元社,2013 年,5,985 円)
 筆者の研究室には,アメリカ歴代大統領の肖像が一面に並ぶプラスティック製の下敷き様のものが飾ってある。下敷き二枚分ほどの大きさに初代から時系列に大統領が並び,中央に第 35 代ケネディ大統領が大きく位置する。この製品を購入したのがボストンのケネディ大統領図書館兼博物館だからだ。裏面には歴代のファーストレディーの肖像が同様に並ぶ。折に触れてこれらの肖像を眺めては「この大統領は二人の女性と結婚したのか」などと他愛のないことを考えつつ,同時に「大統領」をずらりと並べて手元に置けるよう製品化するメンタリティにアメリカ(人)のアイデンティティの根幹に関わる何かがあるのではないか,とぼんやり感じていた。この言語化できずにいたものが,まさに本書の中心命題である。
 アメリカ合衆国の歴史に貢献した人々の肖像・彫像ポートレートを文字通りずらりと展示するナショナル・ポートレート・ギャラリー(NPG)は,1968 年にワシントンで開館した。大統領ポートレートを中核とし,「ポートレートのコレクションによって国家のアイデンティティを表象する」ことが第一義とされる「歴史ミュージアム」である。著者があえて"ミュージアム"とカタカナ表記を使うように,それは美術館ではない。そこは収蔵されるポートレートの芸術的価値より,描かれた人物の米国史における重要性が優先されるような,極めて政治的な空間だ。愛国心と国家的アイデンティティの問題を初めから含むこの特異なミュージアムの成立史と運営を丹念に追いつつ,本書は結果的にアメリカ精神史を──いかにアメリカという国が精神的に形成されたかを,描き出している。
 第一章は NPG が手本とした NPG ロンドン(1856 年開館)の成立過程を 19 世紀ナショナリズムの文脈から確認する。第二章はアメリカで 18 世紀から構想されてきた"ポートレートから成るギャラリー"の共和主義的源泉を辿る。後半第三・四章は NPG 設立のための実際の手続きと開館後の諸問題を,1950 年代から 911 を経るまでの歴史的ダイナミズムの中で捉える。「栄誉の殿堂ではない」とする NPG の理念──つまり英雄も犯罪者もコレクションに含むという原則は,冷戦や国内問題を抱えて国全体が愛国的に傾いた開館前夜の時代,いかに死守されたか。NPG ロンドンに倣いつつも,大統領ポートレートを特権化することで,いかにアメリカ独自の NPG が創出されたか。政府が文化政策に積極的でないアメリカで,公共ミュージアムにどれほど民間資金プライベート・セクターが絡み,ナショナルな歴史記述に影響を与えているか──。これら刺激的な問題設定と,堅実かつ鮮やかな解読の手並みは,時にスリリングでさえある。いかにアメリカの NPG を作り上げるかという問題は,とりもなおさず「アメリカとは何者か」を問うことである。アメリカに関わる全ての人の必読書であろう。
小笠原亜衣(玉川大学)

杉野健太郎 編
『交錯する映画──アニメ・映画・文学』
(ミネルヴァ書房,2013 年,4,410 円)
 映画は,その誕生以来,演劇や小説などの様々な他のメディアと交錯してきた。映画黎明期の社会改良諸運動が盛んであったアメリカ社会において,排斥対象となった「低俗」な映画の社会的地位を向上させるために,アメリカ映画産業は「高級」な文学や演劇などのミディアムを活用し,中産階級にまで受け入れられる万人向けの「ハリウッド映画」を形成していった。それ以降も,古典的ハリウッド映画の文法が主流の時代がありながらも,様々なメディアとの 1 世紀以上にもわたる交通のもとで,映画が生成された。本書では,今まで映画学研究で看過されてきた様々なメディア(アニメ,文学など)との連関の視座から,その映画が交錯する様相またその情況下の映画の「重層的な意味と構造と歴史」を検討することが試みられている。
 本書は,I 部「映画とアニメ」,II 部「映画と文学」,III 部「メディア,ジャンルと映画」の三部(全九章)から構成されている。I 部の板倉史明論文では,古典的ハリウッド映画の文脈を射程に入れながら日本の戦中・戦時アニメーションを映画学的な手法を用いて検討し,続く川勝麻里論文では,宮崎駿と手塚治虫のアニメーションと漫画の関係性を分析する。II 部において,トーマス・マンの言説・ドイツ映画を考察する山本佳樹論文は,ナショナル・アイデンティティの問題(ドイツ/アメリカ)を浮上させ,一方,杉野健太郎論文では,小説『グレート・ギャツビー』とその映画の構造を比較分析し,同時代のネーション,階級,ジェンダーの問題を照射させる。山口和彦論文では,「国民国家」(資本・国家・家族)や植民地主義の問題を射程に入れながら,インド系アメリカ人女性監督の映画『その名にちなんで』及び原作小説のディアスポラ表象について考察する。III 部において,塚田幸光論文では,ヘミングウェイ文学・映画・ジャーナルなど複数のメディアをスペイン内戦の歴史的文脈に接合することで,映画・映画コンテクストの多層的様相を描き出す。川本徹論文では,文学(エマソン)・写真・絵画との交錯の観点から 1960 年代の西部劇と SF 映画を分析し,時間・空間を縦横無尽に駆け巡りながら,自然と視線の問題を綿密に検討する。小野智恵論文では,ジャンルや音楽をてがかりとして,ロバート・アルトマンの作品における古典的ハリウッド映画とのずれが検討される。さらに,御園生涼子論文では,角川映画のメディア・ミックス戦略を再考する(読者は映画・ゲーム共通の視覚様式(3D など)の創出作業に取り組んでいるルーカスアーツ社などのアメリカのメディア・ミックス戦略と比較するかもしれない)。
 このような各論者が様々なメディアの複雑な連関を検討する際に用いる多種多様なテーマや研究手法は,映画学における議論空間の広がりをもたらすであろう。また,映画学研究者にとどまらず,映画に興味を持つ人ならだれでも読み応えのある本書(初学者向けの映画用語集掲載)から映画史の重要な知見を獲得できるであろう。
梅本和弘(京都大学)

成田雅彦 著
『ホーソーンと孤児の時代──アメリカン・ルネサンスの精神史をめぐって』
(ミネルヴァ書房,2012 年,5,250 円)
 本書は 19 世紀のアメリカを「孤児の時代」と位置付け,この時代の精神と結びついたアメリカン・ルネサンス文学が「孤児のまなざし」によって特徴づけられるとし,ホーソーン作品の「孤児」意識を精査する。
 八章構成の本書は,序章「ホーソーンと孤児の精神史」でまず,イギリスという「父」を抹殺して独立を果たすと同時に,父性的権威の支柱であったピューリタニズムの伝統も退潮しつつあった 19 世紀のアメリカの時代精神を説明する。そして父性的権威の探究を行うこの時代の作家達こそがその「殺戮者であり創造者」であると説き,ホーソーンの「孤児」意識へと論が進められる。続く第 1 章「孤児の風景」は初期の 3 つの短編を扱い,登場人物達の個人的喪失感に「孤児の時代」の精神を読み解く。第 2 章「アメリカン・ロマンスという『空間』」は「税関」をとりあげ,ロマンスというジャンルを手掛ける作家の,「文学的想像力の中」に時代の言説を超える新たな「父親的権威を打ち立てる」試みを論じる。第 3 章「『緋文字』と「父親」の誕生」は,分裂を統合する「新しい父性的権威」の誕生を説く。第 4 章「『七破風の屋敷--モールの呪いと近代の神話』は,アメリカ社会の無意識的領域に封印された声を救いだすモールの役割を説く。第 5 章「詩的言語の理想郷--『ブライズデイル・ロマンス』論 I」は,セミオティックの概念を援用し,父性的権威への回帰によって打ち砕かれる,女性的想像力に依拠する詩的言語獲得の試みを論じる。第 6 章「ホーソーンと心霊主義--『ブライズデイル・ロマンス』論 II」は,19 世紀の社会改革や疑似科学の隆盛が,伝統的宗教の基盤崩壊がもたらした精神的孤児の不安と結びつくことを説く。第 7 章「カトリシズムの誘惑と救済--『大理石の牧神』をめぐって」は,カトリシズムに惹かれる作家が帰着する信仰的折り合いを論じる。
 著者が「孤児」のテーマに初めて関心を抱いたのは博士論文執筆時で,本書は,序章と最終章が書き下ろし,他の章が 30 年以上にわたり著者が発表してきたものを加筆修正した論文という構成である。『ブライズデイル・ロマンス』の「孤児」意識を考察する第 6,7 章の議論が,統合的展開に及んでおらず多少物足りなさを感じるのは,こうした経緯によるのかもしれない。しかしそれよりも本書からひしひしと伝わってくるのは,主題に対する一貫した著者の関心である。「アナクロニズムという感を免れないかもしれない」と謙遜しつつ,著者は「個人の精神分析と宗教,そして文化批評を重ねる試みは,ホーソーン批評においてやはりもっとも正統的なアプローチの仕方なのではあるまいか」と主張する。精神や宗教に関わる主題を扱う著者の長年の研究が,自己矛盾せず本書に集約されているのは,著者が自身の琴線に触れる問題に深い洞察のまなざしを向けてきた所以であろう。そして今年度,日本ナサニエル・ホーソーン協会会長に就任した成田氏は,まさに本書が論じる世代交代に伴う新たな「父性的権威」創設の重責を感じておられるのではないだろうか。ホーソーン研究のありように一石を投じる本書は,著者が自身に向けた書のようにも思える。中西佳世子(京都産業大学)

海老根静江 著
『総体としてのヘンリー・ジェイムズ──ジェイムズの小説とモダニティ』
(彩流社,2012 年,2,940 円)
 近刊のアメリカ文学研究の論集で,斬新なヘンリー・ジェイムズ論が散見されるのは,ジェイムズ研究における新たな批評的アプローチの可能性の表れであろう。その中で,長年に亘るジェイムズ研究の集大成として著者が本書を上梓されたのは,時宜を得たものであり,また各論ではなく「総体として」ジェイムズを捉え包括した本書のような企図は,ジェイムズ研究者やアメリカ文学研究者が待ち望んでいたものである。
 著者がフォークナーやバルザックと比較して論じているように,ジェイムズの各作品には完結性や独立性があるのは周知のことである。しかし,本書はその重層性や様々な関係性,いわば間テクスト性をレオ・ベルサーニやイヴ・K・セジウィックの理論を援用しながら前景化し,ジェイムズの「リアリズム小説」の構造を解き明かすのである。そこには,ジェイムズの著作だけではなく,同時代の欧米の作家や思想家の著作など,広汎な読書と知識に裏付けられた著者の文学観が浮かび上がってくる。とりわけ,欧米における「モダニティ」と,近代研究において重要な「セクシュアリティ」についての考察が本書で展開されたジェイムズ論の主軸となる切り口である。
 七章から成る本書のほとんどが今回書き下ろされたものであり,なかでも第一章「模索するヘンリー・ジェイムズ」と第二章「『円熟期』小説の構造」にジェイムズ研究者/文学研究者としての著者の卓識が存分に発揮されており,それを巧みに補強するように後半の章が展開される。短編小説群を世紀転換期の文化現象やクイア批評の観点から読み解く第三章,バルザック,トルストイ,フローベール,プルーストといった,ジェイムズと同時代の作家たちとの関係性を論じる第四章などが続く。
 第五章で詳述される,ジェイムズの創作論として有名な建築のメタファー「フィクション(小説)の家」は,著者のジェイムズ研究に対する視座に重なり,本書の核となる最初の二章ともリンクする。ジェイムズの小説を「家」に擬えるならば,そのいくつもの「窓」は小説の多様な形式を表す。著者はその「窓」を通して,小説の構造や登場人物の意識など,内部を「覗く」内向きのベクトルだけではなく,特に「円熟期」の小説論では,社会や文化,つまり外の世界とどのようにつながっているかを眺める外向きのベクトルを注視し,ジェイムズの「家」が外に開かれていることを主張する。そして,いくつもの「窓」から見える外の景色には,まさに様々なパラダイムが解体していく近代の胎動が立ち現われ,都市,資本主義,物質主義,セクシュアリティ,身体,主体,意識といったモダニティの諸要素が構築する,ジェイムズの「リアリズム小説」としての複雑で重層的な構造が逆照射されるのである。それがもっとも効果的に,しかも複雑な文学テクストとして構築されたのが,著者が「究極の一作」と評価する『黄金の盃』であるという。ジェイムズの小説を「モダニティ」の文脈で相対化しつつ,「総体としての」ジェイムズの不可視性を逆説的に示唆しているようにも思われる。本書はジェイムズ研究の広がりと豊かさを巨視的に提示してくれる啓発的な書である。石塚 則子(同志社大学)

高野一良 著
『アメリカン・フロンティアの原風景──西部劇・先住民・奴隷制・科学・宗教』
(風濤社,2013 年,2,625 円)
 メイン・タイトルの一部をなす「フロンティア」の一語から推測されるかもしれない,フレデリック・ジャクソン・ターナーの学説の紹介やそれをめぐる議論は,本書では最低限に切り詰められている。代わりに著者が調査探究しようというのは「フロンティアをめぐる歴史物語」。その中でも「有名人やメジャーな出来事」ではなく,多種多様の「マイナーな個人や出来事」を前景化することに力点が置かれている。分かりやすい例を挙げるなら,かの「ワイルド・ウェスト」ショーを創始したバッファロー・ビルや,それに出演したシッティング・ブルよりも,知名度という点ではやや劣る,「インディアン・ギャラリー」を開設したジョージ・カトリンや,彼が肖像画を描いたブラック・ホークが大々的に取り上げられている(第 2 章の後半と第 3 章)。狭い意味での学問よりも,日々の生活の場,とりわけ忘却の波にさらされた場を注視することで,はじめて顕在化するフロンティアの姿。そこに著者の一貫した関心が注がれていることを,読者は何よりもまず肝に銘じる必要がある。
 本書のサブ・タイトルには 5 つのキーワードが掲げられているが,著者の歴史観が明快に綴られた第 1 章につづく 5 つのチャプター(その原型は 1995 年から 2006 年までに発表された諸論考)が,キーワードのひとつひとつに対応するわけではないことに,注意を喚起しておきたい。簡単に整理するなら,5 つのキーワードの内,「西部劇」はモニュメント・ヴァレーの風景の特質,映画内での人間ドラマとの関わり合いを考究する第 2 章の前半に,「科学」はロジャー・ウィリアムズ,ウィリアム・ウッド,トマス・ジェファソンらの人種をめぐる博物学的言説によってピューリタニズムを相対化する第 4 章に,そして「奴隷制」と「宗教」は,ピーター・カートライト,チャールズ・グランディソン・フィニー,ウィリアム・エラリー・チャニングら宗教人の反奴隷制言説の通弊を暴く第 6 章に,それぞれ該当する。残る「先住民」はほぼ全章を横断する本書最大のキーワードと言えるのだが,サブ・タイトルには掲げられていないものの,「先住民」と同様の重要性を備えたキーワードとして,いま注目を促したいのは「女性」である。とりわけ 2 人の女性作家のテクストが脚光を浴びていること,すなわちキャサリン・マリア・セジウィックの歴史小説『ホープ・レスリー』の文学的意義が第 5 章で精査され,またマーガレット・フラーの旅行記『五大湖の夏』(著者自身の手になる邦訳は 2011 年に未知谷より刊行)が第 3 章を中心に本書の随所で論及されていることは,特筆に値しよう。実際のところ,第 6 章において著者が白人キリスト教イデオロギーの批判的視座を見出すのも,セジウィックとフラーの前掲著作の内部に他ならない。
 かくして本書で我々が目にするのは,これまで以上に色彩豊かなアメリカン・フロンティア研究の風景。紆余曲折をへて,いままたアメリカ研究の重要テーマとなりつつあるフロンティアの再考にむけて,多くの刺激的な論点を提供してくれる本書の刊行を心から喜びたい。
川本 徹(日本学術振興会特別研究員)

青野利彦 著
『「危機の年」の冷戦と同盟──ベルリン,キューバ,デタント 1961-63 年』
(有斐閣,2012 年,3,990 円)
 本書は,1960 年代初頭のケネディ政権期に生じた二つの国際危機,ベルリン危機とキューバ危機におけるアメリカ外交の展開を,米ソ二大国関係と西側同盟政治の交錯の視点から描く実証的外交史研究である。先行研究との比較でいえば,本書は西側同盟内政治の展開により多くの注意を払い,一見米ソ二大国が一方的な行動をとった事例と解釈されがちな二つの危機において,ケネディ政権の対ソ政策の検討(選択肢の幅,交渉のタイミング・ペース)がいかに同盟諸国への配慮によって拘束されていたかを明快に論じている。ベルリンとキューバという相互に連関する二つの危機は,米ソの戦略関係を決定的に悪化させる可能性を秘めた危機であったと同時に,両危機への対応を巡ってケネディ政権が,イギリス政府と連携を図りつつも,対ソ政策に関して見解を違える仏・西独と NATO 小国の狭間で結束維持に苦心した同盟管理上の危機でもあったというのが本書の主張である。同盟の危機が叫ばれるほど関係が緊迫したのは,二つの危機それ自体が世界大の紛争(核戦争)を惹起する可能性を持ち,片方の問題への対処の失敗が即他方の問題の悪化につながる連動性を有していたことにとどまらない。著者によれば,両危機が米ソのみならず西欧同盟諸国にとっても死活的に重要な 5 つの「ドイツをめぐる諸問題」(ドイツ統一,ベルリン,核不拡散,東西不可侵協定,核実験禁止)と常に関連していたからでもあった。この二つの国際危機とその基底に横たわる 5 つの争点の相互作用の展開を本書は丹念に描き出し,随所で先行研究の議論に対する精緻な解釈の修正を提示している。
 秀逸な同盟研究の本書で,特に興味深かった点を二点紹介したい。第一は,著者の指摘する二重の信頼性(「同盟防衛の信頼性」と「危機不拡大の信頼性」)の問題である。冷戦期全体を通して,戦後歴代米政権は同盟国から見たアメリカの信頼性の維持に腐心した。二つの大危機に直面したケネディはまさに同盟国の防衛に関するアメリカの信頼性の維持にひときわ努めなければならなかったことは容易に理解できるが,同時に軍事的エスカレーションに伴う同盟国の離反を防ぐために,「危機不拡大の信頼性」の維持にも細心の注意を払っていたとの指摘は興味深い。決然たる対抗姿勢と危機の亢進回避の両立が,危機時代の外交の要諦なのであろう。
 第二に本書は,米ソの相互不信とともに,西側同盟諸国による反対がキューバ危機後の米ソの包括的な関係改善を阻害した主要因であったことを明らかにしている。従来の冷戦史研究は,どちらかといえば西側同盟諸国がいかにアメリカの過剰反応を抑制し,冷戦の緊張緩和を推進してきたかを論じてきたのに対し,本書は,仏・西独や NATO 小国の反対がキューバ危機後の「1963 年デタント」の発展に「ブレーキ」をかけ,米ソ協調が上記 5 つの争点のうち部分的核実験禁止条約の締結のみにとどまった経緯を実に明瞭に論じている。
 なお,本書は 2013 年アメリカ学会清水博賞受賞作である。ご一読をお薦めしたい。
水本義彦(獨協大学)

神田外語大学アメリカ研究会 訳
『アメリカのエスニシティー人種的融和を目指す多民族国家』(アダルベルト・アギーレ・ジュニア,ジョナサン・H・ターナー著)
(明石書店,2013 年,5,040 円)
 本書はアメリカ合衆国内の人種・エスニック集団が直面する問題とその背景について分析したアルベルト・アギーレ・ジュニアとジョナサン・ターナーによる研究入門書の第 5 版の訳書である。10 章からなる本書は,エスニシティとエスニック関係を論じるための基礎的概念と用語,そして既存の理論を解説した章(第 1 章,第 2 章)と,各集団の現状を解説した章から成っている(第 3 章から第 10 章)。
 本書の大きな特徴はエスニック関係に関する既存の理論の主張をまとめ,エスニック集団を取り巻く差別の実態を,法制度,経済,政治,教育,住居といった共通の社会的指標を用いて客観的に分析している点である。本書は多くの数的データを用いて統一された分析枠組から各エスニック集団の考察を行ったことで,白人系エスニック・グループ(第 4 章),アフリカ系アメリカ人(第 5 章),先住アメリカ人(第 6 章),ラティーノ(第 7 章)といった,個々のエスニック集団の歴史やアメリカ国内における社会的な位置付けを体系的にまとめることに見事に成功している。こうした分析は集団間の相違点を浮き彫りにし,各集団を取り巻く社会的状況の比較を容易にする。この点で本書は研究や知識の整理の大きな手助けとなるだろう。
 今回の改訂では,従来のアジア系アメリカ人の論考に太平洋諸島系が大きく加えられた(第 8 章)。太平洋諸島系はこれまでアジア系と統計が一括りにされてきたが,最近その一部が分離されたことに本書は鋭く反応し,この集団のみに注目した追跡調査が行われている。先住ハワイ人,サモア系,グアム系を始めとする太平洋諸島系は人口こそ少ないが,彼らへの差別の歴史と現代における問題は,本書で扱われているように今後さらに注目されていくべき事柄だろう。
 さらに新たに加えられたアラブ系アメリカ人についての分析はとても興味深い(第 9 章)。9.11 同時多発テロ事件までアジア系アメリカ人の一部として曖昧な位置付けにされがちであったアラブ系アメリカ人だが,事件を境にヘイト・クライムの対象となったことで,皮肉にもアメリカ社会において急速に可視的な存在となった。アラブ系アメリカ人とは誰なのか,アメリカでどのような状況に直面しているのか,アラブ系アメリカ人に対する関心が高まっている今日だからこそ彼らに焦点を当て,現在彼らを取り巻く状況を詳細に,かつ簡潔にまとめている本書はますます重要である。
 本書は既に実用的な教科書として合衆国で多く利用されており,その面においても有益だろう。巻末には充実した用語解説集とアメリカのエスニシティ研究に関する基礎的な参考文献が多く掲載されており,書中に紹介された本書のウェブサイトも学習の大きな手助けとなる。
 このように理論から現代的な問題までを扱った本書は,学部学生から研究者までを含む幅広い層の興味に応える内容となっており,アメリカの人種・エスニシティに関心がある者にとって必携の一冊となるだろう。
上田貴和子(一橋大学大学院)

和泉真澄 訳
『カナダへ渡った広島移民──移住の始まりから真珠湾攻撃前夜まで』
(明石書店,2012 年,4,200 円)
 本書は,広島移民を両親に持つ日系カナダ人二世の著者が,1983 年の初の日本訪問をきっかけに,幼少期にバンクーバーで見た自信に満ちた日本人移民が生きた日系コミュニティを調査した研究書である。広島移民およびその子孫にインタビューを行い,「地域アイデンティティが個人の行動とコミュニティ形成に,どのような影響を与えるか」を明らかにしようとしている。
 第一章「ふるさと,広島」では,広島県の歴史的,経済的,社会的背景を述べ,広島県から多くの移民が送りだされた理由を示している。明治政府の近代化政策の下,農民や漁民の生活基盤が崩れるなかで,江戸時代から他の地域に働きに出る習慣を持っていた広島県の人びとは海外に働きに行くことを「次のステップ」として受け入れたと著者は説明する。また,海外からの送金が移民を出稼ぎに引き付けたプル要因となったとされる。第二章「初期の移民たち」では,移民会社を通して契約労働者として移民した広島県出身者たちの経験が紹介されている。仕事を求めてシアトルやポートランドなどから国境を越えて移住する労働者の例が興味深い。第三章「出稼ぎとその後」では,移住先でも同郷のネットワークが根付いていたことが示されている。第四章「女性の到来」では,移住した多くの女性は教育程度が高く,独立心が強いため,日本の封建的な制度を逃れようとして「アメリカと結婚する」という強い信念を持っていたことが指摘されている。しかし,移住後,彼女たちは生活のために厳しい労働や孤独に耐えなければならなかった。今まで顧みられることが少なかった彼女たちの声を拾い上げた点は特筆に値する。第五章「農業者たち」では,家族全員で農業に従事し,組織を作って排日に対処し,農業コミュニティでリーダーシップを発揮する移民の姿が詳細に述べられている。第六章「分裂する都市コミュニティ」では,日系コミュニティを構成した多様な職種の中で多数を占めた労働者の運動や労使の対立が詳細に記され,日系コミュニティが一枚岩ではなかったことがわかる。第七章「二世世代」および結章で,一世が二世に日本の伝統や文化に誇りを持たせることで差別に対抗させようとしたが,一世の伝える「日本」は彼らが実際に体験したものではなく,彼らが夢見た想像の産物であるという指摘は大変興味深い。二世は一世が大きな影響力を持つ日系コミュニティと白人中心のカナダ社会との間で苦悩することになったが,これらの指摘はインタビューだけでなく,日系二世である著者自身の育った環境への観察や経験に裏打ちされたものであろう。
 以上,本書は多くの広島移民及びその子どもへのインタビューや一次史料に基づき,多様な立場や語りを示している。著者はインタビューの難しさを認めつつも,一つの視点に偏らず,日系コミュニティを生き生きと描いている。出身地の影響だけでなく,移住地であるカナダ社会での経験やその影響などから広島移民の多様性が明らかにされている。こうした点にも,著者の緻密な研究の成果が反映されているのではないか。
増田直子(日本女子大学・非)